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アイスコーヒー

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 無言で手に持たされたアイスコーヒーに、私は「ありがとう」とはっきり言えなくてモゴモゴなにかそれらしき音を発音する。
 楢村くんは相変わらず無表情だったけど、目線だけでうなずいて、自分のシートベルトをつけた。
 カーステレオからは、相変わらずのジャズ。やがて曲が変わって──知ってる曲になった。
 Lover come back to me──古いレコードから録音されたのだろうか、少し掠れた音楽が車内を満たす。
 ……ちょっとだけ、ノスタルジック。
 小さく息を吐いて、それからストローに口をつけた。

(……あ、これ。テレビでやってたお店の?)

 そういえば、この近くだって──
 私は楢村くんの車の助手席で、透明なプラスチックカップに印刷されたお店の名前を眺める。濃い焦げ茶色の液体の中で、四角い氷が夏の陽光を冷たく乱反射させた。汗をかいたプラスチックカップ。

「……おいしい」

 ちゅうと吸ってから小さくつぶやくと──珍しく、本当に珍しく──楢村くんがそっと息を吐いたのが分かった。なにかに、安心した……ような。

(え)

 私はプラスチックカップを両手で持ったまま、その表情に戸惑う──戸惑うついでに、なんか慌ててしまって変な感想を口走った。

「ぶ、ブラック苦手なんだけど、それでも普通に美味しいよ! さすが有名店だよね!」
「……っ」

 楢村くんの視線がほんの少し、揺れた。その目線から目が離せない。楢村くんは小さく「ごめん」と呟いた。

「……え!?」

 ご、ごめんって何だろう……あ、ブラック苦手って言っちゃったことか! って、私失礼だ! 奢ってもらっておいてこれは……!

「ち、違、シロップ貰ってこいとかじゃなくて」
「全然いい。行ってくるわ」
「違う違う! いいから! 私、これがいいからっ」

 シートベルトを外した楢村くんは眉をひそめて、それからまた「ほんまにごめん」ともう一度私に謝る。

「な、なにが……」
「怖いのも、高いところも苦手やったんやな」
「そ、そんなことないけど!? 全然怖くないんだけど!」

 私は慌てて否定する。いやほんとは苦手なんだけど。
 あの脱出ゲーム(楢村くんの記憶から消えればいいのに)のあと、楢村くんは近くの展望台タワー(よく紹介されてるデートスポット)に連れて行ってくれた。
 地上52階……の……

(あ、これも楢村くんの記憶から消えてほしい……)

 そもそもエレベーター(ガラス張り)の時点で楢村くんにくっついてぷるぷる震えてしまった。
 ……平気なふりはしていたけれど、ちょっとあの手汗はヤバかった。自分でも引く。さすがに気がつかれていたらしい。そこからは怖すぎてあんまり記憶なくて……
 まあそんなで、展望台タワーの駐車場で、私はコーヒーを買ってもらったということです。まる。
 楢村くんは低く言う。

「……瀬奈のことなんもしらん」
「……あ、うん」

 だろうな、と内心苦笑する。だってセフレだったんだもの。

「……実は車も苦手とかないやんな? ドライブ嫌いとか」
「え。や、それは大丈夫。ドライブ昔から好きだし」

 ……って、ドライブするの実家のお父さんとくらいなんだけどさ。

(楢村くんは……運転、上手だ)

 安心して乗ってられるし、運転してる楢村くん見てるの、実は昔から好きで……
 そんなこと、言わないけど!
 楢村くんはしばらく押し黙ったあとに、言葉を続けた。

「……色々、ちゃんと、覚えるから」

 楢村くんはやたらと真っ直ぐ私を見て言う。

「次は、ちゃんと……瀬奈にも楽しんでもらえるようにするから」
「……っ」

 私は目を瞬いて──だってこれ、本当に楢村くん? えっちばっかだった楢村くん?
 私は息を吸って、それから言う。

「た、楽しくなかったなんて言ってないんだけど!?」

 あっ我ながら可愛くない発言……って、別にいいんだそのうち別れるんだから。
 ちくんと胸が痛む。
 なんで痛むんだ。もう、私だめだもう、こんなんなっちゃうから楢村くん嫌いなのに──

「……!」

 楢村くんがびっくりしてる。

「へ」
「瀬奈」

 楢村くんのびっくり顔にびっくりしてると、唇が重なった。あったかくて、少しかさかさで、柔らかい──と、離れていって。
 楢村くんは無言のまま、私の髪を何度も撫でた。さらり、さらり。梳いていく大きなてのひら。

(あー……)

 頬が熱い。表情に出ていないといいけれど──た、多分出てない! はず!
 もう一度キスされる。今度は触れるだけじゃなくて、少し厚い舌がぬるりって入ってきて──そうなるともうダメだ。脳が痺れちゃって私は私じゃなくなって、楢村くんに抱きついてしがみついて、もっとしてって強請るみたいに鼻から甘い息が漏れた。
 後頭部を大きな手で固定されて、舌を舌で誘い出されて、ちゅうちゅう吸われて身体の芯がジンジンする。
 酸素が足りない。
 くらくらして身体から力が抜けて──

「……瀬奈の家、行ってもいい?」

 つう、と私の唇と彼の間には銀色の糸。
 夏の陽はまだ高い。痺れた脳味噌が、勝手に私を頷かせた。

(ああ、ちゃんと私──お別れできるかな)

 ぽわぽわした頭で考える。
 さようならってできるかな? また逃げ出すしかないのかな──でも、でも。

(また、あんな風に惨めな気持ちになるのは……無理だよ)

 もしかしたら、楢村くんは本気なのかもしれない。本気で私と結婚するつもりなのかもしれない。
 でもそこに、気持ちは──?
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