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第参話──九十九ノ段
【拾】二人ノ禿
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――一方、珊瑚の間では……。
「うわっ! 何をする!」
蛾の変化を解いた途端、座敷に投げ込まれたハルアキは、畳の上に転がって悲鳴を上げた。
「痛いぞ!」
と、腰を擦りながら身を起こしたところで、キョトンとした桜子と目が合った。
「……あんた、どうやって忍び込んだの?」
ハルアキは慌てた。
「あ、いや、その、これには深い事情が……」
「どうせ、置いてかれるのが寂しくてついて来たんでしょ」
「さ、寂しくなどないわ……」
……事務所から桜子の帽子にくっついて来たとは、さすがに言えない。
歯切れの悪いハルアキからプイと視線を外し、桜子はお膳の料理に手を伸ばす。
「まあいいわ。せっかくのご馳走を残すのは勿体ないし、あんたも食べたら?」
そう言って、桜子は天ぷらにかぶり付いた。
「…………」
仕方なく、ハルアキも畳を這い、零の座布団に座る。
苛立ちをぶつけるような手つきで、桜子は海老の殻を剥く。
「本当、腹が立つわ」
パクリと海老を平らげた桜子は、今度は土瓶蒸しを器に注いだ。
「いっつもあの人はああなのよ。人の話を聞きやしない。自分だけいい顔して、私たちはほっぽらかし。ズルいわ」
「分かる、分かるぞ。彼奴の性根は全く読めぬ」
煮魚に箸を突き刺しながらハルアキが答えると、桜子は驚いた顔を見せた。
「珍しいじゃない、あんたと意見が合うなんて」
桜子は土瓶蒸しを一気に飲み干し、満足げに口を拭う。
「そもそも、こんなに邪魔にするんなら、なんで妙な理屈を捏ねてまで、私を雇った訳? 別に留守番なんていなくても、依頼人なんて滅多に来ないじゃない」
憤慨する桜子に目を向け、ハルアキは眉根を寄せた。
――その理由が、ハルアキにも分からないのだ。
桜子よりは零との付き合いは多少長いにしろ、お互い過去を深く突っ込めない理由が、彼らにはあった。
ハルアキが察するに、零は何か特別な存在から役割を与えられて、妖退治の任をこなしている。
――そして、ハルアキの存在自体が、どうやら零の討伐対象となると思われるのだ。
だが今のところ、零にその気はないらしい。彼は素知らぬ顔で、ハルアキの正体に気付かないフリをしている。
一方、ハルアキ――安倍晴明もまた、零の正体がもし、千年の時を超えて転生をし続けてきた『目的』であるならば、その命を断たなければならないのだ。
そのハルアキも、今は積極的に零の正体を探ろうとはしていない。
……居候の身である以上、彼をどうにかすれば、自分の生活も成り立たないからだ。
そんな理由で、今はお互い、当たらず触らずな距離を保っている。
だから、桜子を零が雇った時には驚いた。
世話焼きの隣人に、しつこくお手伝いを雇えと言われながらも断り続けてきたにも関わらず、桜子の顔を見た途端、逃がしてなるものかという態度で雇い入れたのだ。
――記憶の中の、最も印象に残る人に、そっくり。
零は以前そう言っていた。……それ以上は語ろうとしない彼に、ハルアキも憤りを感じていた。
恐らくこれは、嫉妬や妬みという感情なのだろう。だがそれを表に出す事を、ハルアキの気位が許さない。
そのためハルアキは、桜子を小馬鹿にした態度を取りつつ、彼女が探偵社を辞めてくれる事を願っている。
――第一、おおらかすぎる故に、怪異を取り込みやすい性質である彼女のお守りは御免蒙りたい。
まぁ、そのために、式神の術が効きやすいのもあるが。
いずれにせよ、桜子に話せる内容ではない。
煮魚をつつきつつ、ハルアキは言い訳を考えた。
「まぁ、アレじゃ。探偵には探偵の役割があるのじゃ。雑用係とは違う」
「何よそれ。私、探偵助手よ」
「ならば尚更じゃ。立場を弁えよ」
すると桜子は不満げに口を尖らせた。
「結局、あんたも私を信用してないんでしょ。……みんなそう。女だから、田舎者だからって、何も考えられない役立たずだって思ってるのよ。私だってね、探偵社に勤めるって決まった時から、色々勉強してるのよ。ミステリイ小説を読んだりね。せっかくお給料を貰ってるんだから、私だって誰かの役に立ちたいの。自分で考えて行動できる、自立した人になりたいの。なのに、誰も何も認めてくれない。それが悔しいのよ」
ハルアキは少し驚いた。ただ我が強いだけかと思っていたが、今まで知り合った女とは、少し考えが違うようだ。
箸を置き、ハルアキは桜子に顔を向ける。
「おぬしの言いたい事は分かった。じゃがな、それは間違っておる」
「何がどう違うって言うのよ?」
ハルアキは胡坐をかき、じっと桜子を見上げた。
「――彼奴は、我々に命を預けておる」
桜子は目を丸くした。
「……どういう事?」
ハルアキは考えた。そして言葉を選びながら、必要な事だけを伝える。
「とにかくじゃ。ここの階段に巣食う怨霊の正体を我々で明かせねば、彼奴は二度と戻って来られぬ。信用ならぬ者に、己の命運を託せると思うか?」
途端に桜子はガバッと立ち上がった。
「そんな大事な事を、先に言いなさいよ!」
……そう言えば、零が『死ぬ』前に、それを探り出さねばならないと言っていた。確かに、急ぐべきだろう。
「呑気に食べてる場合じゃないわ。調査する当ては?」
土瓶蒸しを飲み干してから、ハルアキは答えた。
「この料亭で、最も古くからいる、事情が分かる者に聞けばよい」
「――女将さんね!」
桜子はそう言うと、スタスタと襖に向かう。
「おぬし、酔うておるのではないのか?」
すると、桜子は振り向いた。
「あの程度で酔う訳ないじゃない。会津じゃ水と同じよ。……素面じゃ文句を言いにくかったから、酔ったフリをしたの」
侮れぬ奴じゃ。ハルアキは舌打ちした。
だが桜子の手が襖に掛かる段になってハッとした。――あの襖の向こうは異空間になっている。今開けるのはまずい!
「開けてはならぬ!」
だがその言葉が終わらぬうちに、桜子は既に襖を引いていた。
「……なんで?」
彼女の向こうにあるのはだが、行灯に照らされた情緒ある九十九段の光景だった。
ハルアキはクルンと癖のある髪をもじゃもじゃと掻き回した。……どうも今日は勘が冴えない。邪念が多すぎるのかもしれない。
「早く行くわよ」
「分かっておる! やかましいわ!」
ハルアキは渋々立ち上がった。
階段に出たハルアキは、確認するようにぐるりと周囲を見渡した。
……零に襖に投げ込まれる前、ここには異空間が発生しかかっていた。
だが、今はそんな気配が全くない。――零の気配もない。
そして、吉原を描いた屏風が目に入ると、ハルアキは愕然と声を上げた。
「おい、待て! ……この屏風……!」
「は、何よ?」
数段先まで進んでいた桜子は、仕方なさそうに戻ってくる。
「見よ。……花魁がおらぬ」
――吉原大門。そこに禿二人を引き連れた花魁が描かれていたはずだ。だがその三人ともが、初めから描かれていなかったかのように、綺麗さっぱり消えていたのだ。
だが、ハルアキと並んだ桜子は腑抜けた声を出した。
「……は?」
「は? ではない! 花魁と禿じゃ! 分からぬのか」
だが桜子は、慌てるハルアキに冷たい目を向けた。
「分からぬのか、じゃないわよ。花魁なんて、初めから描いてなかったわよ」
そこでハルアキはようやく気付いた。
――あの花魁と禿こそが、九十九段の怪異の正体だったのだ!
まさかあの絵が、常人には見えないものであったとは、考えてもいなかった。
そしてハルアキは、もうひとつの変化に気付いた。
そこに手を伸ばして、桜子に差し示す。
「ならばじゃ! あの、赤提灯の二階の窓に、明かりは灯っておったか?」
「明かり?」
――通りに面した一箇所だけ、窓が不自然に明るいのだ。
だが桜子は首を傾げ、
「何の話?」
と、蔑んだ目を彼に送っただけだった。
ハルアキは確信した。
――零は既に、この階段にはいない。
彼は今、この屏風の、あの部屋の中に閉じ込められている。
ハルアキは屏風の表面に触れた。だがのっぺりとした紙面があるだけだ。どうやってこの中に入ったのか?
「ちょっと! 汚したら怒られるわよ」
桜子に腕を掴まれる。
「やめ! 離せ!」
藻掻くハルアキの腕を引き寄せ、桜子は声を低めて囁いた。
「女将さんがそう簡単に話してくれるとは思えないわ。……あんた、術だか何か知らないけど、そういうの、使えるわよね」
桜子の目は本気だ。
事情は分からぬにせよ、今ある状況を利用しようとする強かさ。零が桜子を頼りにするのも分かる気がした。
それに、あの花魁と禿の正体を知る事が先決なのは確かだ。
……ただ、桜子が主導するのは気に食わない。
ハルアキは手を振り解くと、
「行くぞ!」
と先に立って歩きだした。
――その行く手を遮る影があった。
「どこへお行きんさる?」
……いつからいたのか。全く気配を感じなかった。
そして、その姿を認識したハルアキの背筋に、冷たいものが奔った。
――禿。
肩で切り揃えられた下げ髪に、赤い着物。黒い帯を幅広に締め、袖には鈴の付いた七色の房を下げている。
屏風絵にあったそのままの姿が、数歩先に立っていた。
彼女は白塗りした顔に細く描かれた深紅の唇を動かした。
「お酒をお持ちしんした」
「お部屋へ戻りんなし」
背後から聞こえたもうひとつの声に、ハルアキはハッと振り向く。
――そこにも、禿。
酒膳を手に、桜子のすぐ横に立っている。ハルアキは息を呑んだ。
囲まれた……!
しかし、ハルアキの感覚を以てしても、彼女らの存在に気付けなかった。これは一体何者なのか?
彼は目を細め、先程まで彼女らがいた屏風絵を睨んだ。そして察した。
……彼女らは、文字通り、絵に描かれた存在。
何者かによって操られている人形に過ぎない。
――本体とは別に動ける存在があれば、九十九段、そして珊瑚の間も、その『何者か』の領域の内である。
つまり、珊瑚の間には手を出せない、という判断は、間違っていた。
ハルアキは唇を噛んだ。……桜子に何かあれば、零に殺されかねない。
「お部屋へ戻りんなし」
耳元で声がした。背後の禿が足音もなく、ハルアキのすぐ後ろにやって来ていた。
だが、吐息は感じない。
冷たい手がハルアキの手に触れる。反射的に振り解こうとするが、鋼鉄のように動かない。
冷や汗を隠しもできず、ハルアキは桜子を見上げる。
「…………」
もう一人の禿に手を取られた桜子は、無表情に彼を見下ろしていた。
ハルアキの心臓が凍り付いた。
「うわっ! 何をする!」
蛾の変化を解いた途端、座敷に投げ込まれたハルアキは、畳の上に転がって悲鳴を上げた。
「痛いぞ!」
と、腰を擦りながら身を起こしたところで、キョトンとした桜子と目が合った。
「……あんた、どうやって忍び込んだの?」
ハルアキは慌てた。
「あ、いや、その、これには深い事情が……」
「どうせ、置いてかれるのが寂しくてついて来たんでしょ」
「さ、寂しくなどないわ……」
……事務所から桜子の帽子にくっついて来たとは、さすがに言えない。
歯切れの悪いハルアキからプイと視線を外し、桜子はお膳の料理に手を伸ばす。
「まあいいわ。せっかくのご馳走を残すのは勿体ないし、あんたも食べたら?」
そう言って、桜子は天ぷらにかぶり付いた。
「…………」
仕方なく、ハルアキも畳を這い、零の座布団に座る。
苛立ちをぶつけるような手つきで、桜子は海老の殻を剥く。
「本当、腹が立つわ」
パクリと海老を平らげた桜子は、今度は土瓶蒸しを器に注いだ。
「いっつもあの人はああなのよ。人の話を聞きやしない。自分だけいい顔して、私たちはほっぽらかし。ズルいわ」
「分かる、分かるぞ。彼奴の性根は全く読めぬ」
煮魚に箸を突き刺しながらハルアキが答えると、桜子は驚いた顔を見せた。
「珍しいじゃない、あんたと意見が合うなんて」
桜子は土瓶蒸しを一気に飲み干し、満足げに口を拭う。
「そもそも、こんなに邪魔にするんなら、なんで妙な理屈を捏ねてまで、私を雇った訳? 別に留守番なんていなくても、依頼人なんて滅多に来ないじゃない」
憤慨する桜子に目を向け、ハルアキは眉根を寄せた。
――その理由が、ハルアキにも分からないのだ。
桜子よりは零との付き合いは多少長いにしろ、お互い過去を深く突っ込めない理由が、彼らにはあった。
ハルアキが察するに、零は何か特別な存在から役割を与えられて、妖退治の任をこなしている。
――そして、ハルアキの存在自体が、どうやら零の討伐対象となると思われるのだ。
だが今のところ、零にその気はないらしい。彼は素知らぬ顔で、ハルアキの正体に気付かないフリをしている。
一方、ハルアキ――安倍晴明もまた、零の正体がもし、千年の時を超えて転生をし続けてきた『目的』であるならば、その命を断たなければならないのだ。
そのハルアキも、今は積極的に零の正体を探ろうとはしていない。
……居候の身である以上、彼をどうにかすれば、自分の生活も成り立たないからだ。
そんな理由で、今はお互い、当たらず触らずな距離を保っている。
だから、桜子を零が雇った時には驚いた。
世話焼きの隣人に、しつこくお手伝いを雇えと言われながらも断り続けてきたにも関わらず、桜子の顔を見た途端、逃がしてなるものかという態度で雇い入れたのだ。
――記憶の中の、最も印象に残る人に、そっくり。
零は以前そう言っていた。……それ以上は語ろうとしない彼に、ハルアキも憤りを感じていた。
恐らくこれは、嫉妬や妬みという感情なのだろう。だがそれを表に出す事を、ハルアキの気位が許さない。
そのためハルアキは、桜子を小馬鹿にした態度を取りつつ、彼女が探偵社を辞めてくれる事を願っている。
――第一、おおらかすぎる故に、怪異を取り込みやすい性質である彼女のお守りは御免蒙りたい。
まぁ、そのために、式神の術が効きやすいのもあるが。
いずれにせよ、桜子に話せる内容ではない。
煮魚をつつきつつ、ハルアキは言い訳を考えた。
「まぁ、アレじゃ。探偵には探偵の役割があるのじゃ。雑用係とは違う」
「何よそれ。私、探偵助手よ」
「ならば尚更じゃ。立場を弁えよ」
すると桜子は不満げに口を尖らせた。
「結局、あんたも私を信用してないんでしょ。……みんなそう。女だから、田舎者だからって、何も考えられない役立たずだって思ってるのよ。私だってね、探偵社に勤めるって決まった時から、色々勉強してるのよ。ミステリイ小説を読んだりね。せっかくお給料を貰ってるんだから、私だって誰かの役に立ちたいの。自分で考えて行動できる、自立した人になりたいの。なのに、誰も何も認めてくれない。それが悔しいのよ」
ハルアキは少し驚いた。ただ我が強いだけかと思っていたが、今まで知り合った女とは、少し考えが違うようだ。
箸を置き、ハルアキは桜子に顔を向ける。
「おぬしの言いたい事は分かった。じゃがな、それは間違っておる」
「何がどう違うって言うのよ?」
ハルアキは胡坐をかき、じっと桜子を見上げた。
「――彼奴は、我々に命を預けておる」
桜子は目を丸くした。
「……どういう事?」
ハルアキは考えた。そして言葉を選びながら、必要な事だけを伝える。
「とにかくじゃ。ここの階段に巣食う怨霊の正体を我々で明かせねば、彼奴は二度と戻って来られぬ。信用ならぬ者に、己の命運を託せると思うか?」
途端に桜子はガバッと立ち上がった。
「そんな大事な事を、先に言いなさいよ!」
……そう言えば、零が『死ぬ』前に、それを探り出さねばならないと言っていた。確かに、急ぐべきだろう。
「呑気に食べてる場合じゃないわ。調査する当ては?」
土瓶蒸しを飲み干してから、ハルアキは答えた。
「この料亭で、最も古くからいる、事情が分かる者に聞けばよい」
「――女将さんね!」
桜子はそう言うと、スタスタと襖に向かう。
「おぬし、酔うておるのではないのか?」
すると、桜子は振り向いた。
「あの程度で酔う訳ないじゃない。会津じゃ水と同じよ。……素面じゃ文句を言いにくかったから、酔ったフリをしたの」
侮れぬ奴じゃ。ハルアキは舌打ちした。
だが桜子の手が襖に掛かる段になってハッとした。――あの襖の向こうは異空間になっている。今開けるのはまずい!
「開けてはならぬ!」
だがその言葉が終わらぬうちに、桜子は既に襖を引いていた。
「……なんで?」
彼女の向こうにあるのはだが、行灯に照らされた情緒ある九十九段の光景だった。
ハルアキはクルンと癖のある髪をもじゃもじゃと掻き回した。……どうも今日は勘が冴えない。邪念が多すぎるのかもしれない。
「早く行くわよ」
「分かっておる! やかましいわ!」
ハルアキは渋々立ち上がった。
階段に出たハルアキは、確認するようにぐるりと周囲を見渡した。
……零に襖に投げ込まれる前、ここには異空間が発生しかかっていた。
だが、今はそんな気配が全くない。――零の気配もない。
そして、吉原を描いた屏風が目に入ると、ハルアキは愕然と声を上げた。
「おい、待て! ……この屏風……!」
「は、何よ?」
数段先まで進んでいた桜子は、仕方なさそうに戻ってくる。
「見よ。……花魁がおらぬ」
――吉原大門。そこに禿二人を引き連れた花魁が描かれていたはずだ。だがその三人ともが、初めから描かれていなかったかのように、綺麗さっぱり消えていたのだ。
だが、ハルアキと並んだ桜子は腑抜けた声を出した。
「……は?」
「は? ではない! 花魁と禿じゃ! 分からぬのか」
だが桜子は、慌てるハルアキに冷たい目を向けた。
「分からぬのか、じゃないわよ。花魁なんて、初めから描いてなかったわよ」
そこでハルアキはようやく気付いた。
――あの花魁と禿こそが、九十九段の怪異の正体だったのだ!
まさかあの絵が、常人には見えないものであったとは、考えてもいなかった。
そしてハルアキは、もうひとつの変化に気付いた。
そこに手を伸ばして、桜子に差し示す。
「ならばじゃ! あの、赤提灯の二階の窓に、明かりは灯っておったか?」
「明かり?」
――通りに面した一箇所だけ、窓が不自然に明るいのだ。
だが桜子は首を傾げ、
「何の話?」
と、蔑んだ目を彼に送っただけだった。
ハルアキは確信した。
――零は既に、この階段にはいない。
彼は今、この屏風の、あの部屋の中に閉じ込められている。
ハルアキは屏風の表面に触れた。だがのっぺりとした紙面があるだけだ。どうやってこの中に入ったのか?
「ちょっと! 汚したら怒られるわよ」
桜子に腕を掴まれる。
「やめ! 離せ!」
藻掻くハルアキの腕を引き寄せ、桜子は声を低めて囁いた。
「女将さんがそう簡単に話してくれるとは思えないわ。……あんた、術だか何か知らないけど、そういうの、使えるわよね」
桜子の目は本気だ。
事情は分からぬにせよ、今ある状況を利用しようとする強かさ。零が桜子を頼りにするのも分かる気がした。
それに、あの花魁と禿の正体を知る事が先決なのは確かだ。
……ただ、桜子が主導するのは気に食わない。
ハルアキは手を振り解くと、
「行くぞ!」
と先に立って歩きだした。
――その行く手を遮る影があった。
「どこへお行きんさる?」
……いつからいたのか。全く気配を感じなかった。
そして、その姿を認識したハルアキの背筋に、冷たいものが奔った。
――禿。
肩で切り揃えられた下げ髪に、赤い着物。黒い帯を幅広に締め、袖には鈴の付いた七色の房を下げている。
屏風絵にあったそのままの姿が、数歩先に立っていた。
彼女は白塗りした顔に細く描かれた深紅の唇を動かした。
「お酒をお持ちしんした」
「お部屋へ戻りんなし」
背後から聞こえたもうひとつの声に、ハルアキはハッと振り向く。
――そこにも、禿。
酒膳を手に、桜子のすぐ横に立っている。ハルアキは息を呑んだ。
囲まれた……!
しかし、ハルアキの感覚を以てしても、彼女らの存在に気付けなかった。これは一体何者なのか?
彼は目を細め、先程まで彼女らがいた屏風絵を睨んだ。そして察した。
……彼女らは、文字通り、絵に描かれた存在。
何者かによって操られている人形に過ぎない。
――本体とは別に動ける存在があれば、九十九段、そして珊瑚の間も、その『何者か』の領域の内である。
つまり、珊瑚の間には手を出せない、という判断は、間違っていた。
ハルアキは唇を噛んだ。……桜子に何かあれば、零に殺されかねない。
「お部屋へ戻りんなし」
耳元で声がした。背後の禿が足音もなく、ハルアキのすぐ後ろにやって来ていた。
だが、吐息は感じない。
冷たい手がハルアキの手に触れる。反射的に振り解こうとするが、鋼鉄のように動かない。
冷や汗を隠しもできず、ハルアキは桜子を見上げる。
「…………」
もう一人の禿に手を取られた桜子は、無表情に彼を見下ろしていた。
ハルアキの心臓が凍り付いた。
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