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対話(謙一視点)

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 目の前に現れた彼は、ひどく見窄らしく見えた。スーツもシャツも、シワひとつ無くきちんとしているのに、隠しきれない生活感と疲労。

(どうして)

 呆れながら思う。
 どうして、こうなるほどに麻衣に依存しておきながら──あんなことを、したのだろう。
 できたのだろう。



 名刺を差し出すと、彼──伸二はすっと顔を上げた。
 俯いていた視線が俺を捉える。どろりとした瞳の奥に、ぎらり、と野生じみた光が見えた。
 微笑わらって返す。できるだけ余裕っぽく。

「……はじめまして、です」

 掠れた声。わざとのような苗字の名乗り方と、強すぎる煙草の香りに一瞬息を詰めた。
 差し出された名刺。儀礼的な名刺交換。男の爪は伸びて、汚れが目立った。靴にまで気を使っているのに──麻衣がいなくなった途端、こうか。

「ちょ、い、市原くん! 君な、わざわざ柳常務がご指名で……」

 明らかにやる気のない態度に、彼の上司が慌てて取り繕うように俺を見上げる。

「申し訳ありません、このところ市原は体調を……」
「そうなのですか」

 にこりと微笑んで見せる。

「それはタイミングが悪いときにお邪魔しました──彼の話は部下からもよく聞いていて。ぜひ次の企画はさん始めこちらにお任せしたいと」
「いやもう、本当にありがたいお話で」

 中堅どころの、広告代理店。
 麻衣の「元」夫、市原伸二は営業部のエース、とかいう存在らしかった。
 ひとり冷や汗をかいている彼の上司と、どろどろした視線を向けてくる、市原と。

「良ければ彼と2人でお話させてもらえませんか?」
「は、いや、しかし」
「体調もよろしくないということなので、手早く終わらせます。あまり外部に出せない話もしますので、申し訳ないのですが」
「……はぁ」

 俺より少し年嵩のその上司は、曖昧に頷いた後市原の腕を叩く。

「市原、しっかり頼むぞ」
「──はい」

 市原の視線は俺から動かない。
 次の瞬間には「殺してやる」と叫び出しそうな表情カオ

(──こっちの台詞だ)

 とさり、と応接室のソファに腰掛けた。目の前のローテーブルにはひと口も口をつけていない緑茶が冷めていっている途中。
 上司サンが部屋を出たのを目視して、それから市原に視線を向けた。

「座ったらどうだ?」
「──失礼します」
「カフェでの勢いはどうした」

 ぎり、と唇を噛み締めて、市原は俺を見上げる。

「麻衣を抱いたのか」
「君に関係あるか?」
「オレは──」
「麻衣の夫だと言いたいのか? あんなことをしておいて──なぁ」

 ぐ、と重心を前にずらす。
 市原の熱い泥のような視線と重なる。

「なぜ離婚届を出さなかった」
「……」
「なぜ出した、と嘘をついた?」
「……」

 市原は無言のまま、俺を睨み続けている。

「今すぐ出してこい。まさか捨ててはないよな」
「あんたの命令に従う義理はない」
「ないかもな」

 ふ、と息を吐いた。

「けれど俺としては便に済ませたい──できるだけ。分かるか? 若造」
「……」

 市原が何か言おう、と口を開きかけたとき──応接室の扉が開いた。

「……ね、ちょっと待って。なんの話してるの」
「り、んか」

 市原の声が冷たく硬く──なる。
 扉を開いていたのは、不倫相手の女だった。巻かれた茶色い髪を揺らして、ツカツカと部屋の中に押し入ってくる。

「離婚届!? リンカ、そんなの知らない……!」
「お前に関係ない」
「あ、あるよね!? シンちゃん、リンカと結婚してくれるって、奥さんより大切だって──なのにそんな大事なこと、なんで話してくれ……」
「うるさい!」

 市原はリンカを怒鳴りつけ、ローテーブルを拳で叩く。何度も、何度も。
 冷めた緑茶が波打ち、茶托ごと湯呑みが倒れる。それでも市原は激情をぶつけるようにその行動を止めない。

「うるさいうるさいうるさい……! お前のせいだ、全部お前のせいだ!」
「し、シンちゃん?」

 リンカの声が震える。
 俺はただ、子供の癇癪のように震える市原を眺めていた。

(結局──そうなのか)

 こいつは子供そのもの、だ。
 取られた玩具を返せと暴れる子供。

「麻衣はオレのものなのに、オレの、オレだけの、──オレのせいじゃ、ないのに」

 自分は悪くないと、悪いのは別の誰かだと──結局、こいつはたまたま助けた麻衣を囲って、ヒーローぶって悦に入っていただけの──クソガキだ。

「なぁ市原」

 ぐちゃぐちゃになったローテーブルを眺めながら、俺は立ち上がる。

「気は済んだか?」
「……っ、」

 ハッとした表情で、市原は顔を上げた。零れた緑茶に、血の色が混じる。市原の拳からの流血。

「俺にはお前の行動は全く理解できない。理解したいとも思わない。ただ」

 ぽたり、と血と緑茶が混じったものが、応接室の絨毯に染みを作る。

「彼女を永遠に失ったという事実にだけは──同情する」

 市原の頬が戦慄く。俺は視線を逸らし、歩き出した。

「次は弁護士から連絡させる」

 言い捨てて、扉に手をかけた。
 そうして俺は後悔することになる。
 市原伸二に、安っぽい挑発をしてしまったことを──彼の麻衣への執着を、甘く見ていたことを。
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