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最終章 隣にいる人
#48
しおりを挟む2週間ぶりに店に来てくれた佳苗は、いつものように頬が蕩け落ちそうなほど至福を感じてくれている顔で私の作ったビーフシチューを食べている。
「日菜、日に日にビーフシチュー美味しくなってるね。ほんとにこれ、自分で作ってんの?」
「あはは。当たり前じゃん。ちゃんと朝早くから起きて仕込んでるよ。同じビーフシチューでも毎日試行錯誤を重ねてるからね。ちなみに優子さんはまだまだ伸びしろがあるって言ってくれてる」
「すごいね。できることなら3日に1回ぐらいここでこれを食べに来たいんだけどね。なかなか私も最近、忙しくてさ」
「そんなに頻繁に来たら飽きちゃうよ。それに、定期的に来てくれて佳苗の顔が見れるから私も嬉しいよ」
料理を味わいながらゆっくりと首を縦に動かす佳苗の手は、止まることなくスプーンが次のひと口を自分の口の前に持ってくる。すると、その手が不意に下げられて佳苗は何かを言いたそうに私を見つめた。不思議に思い、私が見つめ返すと佳苗の口が開いた。
「日菜、私、赤ちゃん出来たんだ」
「ほ、ほんと!? うわぁ、おめでとうぅう! 何急にそんなビックリすること言って! 頭の理解が追いつかないんだけど!」
他のテーブルに座るお客さんが、声量を間違えすぎた私の声に反応してほとんど視線を集めていることに気がついてすぐに頭を下げて謝った。そして私の視界はじんわりと滲んでいた。
「日菜、声デカすぎだって。前にいたスポーツ店じゃないんだよ」
呆れながら笑う佳苗の目も潤んでいた。
「だって……! 佳苗がびっくりすること言うから。でも、ほんとにおめでとう。どうしよう、泣けてきちゃった」
自分がこんなに涙もろくなるなんて5、6年くらい前の私は知る由もないだろうな。まぁそれは、目の前にいる佳苗も同じだと思う。
「ごめんごめん。私も今言うタイミングじゃなかったなって思った」
「ううん、いいの。今日さ、営業終わったらここで喋ってかない?」
「うん、私はいいけど、優子さんはいいの?」
「うん。佳苗なら大歓迎だよ」
「それならよかった。じゃあお言葉に甘えようかな」
「ぜひぜひ。あ、体に負担のかかりにくい椅子用意するね」
「いやいや、いいから。まだ5ヶ月だよ。体型変わってないでしょ」
「いやいや。大切な命が宿ってるでしょ」
私たちは所々似たような言葉を使い合って笑い合った。忙しい時間帯だったけれど、この後佳苗と過ごす時間を楽しみにしていたらあっという間に時間は過ぎていった。優子さんと私は今日最後のお客さんを丁寧に見送ってからドアにかかる『OPEN』と書かれた板を裏返して『CLOSE』に変えた。再びドアを開けると、お客さんから親友に変わった佳苗がジンジャーエールを飲み干していておかわりがほしそうにグラスを右手で上げていた。
「店員さん、おかわりお願いしまーす」
「かしこまりました。お客様、営業時間外になりますが?」
「大丈夫です。許可はあなたに取ってもらったので」
「あはは。そうでした」
「何だよこれ」
私と優子さんも佳苗と同じジンジャーエールを用意して3人分のグラスと簡単にフライドポテトを揚げた。テーブルに座る優子さんと佳苗は楽しそうに話している。佳苗も相変わらずとても可愛い顔をしているから優子さんと姉妹にも見える。それに、目元や鼻なんかは本当に似ている形をしていると思う。そんな2人の会話に私も入りたくて足早にポテトとジンジャーエールが乗ったおぼんをテーブルに運んだ。
「ありがとう、日菜ちゃん」
「日菜、ありがとうだけど焦ってこけたりしたら危ないよ」
「大丈夫大丈夫。そんなミス、もう私はしないから」
「入りたての頃は毎日グラス倒してたからね。それが今の日菜ちゃんの糧になってるんだよ」
「さすが日菜先輩っすね。優子さんにもこんなに信頼されてて」
「当たり前じゃん。私、優子さんの弟子だから。自慢の師匠だよ」
「……師匠って、何か嬉しいね。恥ずかしいけど」
「いやいや。照れてる優子さん可愛すぎでしょ。この顔を昔から側で見てるニケさん、羨ましすぎ」
「ほんとだよね、佳苗。女の私でもドキッてしちゃう時いっぱいあるからね、日常で」
「私からしたら、そう言ってくれるあなたたちの方が可愛いよ。褒め言葉は素直に嬉しいから受け取るけどね」
「うん、いっぱい受け取ってよ。優子さん」
私たちは手に持ったグラスは軽くカチンと合わせてそれぞれ口につけた。久しぶりに飲んだそれは、何だか達月くんに会いたくなる気持ちになる味だった。そしてすごく心が落ち着いた気がする。
「あぁ、久々に飲んだな。ジンジャーエール」
「美味しいよね。特にここのは最高。まぁどの飲み物食べ物選んでも最高に美味しいけどね」
「あら、嬉しいこと言ってくださるお客様ですね。桜井日菜は感激しております」
軽く打ち上げみたいなムードになってきた空間を盛り上げようとしてくれたのか、優子さんは彼女が好きなBUMP OF CHICKENの『車輪の唄』をかけてくれた。優しい曲調で流れる前奏を聴いていると私の体は自然と横に動く。佳苗と優子さんも同じように曲を味わっている。
「いいよね、バンプ」
人間が「甘えている」という状態をそのまま顔で表現したような佳苗の表情を、優子さんは優しい笑顔で見つめている。
「あ、ごめんね。私の好きな曲かけちゃったけど。佳苗ちゃんも知っててよかった。日菜ちゃんは好きなの知ってるけど」
「大丈夫だよ、優子さん。佳苗は私以上に邦ロック好きだから。しかも優子さんたちくらいの世代の」
「それなら良かったけど。あ、日菜ちゃん、今ちょっと私の年齢イジったでしょ。ダメだよ、年上の女の人に世代の話をしちゃ」
「し、してないしてない。むしろ私は優子さんたちが私たちくらいの頃の曲の方が好きだから」
「ふふ。冗談だよ。弟子に気は使わせないから」
打ち上げというよりも女子会という表現の方が相応しい雰囲気になりながら私たちは手元にあるポテトを食べ、ジンジャーエールをテンポよく体の中へ流し込んでいった。
「でも、本当におめでとう。佳苗」
「ありがとうね。あんなに大きい旦那だから、赤ちゃんも大きそうでちょっと怖いってのが本音だけどね」
「まぁ、確かにそれはあるかもね。もう性別は分かってるの?」
「うん。思った通り、男の子だって。何か病院の先生もさ、成長速度が早いって驚いてたんだよね。すっごい大っきい赤ちゃん産んじゃうかも」
「やっぱり男の子なんだ。でも、2人の子どもだからきっとすごく素敵な男の子だと思うな」
「ありがとう。しかも名前ももう決めてるんだよね。2人してこの名前、いいじゃんってなった名前があるの」
「それはもう今すぐ聞きたいな。佳苗、教えてくれたりする?」
「それはまだダメ。あと半年後、来る時が来たら教えるね」
「まぁそうだよね。うん、楽しみにしてる」
話すことで夢中になっていて無心でポテトを食べていた私たちは、いつの間にかそれを食べきっていた。私も無意識で食べていたのか、あまりにも記憶のないポテトの味を思い出そうとすると、何だか可笑しくなって笑えた。
「私たち、いつの間にかポテト食べきってるじゃん」
「うん。佳苗ちゃんの手、ずっと止まんなかったよ」
「え? 優子さんもあんまり食べてなかったの?」
「多分、ほとんど佳苗ちゃんじゃないかな」
「ごめんごめん。ちょっと最近、食欲すごくてさ。おまけにびっくりするぐらい美味しくてやみつきになっちゃう味だったから本当に手が止まんなかった」
「しょうがないなぁ。まぁ佳苗は今、1人の体じゃないからね」
「あ、日菜先輩。もうひとつ、よろしいですか?」
「何でしょうか。てか、その日菜先輩って何。普通に読んでよ」
「佳苗ちゃん、私分かったよ。ポテト、おかわり欲しいんでしょ」
「あはは。優子さんには敵わないや」
「大丈夫。私も食べたかったから。さっきは日菜ちゃんが作ってくれたから今度は私が作ってくるね」
「おー! それはぜひ! もっと食べちゃうかもしんない」
「佳苗、私も食べるから。いくら妊婦でも、隣に食べ足りない親友もいるからね」
後ろ姿も綺麗な優子さんは、私たちが食べ終えたバスケットを持ちキッチンの方へと向かった。すると10分もしないうちにそのバスケットが戻ってきて、中には私が作ったポテトとは間違いなく、さっきとはレベルの違うポテトが食欲をそそる色と匂いを纏わせて私たちの手元に運ばれてきた。カリカリに揚げられた1本1本が早く食べてくれと言いたげに私の方を見ているようだった。
「うっそ……何これ。美味しすぎるんだけど」
それに手を伸ばした佳苗は、あまりの衝撃に咀嚼することすら忘れて手に取った1本をじっと見つめて目を大きくしている。優子さんの作ったポテトは、いつも食べ慣れている私にも、ひとくち齧ったその瞬間から口の中に幸福が訪れる。
「いやぁ、ほんとに優子さんの作るものは何もかもがレベチだから。私がこの味を出せるまでにはあと何十年もかかるだろうな」
「そんなことないよ。日菜ちゃんは料理をしていくうえで一番大切なものを持っているから。私よりも美味しい料理を作れるようになるよ。もちろんポテトもね」
うん、美味しいね。優子さんもポテトをひとくち食べた。口を動かし、何かを確認したように首を縦に振った。
「こんなに美味しかったら、私、一生ここにいてポテト食べちゃうよ」
「うん、ウチのじゃがいもが無くなるまで食べてくれていいよ」
二人三脚、いや三人四脚をするように、全く同じタイミングで口を動かす私たちはその後もポテトを食べては佳苗の赤ちゃんの話題や達月くんの病気が治ったこと、その達月くんとニケさんがもう少ししたら帰ってくること、晴樹さんのW杯予選での結果など、話すことが尽きることなくジンジャーエールだけがグラスの中から次々と尽きていった。
「佳苗ちゃん、今日はここで泊まっていきなよ」
「え? で、でも」
「晴樹くん、遠征で今日いないんでしょ。妊婦さんがこんな時間に1人で帰って家にいちゃいけないよ。それに、部屋は日菜ちゃんの部屋でも寝れるだろうし」
優子さんの心の中がテレパシーで読み取れたように、私は彼女の笑顔を見てゆっくりと首を縦に振った。
「うん。私も久しぶりに佳苗と寝たいな。もちろん、ベッドは貸すから」
「ま、まぁ2人がそう言うならお言葉に甘えようかな」
「ぜひぜひ! うわぁ、久々だなぁ。佳苗と一緒に寝るの!」
「ふふ。ウチでそれが再現できて嬉しいよ」
優子さんの笑顔を見ていると、私は頭の中にひとつの光景が未来予知のように広がり、気づけば私は2人に「ちょっと」と声をかけていた。
「今思ったけど、ここで3人で寝ない? 私と佳苗、優子さんと。もちろん、佳苗と優子さんが良かったらだけど」
自分でも分かるほど表情筋が大きく動く。2人を見ると、同じように鳩が豆鉄砲を食ったような様子で私を見つめている。
「私はもちろんいいよ。いい匂いしそうだし」
「私も。なんか家族みたいで嬉しいし。逆に2人の大切な時間にお邪魔しちゃってもよかったの?」
「当たり前じゃん。優子さんがいてくれる方が2人の時よりもよく眠れそうだし」
「日菜、無意識に私をディスってない?」
「そんなわけないじゃん。誰も佳苗の寝相が悪いなんて言ってないよ」
頭の中に高校生の頃、佳苗と一緒に私の実家で寝た記憶を思い浮かべた。佳苗は夢の中で柔道の試合でもしているのかと思うぐらい、私の体を締めつけたり引っ張ったりしていた。今から10年くらい前の出来事なのに、昨日のことのように思い出せるその記憶は強烈に私の頭の中に残っている。
「私ね、ほんとに自慢じゃないけど妊娠する前から寝相が良くなったらしいんだよ。晴樹さんが言うには、逆に動かなさすぎて心配になるぐらいだって。だから日菜、優子さん。寝相の心配はいらない」
「晴樹さん、爆睡しすぎて気づいてない説ない? それ」
「あはは、日菜ちゃん。私もそれ思った」
「いや、まじで大丈夫だから。それに、妊娠してんだよ。もっとデリケートになってるって。むしろ大事にしてください、私の体」
「分かった分かった。半分冗談で言っただけだから。じゃあ佳苗、2階に布団取ってくるから待ってて」
「あ、日菜ちゃん。私も行くよ。佳苗ちゃんはゆっくりしててね。私たちで準備するから」
「ありがとう、優子さん」
「てか、時間差なんだけど、いい匂いしそうってなに? 佳苗ちゃん」
「あ、それ私も思った。触れなかったけど」
「だって、こんなに可愛い2人に挟まれて寝るんだよ? その事実だけでラベンダーとか上品な匂いがしてきそうじゃん」
「よく分かんないけど褒めてくれてるんだよね?」
「うん。私、お世辞とか言えないタイプ。日菜は昔から知ってるよね」
「うん。ほんとにその通り。だから今、可愛い2人って言ってくれたの、地味にめっちゃ嬉しかったんだけど」
「へへ。こりゃあいい夜になりそうだ」
時計を見ると0時を過ぎて日を跨いでいた。そんなに時間が経っていたのかと心の中で驚きながらも佳苗と優子さんと笑い合うこの時間が本当に幸せだ。私たちはこの後、それぞれの布団に入りながらも修学旅行の夜みたいにいつまでもいつまでも語り合って、いつの間にか朝を迎えていた。
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