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貉
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「……麻衣」
地下鉄の改札の前、少し古びた付近案内の地図の前。伸二が床に座り込んで私を見上げた。薄汚れた茶色いタイル。黒くなってるガムの跡。思わず注意が口をついた。
「なにしてるの……ていうか、床。汚いよ、座らない」
こんな人だったっけ? と少し混乱しながら思う。綺麗好きな人だから、死んでもこんなところに座り込んだりはしない──はずなのに。
「……ああ」
ふらりと伸二が立ち上がる。
強い煙草のかおりに鼻を顰めた。私を見下ろす表情は、ひどく固い。
「あのさ、煙草、吸いすぎ──」
「ハハオヤがさ」
唐突なように伸二は口を開く。決まり切った台詞を話すかのように。そんな風な、断固とした口調。
「……お義母さん?」
「なんで正月帰省しなかったんだって」
どろりとした視線を向けられる。……帰省?
(それって、どういう……?)
ほんの少し、後ずさる。
得体の知れない不安感に襲われるけれど──大丈夫、と軽く息を吸った。帰宅ラッシュにかかろうとしている駅の構内は、人の気配でざわついて忙しない。
「……帰省、しなかったんだ? すれば良かったのに」
「毎年、麻衣と帰ってただろ」
「でも」
私たち離婚して──と言いかけた言葉は、伸二の台詞にかき消された。
「オレたちまだ夫婦なんだぜ」
鼓膜を揺らしたその言葉が、脳で咀嚼されて理解されるまでに、たっぷり数十秒は要した──と思う。
喉が乾いていく感覚。指先が小さく痺れた。
「……あの、伸二。それって、どういう」
「どういうもこういうもない」
伸二が笑った。口だけを歪めるようにして、私を見て伸二は嗤う。
「不倫、楽しかったか?」
「──う、そ」
「嘘じゃない」
私の手首を、伸二が掴んだ。切り傷がある──なんでこんな怪我を?
その傷だらけの手は生暖かくて手汗でぬるりとして、でも指先だけが酷く冷たくて、とても……とても、気持ち悪いと、そう思って、しまった。
「お似合いだよな? オレたち。お互い不倫してさ──これで"イーブン"だよな? 麻衣」
「……ゃ、」
「お互い様、だよな麻衣。オレたち夫婦なんだから」
伸二の目が、三日月のように細くなる。楽しげに、笑って。
「だから、──帰ろう? 麻衣」
震える指先。口は痺れたように動かない。……伸二は、離婚届さえ、出してくれてなかった。最後のお願いさえ、聞いてくれなかった。だって私は──伸二の所有物だから。
そのことを、ずっと私は容認していた。目蓋の裏でカーテンが揺れる。図書室のカーテン。日焼けした分厚いカーテン。
もはや信頼と言ってもいい──私はずっと、伸二に救われたあの瞬間から、伸二を盲目的に「信頼」していた──離婚を決めた、あの瞬間にさえ。……いまの、いままで。
(──違う)
す、と息を吐く。何回も。何度も。
(違う、違う、違う)
耳の奥で、好きな人の声が蘇る。
(「麻衣」)
名前を呼ばれるだけで、それだけで愛されてるって分かる声。謙一さんの、声。
「……私は伸二のモノなんかじゃ、ない」
謙一さんから勇気をたくさんもらったはずなのに、それでも声は震えて掠れた。
再び、脳裏でカーテンが揺れる。図書室のカーテン。死のうとしたあの日。私の頬を撫でた風。青い空。さようならと呟いた私の声さえも、ありありと思い出せた。
あの瞬間に私の手首を掴んだ少年の手を──男の人の手になったその手を、私は大きく腕を振って振り切る。
(さよなら)
目線が絡む。私はきっと泣きそうな顔をしている。伸二は──伸二は、無表情のまま、私を眺めている。
モノを見る目をしていた。
ゾッとして後ずさろうとした私の手を、強く掴み直された。ヌルついた手のひら。
「そっか」
「……伸二」
「じゃあバラしていいよな? お前は薄汚れた不倫女だって、あの男に」
ひゅうと息を吸った。
謙一さんは、……謙一さんは、どう思うだろう?
「嘘をついていたと思うかな?」
「……そんな人、じゃない」
「ならなにをそんなに怯えている?」
伸二が首を傾げた。
聞き分けのない子供にそうするみたいに。
「なぁ麻衣。少し話そう」
「……なに、を?」
「これからのこと──いいよな、麻衣?」
伸二が首を傾げた。真っ白だったはずのシャツの襟元が、汚れていた。
「知られたくないよな? 麻衣」
ねっとりとした声だった。
「オレもお前も、同じ穴の狢なんだよ、麻衣──」
伸二の声が頭の中でエコーする。
「不倫なんて最低だよな?」
オレもお前も、と伸二が耳元で呟く。
唇が戦慄いた。
謙一さんに、なんて言えば──いいんだろう? 知らなかったんです、騙されてたんです──?
(違う、確認さえもしなかった!)
信頼してた。伸二のことを!
それがいちばんの──謙一さんに対する、裏切りだ!
(最低、だ……!)
ゆるゆると首を振る。
そんな私を見て、伸二は笑った。
(助けて)
私は強く鞄の持ち手を握り締める。
助けて、謙一さん。
私はどうしたら──いいですか?
地下鉄の改札の前、少し古びた付近案内の地図の前。伸二が床に座り込んで私を見上げた。薄汚れた茶色いタイル。黒くなってるガムの跡。思わず注意が口をついた。
「なにしてるの……ていうか、床。汚いよ、座らない」
こんな人だったっけ? と少し混乱しながら思う。綺麗好きな人だから、死んでもこんなところに座り込んだりはしない──はずなのに。
「……ああ」
ふらりと伸二が立ち上がる。
強い煙草のかおりに鼻を顰めた。私を見下ろす表情は、ひどく固い。
「あのさ、煙草、吸いすぎ──」
「ハハオヤがさ」
唐突なように伸二は口を開く。決まり切った台詞を話すかのように。そんな風な、断固とした口調。
「……お義母さん?」
「なんで正月帰省しなかったんだって」
どろりとした視線を向けられる。……帰省?
(それって、どういう……?)
ほんの少し、後ずさる。
得体の知れない不安感に襲われるけれど──大丈夫、と軽く息を吸った。帰宅ラッシュにかかろうとしている駅の構内は、人の気配でざわついて忙しない。
「……帰省、しなかったんだ? すれば良かったのに」
「毎年、麻衣と帰ってただろ」
「でも」
私たち離婚して──と言いかけた言葉は、伸二の台詞にかき消された。
「オレたちまだ夫婦なんだぜ」
鼓膜を揺らしたその言葉が、脳で咀嚼されて理解されるまでに、たっぷり数十秒は要した──と思う。
喉が乾いていく感覚。指先が小さく痺れた。
「……あの、伸二。それって、どういう」
「どういうもこういうもない」
伸二が笑った。口だけを歪めるようにして、私を見て伸二は嗤う。
「不倫、楽しかったか?」
「──う、そ」
「嘘じゃない」
私の手首を、伸二が掴んだ。切り傷がある──なんでこんな怪我を?
その傷だらけの手は生暖かくて手汗でぬるりとして、でも指先だけが酷く冷たくて、とても……とても、気持ち悪いと、そう思って、しまった。
「お似合いだよな? オレたち。お互い不倫してさ──これで"イーブン"だよな? 麻衣」
「……ゃ、」
「お互い様、だよな麻衣。オレたち夫婦なんだから」
伸二の目が、三日月のように細くなる。楽しげに、笑って。
「だから、──帰ろう? 麻衣」
震える指先。口は痺れたように動かない。……伸二は、離婚届さえ、出してくれてなかった。最後のお願いさえ、聞いてくれなかった。だって私は──伸二の所有物だから。
そのことを、ずっと私は容認していた。目蓋の裏でカーテンが揺れる。図書室のカーテン。日焼けした分厚いカーテン。
もはや信頼と言ってもいい──私はずっと、伸二に救われたあの瞬間から、伸二を盲目的に「信頼」していた──離婚を決めた、あの瞬間にさえ。……いまの、いままで。
(──違う)
す、と息を吐く。何回も。何度も。
(違う、違う、違う)
耳の奥で、好きな人の声が蘇る。
(「麻衣」)
名前を呼ばれるだけで、それだけで愛されてるって分かる声。謙一さんの、声。
「……私は伸二のモノなんかじゃ、ない」
謙一さんから勇気をたくさんもらったはずなのに、それでも声は震えて掠れた。
再び、脳裏でカーテンが揺れる。図書室のカーテン。死のうとしたあの日。私の頬を撫でた風。青い空。さようならと呟いた私の声さえも、ありありと思い出せた。
あの瞬間に私の手首を掴んだ少年の手を──男の人の手になったその手を、私は大きく腕を振って振り切る。
(さよなら)
目線が絡む。私はきっと泣きそうな顔をしている。伸二は──伸二は、無表情のまま、私を眺めている。
モノを見る目をしていた。
ゾッとして後ずさろうとした私の手を、強く掴み直された。ヌルついた手のひら。
「そっか」
「……伸二」
「じゃあバラしていいよな? お前は薄汚れた不倫女だって、あの男に」
ひゅうと息を吸った。
謙一さんは、……謙一さんは、どう思うだろう?
「嘘をついていたと思うかな?」
「……そんな人、じゃない」
「ならなにをそんなに怯えている?」
伸二が首を傾げた。
聞き分けのない子供にそうするみたいに。
「なぁ麻衣。少し話そう」
「……なに、を?」
「これからのこと──いいよな、麻衣?」
伸二が首を傾げた。真っ白だったはずのシャツの襟元が、汚れていた。
「知られたくないよな? 麻衣」
ねっとりとした声だった。
「オレもお前も、同じ穴の狢なんだよ、麻衣──」
伸二の声が頭の中でエコーする。
「不倫なんて最低だよな?」
オレもお前も、と伸二が耳元で呟く。
唇が戦慄いた。
謙一さんに、なんて言えば──いいんだろう? 知らなかったんです、騙されてたんです──?
(違う、確認さえもしなかった!)
信頼してた。伸二のことを!
それがいちばんの──謙一さんに対する、裏切りだ!
(最低、だ……!)
ゆるゆると首を振る。
そんな私を見て、伸二は笑った。
(助けて)
私は強く鞄の持ち手を握り締める。
助けて、謙一さん。
私はどうしたら──いいですか?
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