秘密のビーフシチュー

やまとゆう

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最終章 隣にいる人

#47

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 体から飛び出しそうになる心臓を右手で押さえながらスマホの画面にある通話ボタンを押して左耳に添えた。すると、2回コールが鳴らないうちにニケさんの声が聞こえてきた。

 『もしもし。ニケです』
 「あ、もしもし。ひ、日菜です……! ごめんなさい。電話出れなくて」
 『全然大丈夫だよ。それよりも日菜ちゃん、すごくいい話があるんだけど聞きたい?』

涙をこらえているのか、ニケさんの声が震えているような気がした。ただ、それでいて春の温かい日差しのような優しい声が私の耳に届く。ダメだ、私もつられてしまう。呼吸が荒くなり、視界が途端に滲んだ。

 「……うん。聞きたい」

大きく深呼吸をしてからニケさんにそう言った。

 『達月、治ったよ。完治したんだ』
 「……うん」

もう我慢しなくてもいい。私の目からは涙腺を取っ払ったように勢いよく涙が流れ出した。立っていることが出来ずにその場で座り込む。その物音に気づいた優子さんが慌てて私の元に来て背中を摩ってくれた。

 「日菜ちゃん!? 大丈夫?」
 「優子さん……。達月くん、治ったんだって。病気」
 「え……?」
 「ニケさんから電話……。達月くん、治ったって」

優子さんを体の中に取り込むようにゆっくりと抱きついた。優子さんからいつも香る、ほんのりと優しいラベンダーのにおいがして私は一層力強く彼女の体を抱きしめた。優子さんも私と同じように座り込み、私の体を包み込むように優しい力で抱きしめた。

 「おめでとう……。達月くん。よく、頑張ったね。本当によく頑張った」
 『優子もいるんだね。達月は本当によく頑張った。手術中、一度は危ない状態になっていたみたいなんだ。それでも、あいつは強かったんだ。そこを乗り越えて帰ってきてくれたんだ』
 「うん。達月くんは強いよ。みんな知ってるでしょ」
 『フフ……。そうだね』

ニケさんの鼻をすする音につられるように私も鼻をすすった。電話越しで顔の見えないニケさんでも、今どんな表情をしているか私は声を聞いただけですぐに分かった。それからしばらくニケさんの感情のこもった声が聞こえてきた。私も優子さんもニケさんも、3人とも子どものように思いっきり泣いた。

 「ニケさん?」
 『なんだい、日菜ちゃん』

呼吸を整えながらニケさんを呼ぶと、彼も同じようにゆっくりと息を吸って吐く音が聞こえた。私は何だがそれが嬉しく思えて、笑いながら噴き出した。

 「達月くんは今、どうしてるの?」
 『今は気持ちよさそうに眠ってるよ。麻酔が切れて目を覚ましたら、すぐに日菜ちゃんに電話するね』
 「あ、すぐにじゃなくていいよ……! 達月くんが落ち着いたら教えて」
 『あはは。それもそうだね。達月は僕らと違って、子どもみたいに大泣きしないかもだからね』
 「達月くんだって子どもっぽいところあるから」
 『はは。その調子で達月とも喋ってあげて』
 「……分かった」
 『ありがとう。じゃあまたそのうち電話かけるね』
 「うん。分かった」
 『あ、それと優子?』
 「ん? どうしたの? ニケさん」

少しの沈黙の後、えへへと照れながら笑うニケさんの声が彼らしく思えた。不思議そうに優子さんは首を傾ける。

 『早く会いたいから達月が良くなったらすぐ帰るね』

不意に聞こえてきたニケさんの言葉に、何だか私も恥ずかしくなって顔を両手で覆った。優子さんは私よりも慌てて「何言ってるの」と、部屋中に響き渡る声で叫ぶように言った。

 「達月くんが落ち着いたらでいいから慌てず帰ってきて!」
 『へへ、分かったよ。じゃあね、2人とも。また連絡します』
 「ありがとう、ニケさん。またね」
 『うん、またね。日菜ちゃん。優子もまたね』
 「はいはい、またね。ニケさん」

通話が切れる瞬間までニケさんの嬉しそうな声が聞こえていた。けれど、私もそれくらい嬉しかった。それと同時に達月くんの声が聞きたくなったし達月くんの顔が見たくなった。体を寄せ合いながら私と優子さんはじっと動かないでいた。

 「優子さん」
 「何?」
 「私、いま人生で一番嬉しい瞬間かも」
 「そうやって思えてる日菜ちゃんと一緒にいる私もとっても嬉しいよ。もちろん、達月くんの病気が治って本当に嬉しいし。ニケさんのあんなに嬉そうな声も久しぶりに聞いた気がするし」

うんうんと噛み締めるように話す優子さんの手が、ゆっくりと私の背中を撫でてくれる。私は優子さんの手が特に好きだ。ある時は人を笑顔にする料理を作る。ある時は辛い気持ちを振り払ってくれる。ある時は幸せを実感させてくれるような気持ちにさせてくれる。まさに魔法の手だ。

 「達月くんが治ったことは本当に嬉しいことを聞いたって思えた。それにね、ニケさんと優子さんのラブラブなやりとりも聞いちゃったから、余計に嬉しく思えちゃった。改めてニケさんと優子さんはお似合いだし、優子さんの隣にいる人はニケさんだって思った」
 「日菜ちゃんからそう言われると、より一層嬉しくなるよ。私の隣にいる人はいつまでもニケさんだけど、日菜ちゃんの隣にいる人はこれからずっと達月くんだなって思ったよ」
 「達月くん、受け止めてくれるかな、私のこと」
 「私とニケさんが保証する」
 「……ありがとう」

             ✳︎

 安堵と嬉しさが相まり、いつの間にかソファに座ったまま眠っていた私は、テーブルに置いてあったスマホが目覚まし時計のように鳴り響いて目が覚めた。飛び起きるようにスマホを取り画面を見ると、そこには『佐藤達月』という4文字が光っていた。本当に久しぶりに見る名前と、私が通話ボタンを押したら彼の声が聞こえてくるという緊張で再び私の心臓が大きく動いた。私は左手で胸を押さえながらゆっくりと通話ボタンを押した。彼と電話が繋がり、画面には0に並んでいる数字が動き出した。

 「も、もしもし……!」
 『もしもし。日菜さん?』

年をとったのか少しは大人になったのか、私はここ数年で本当に涙脆くなった。少し控えめで、聞き慣れた落ち着いた声が私の慌てている心臓を安心させてくれた。

 「ふふ、当たり前じゃん。私のスマホなんだから」
 『そうだね。久しぶり』
 「うん、久しぶり」
 『元気にしてる?』

私が泣いているのは流石に彼には気付かれていないはず。私は音を立てずに流れ出る涙と鼻水をハンカチで押さえながら拭き取った。

 「うん。相変わらずだよ。達月くんは?」
 『僕も元気だよ。日菜さん、いいこと教えてあげる』
 「うん、教えて」
 『僕ね、病気治ったんだって』

えへへと笑いながら声を震わせる達月くん。彼と同じように私もえへへと笑って彼に声を返す。

 「……うん。おめでとう。本当におめでとう。すごいね」
 『ありがとう。何か、これまでの努力が報われた気がするよ』
 「そうだね。達月くんはやっぱりすごいよ。誰よりもすごい」
 『僕がすごいんじゃないよ』
 「え?」
 『僕はね、周りにいる人に恵まれたんだ。その人たちが、今もこうやって僕に生きる時間を与えてくれたんだと思う。ニケさんや優子さんはもちろん、日菜さん。それに佳苗さんに晴樹。みんなが僕を支えてくれたんだ。日菜さん、本当にありがとうね』

私の身体から水分が無くなってしまいそうなほど私の目からは涙が溢れる。テーブルの上にあるハンカチに手を伸ばしてそれで両目を拭った。

 『ごめんね。今、近くにいて顔を拭いてあげられなくて』

バレていた。やっぱり隠せていなかった。それを彼らしい言い回しで言ってくるものだから、私は涙を流しながら思わず顔が緩んだ。

 「へへ。何言ってんの。私、泣いてないよ。花粉症がひどい時期だから鼻水が出たりしてるんだよ」
 『あぁ、なるほどね。だから僕も鼻水が出たりするんだ』

へへと笑う達月くんの方も、鼻をすすっている音が聞こえてくる。それだけでなく、彼の声も私みたいに震えているのが手に取るように分かった。私は手元にあるハンカチを、無性に彼の元へ届けたくなった。

 「イギリスって花粉症あるの?」
 『さぁ? どうだろうね』
 「何それ」

いつしか体全体に入っていた無駄な力は無くなっていて、まるで日向ぼっこをしているように体全身が心地良くなった。私と達月くんはそれから空いていた時間を少しずつ埋めていくように電話越しに声を届けあった。彼の笑う声を聞いているだけで、私はこの上ない幸福感に全身を包まれるような感覚になった。
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