秘密のビーフシチュー

やまとゆう

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第3章 離れてはいけないし、離れたくない

#43

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 小説家としての活動を休むことを決めた達月くんは、自身の体の中に蠢いている病魔と戦い始めた。毎日飲んでいるという病状の進行を少しでも遅らせる薬を毎日顔を歪めながら飲み、身体機能を奪われないようにと、ジョギングや筋トレをして体を動かして日々努力している。元々体の弱い達月くんが今の体の状態で挑むトレーニングは、見ている私の方も疲れ果ててしまいそうなものに見える。薬の副作用で髪の毛が抜けるという、違う病気と戦っているような彼を見て、私は彼に似合いそうな濃い青色の毛糸を使ってニットキャップを編んだ。以前とは比べ物にならないほど手先が器用になった気のする自分を心の中で褒めながら彼に手作りのそれを渡した。

 「ありがとう。僕、こういう青色好きなんだよね。海の中みたいな濃い青い色」
 「うん。私も好き。あと、達月くんに似合いそうな色だと思った」
 「ほんと? 僕は大体、服も黒色を選ぶし髪の毛だって真っ黒なのに。あ、今はご覧のありさまだけどね」

 あははと笑いながらニットキャップを脱いで私に頭部を見せつける。彼の口に前髪が入りそうなくらい毛の量があったのに。ただ、こんな状態の彼を見て思うこともある。彼は短髪の方が似合うし、そっちの方が好きだ。

 「私、髪の短い達月くんも好きだな」
 「髪の短いっていうか、そろそろ肌も見え始めるよ?」
 「キミは顔が綺麗だからどんな風にしていても似合うんだよ。スポーツマンに見えちゃうかもね?」
 「いや、それはないでしょ。それを晴樹の前で言ったら多分笑われるからね」
 「そうかな? 私、初めてキミを前の職場で見た時、2人ともスポーツ選手かなって思ったけどな」
 「それは場所が場所だったからでしょ。もう昔みたいには体も動かないよ」
 「それはどうだろうね。晴樹くんだってあんなに大きい怪我をしたのに今は完治して、本当に日本代表に選ばれてるんだよ。これから先、まだまだ何があるか分かんないでしょ」
 「まぁそうだね。何事も前向きに捉えた方がいいかもね。今は特に」
 「そうそう。明日はきっといい日になるって、いい歌があったと思うな。じゃあ達月くん、今日もそろそろ」
 「そうだね。やるか」

 彼は病室のベッドの上で、この病院の先生に教えてもらった体操を始めた。腕を伸ばしたり首をぐるぐる縦にゆっくり回したり。ゆっくりとゆっくりと体の筋肉をほぐすように体を動かしていく。彼は息を少し荒げながら体勢を戻していく。汗を流す彼を見ていると、私も何か力になりたいと思い、体に力が入る。

 「いつもより多く動かせているね」
 「晴樹も頑張ったんだからね。僕も負けてられない」
 「ふふ。達月くんは意外と負けず嫌い」
 「それを言うなら日菜さんもだと思うけど」
 「私? 私は争いごとは嫌いだよ?」
 「どうかな。僕には分かるけど」
 「そう? そんなことないと思うけど」
 「ふふ。本人だったら分からないパターンだね」
 「どういうところか気になるけど、今キミは体操に集中してもらった方がいいかな」
 「そうだね。そうします」
 「うん。見守ってるね」

 彼の着ている服の色が汗の目立つ色をしていることもあるけれど、体操を続けていくうちに彼のシャツはだいぶ汗が滲んでいる。この病院で治療をしていくうちに彼の代謝はとても上がったみたいで、以前よりも多く水分補給もしている。病院の先生が言うには、新陳代謝が上がることはとても良いことのようで、それに加えて水分をこまめに摂っている彼の体は非常に良い循環が出来ているそうだ。そうやって聞くと私も嬉しくなる。少しでも病気の治る確率が上がるのなら何だってした方がいいと思うし、私だって惜しまず何だってしたい。

 「ふぅ。今日のストレッチ、終わり」
 「お疲れ様。今日もいっぱい汗かいたね」
 「うん。自分でもびっくりするぐらい汗をかくようになったよ。におったらごめんね」
 「そんなこと気にしないから。むしろ、達月くんのにおいなら全然いいよ」
 「いや、それはちょっとこっちが恥ずかしいから」
 「あはは。だってほんとのことだし。まぁでも体が活動出来ているのならいいことじゃん」
 「まぁそうだけどさ」

 彼は口をへの字に曲げながら、私が差し入れで切っておいたリンゴを齧り始めた。彼はリンゴが好きで、私が皮を剥いてテーブルの上に置いておくと彼はすぐにそれを自分の口の中へ放り込む。それを噛みしめている時の彼の顔は、本当に美味しそうにそれを食べている。それだけ嬉しい顔をされると、作った私まで嬉しい顔になる。

 「お、今日のリンゴはちょっと甘めだね」
 「分かった? 隠し味に蜂蜜とあるものを入れたからね」
 「あるもの……。なんか当てたいな。あるもの」
 「ヒント……。調味料ではありません」
 「そうだよね……。んー、あえてレモンとか?」
 「残念、違います」
 「んー、まじか。降参です」

 あっさりと負けを認めて私の目をじっと見つめている。彼は私の目をずっと眺めていられるようになった。以前の彼では考えられないくらい見つめられる。あまりにも綺麗で真っ直ぐな瞳で見つめられるものだから、逆に私が恥ずかしくなって目を逸らしてしまうことが多くなった。私は照れ隠しをするように大袈裟に口角を上げて笑った。

 「正解はね……とびっきりの愛情でした!」
 「…… 」
 「達月くん、そこはリアクション欲しいところ」
 「ま、まじかぁー。そりゃ分かんないってー」

 棒読みも棒読み、演技力もなければ感情のないそれを目の当たりにした私はすぐさま彼に謝ってリンゴを差し出した。

 「ほ、ほら! 美味しく出来たんだからいっぱい食べてね。これも治療のうちだよ」
 「うん。ありがとう。今日は多分、全部食べれそうな気がする」
 「お、いいね。その調子が続くといいけど」
 「ここに入院してから胃袋が大きくなった気がするんだよね。絶対ありえないことだと思うけど」
 「いいことじゃん。絶対ありえないことはないんじゃない? 奇跡的なことだって起こるって思った方が物事もいい方向に進みそうだし」
 「まぁ、確かにね。ありがとう。今日もご馳走様でした」
 「はーい。食べてくれてありがとうね」

 お腹が満たされているのか、彼はベッドにもたれかかりながら私を見つめてふふっと軽やかに笑った。

 「なに? 私、何も面白いことしてないよ」
 「いや。愛情って。ちょっと時間差で笑えてきちゃって」
 「今笑うの? それはひどくない? 笑うならあの時笑ってよ」
 「ごめんごめん。ただね、素直に嬉しかったよ。僕も頑張らなきゃなって思うっていうか」
 「達月くんは頑張ってるよ。毎日ほんとにすごいと思ってる」
 「日菜さんがそう言ってくれるならありがたいし嬉しいけどね」

 腕を組んでうんうんと自分に言い聞かせるように彼は首をゆっくりと縦に振った。そんな彼を見ると、私はたちまち視界が滲み、心の中がじんと熱くなったのを必死に気を紛らわせて彼の方を見て笑った。

 「じゃあ私も達月くんに負けじと頑張るよ。達月くんに感動してもらえるようなビーフシチュー作って、ここに持ってくるから。絶対」
 「そんな大きい差し入れ、持ってこられないでしょ?」
 「大丈夫だよ。その時にはあの人を連れてくるから」
 「あの人?」
 「うん。達月くんの想像通りの人だよ」
 「ニケさん?」
 「まぁまぁ。その日が来るまで私も腕、磨いておくからね」
 「気になるけど。まぁうん、ありがとう。僕なりに頑張ってみるよ」

 食事の時間が終わり、再び達月くんは体を動かし始めた。その姿に触発されるように私も差し入れの籠に入っているメロンに手を伸ばした。すると、病室のドアがコンコンと2回ノックされた。

 「はい。どうぞ」
 「よっ! 元気してるか? 売れっ子小説家。日菜ちゃんも久しぶり」
 「日菜も達月くんも久しぶりだね。晴樹さん、歩けるようになったよ」

 部屋に明るい声色が響き、ドアが開くとそこには本当に久しぶりに見る、両足でしっかりと立っている晴樹さんがいた。それに続くように佳苗が病室に入ってきた。佳苗を見るのも3ヶ月ぶりくらいだろうか。4人が揃ったことで私はまた感情が大きく揺れ動く。やっぱり私は確実に涙もろくなった。私は昂る気持ちを抑えながら佳苗と晴樹さんに笑顔で手を振った。

 「あぁ、お2人さん。すごい久しぶりだね」
 「おぉ。いつぶりだよ、達月。昔から細くてスタイル良かったのに、もっとモデル体型になってるじゃんか。このままいっそモデルに転向するか」
 「いやいや、こんな頼りない体で髪の毛が抜けてるモデルなんて読者が見てられないでしょ」
 「そうか? 俺はイケメンのお前ならどんな状態でもカッコいいと思ってるけどな。現にそのスキー選手が被ってそうなニットキャップを被ってるお前だってかっこいいぞ?」
 「褒めてるのかイジってるのかどっちだよ」
 「晴樹さん、そのニットキャップ作ったの、私なんだよね」
 「え、えぇ!? マジで? ど、通りで良い味が出てると思った」
 「晴樹。それ、やっぱり半分イジってるよね」

 達月くんと晴樹さんが笑い合っているのを見たのは何年前になるだろうか。それを感じさせない2人の普段通りのやりとりを見ていて私の顔も自然と笑顔になった。佳苗もふふっと笑いながら晴樹さんを見つめている。

 「そう。佳苗には言ったんだけど、俺、ついに足が完治しました。3ヶ月くらい前になるかな。それでリハビリを兼ねて所属チームで一から体を鍛え直して、食事面や精神面では佳苗に支えてもらった。おかげで俺、来年開催される日本代表に選ばれました」

 佳苗と晴樹さんが合わせたように同じタイミングで手を叩き始めた。私も驚きながら2人に合わせて手を叩く。晴樹さん、本当にすごい。絶望的だと言われていた大怪我を乗り越えて見事に日本代表に選出されたんだ。私は2人よりも確実に大きな音で手を叩いた。達月くんはぽかんと口を開けたまま晴樹さんの顔を見つめている。

 「すげーだろ、達月。今日はこれをお前に言いに来たんだ。あ、日菜ちゃんにも初めて伝えたと思う。2人も俺が絶望の底にいた時、一緒に俺を引っ張ってくれたんだよ。だから、俺もその恩を返したくてここに来た」
 「恩なんて。僕はあの時、晴樹にとって必要なことだと思ったからみんなと一緒にあの空間にいたんだ」
 「俺も今、同じことを考えてんだよ。お前の体の中にいる病気、強いんだろ。だったら俺が最強の力を貸してやる。だから死ぬんじゃねえぞ。来年のW杯のチケット、日菜ちゃんと達月で2人分渡すから絶対観に来るんだぞ」

 バレーボールくらいのサイズがありそうな晴樹さんの大きな手が達月くんの被っているニットキャップに触れ、わしゃわしゃとそれを撫でた。照れくさそうに達月くんは窓の方に視線を移した。それを見た晴樹さんはへへっと笑った。

 「そういう反応は昔のままだな、達月」
 「悪かったね。成長してなくて」
 「いや、お前は強いよ。達月。まぁでも、強いのはお前だけじゃない。日菜ちゃんも強い。佳苗も強い。そんで、俺も強い。ここにいる4人は他の誰にも負けない強さを持ってる。俺は自信を持ってそう言い切れる!」

 声のボリュームを間違えている晴樹さんの声が病室に響く。ここが個室で良かったと思ったのは私だけではないはず。ただ、この晴樹さんの声がとても力強く、背中を押された気持ちになったのも私だけではないはずだ。晴樹さんはやっぱりすごい人だ。

 「私は強い要素なくない? 晴樹さんの彼女と言っても見ての通り、か弱い女だよ」
 「そうでもないぞ。佳苗はいつだって俺に勇気をくれた。俺が人生で一番辛い時に一緒にいてくれた。俺にとって佳苗はベストパートナーだよ」

 私と達月くんの前で繰り広げられる晴樹さんと佳苗のやりとりは、見ているだけでにやけてしまう。照れ隠しをしてそっけない態度をとる佳苗を見ていると、思わず声を出して笑ってしまった。

 「晴樹さん、そんなに言っても今日の晩御飯のメニュー変えないよ。……って。え? 晴樹さん? それって……」

 晴樹さんの左手にあったのは、いかにも、と言えるコンパクトなサイズの白い色の箱があった。晴樹さんの手が少し震えながらその箱の上部分をゆっくりと上げた。すると、中にはやっぱり佳苗の薬指に入りそうなくらいの小さくて上品な色で光る指輪がそこに挟まれていた。驚いている佳苗は、大きな目をさらに見開き、口を両手で覆いながらそれをじっと見つめている。

 「佳苗。今まで彼女でいてくれて本当にありがとう。これからは妻として俺の横にいてほしい。ベストなタイミングではないかもしれないけど佳苗、俺と結婚してください」

 片足を曲げ、跪いて深々と頭を下げる春樹さん。それを見た私は、佳苗より先に涙を流してしまい佳苗はそれを見てははっと笑った。

 「何で日菜が先に泣いてんの。私が泣くタイミング無くなっちゃったじゃん」
 「だって……。なんか、感動しちゃって。ごめん……」
 「あはは。でも、なんか日菜らしいよ。晴樹さん、もちろんです。こちらこそ、私の旦那として側にいてください。よろしくお願いします」

 4人しかいない空間。ましてや私と達月くんしか手を叩いていないのに、まるで世界中の人が2人の結婚を祝福しているように私たちの拍手が響き渡った。顔を上げた晴樹さんも静かに涙を流し、ゆっくりと佳苗をその大きな体で抱きしめた。佳苗からも鼻をすする音が聞こえてきた。

 「2人ともおめでとう。僕自身、人生でこんなに感動したことはないし、こんなに感動する場面に立ち会えてすごく幸せだよ」
 「達月。ありがとうな。お前、昔より良い顔して笑うようになったな」
 「そう? 前髪が無くなったから顔が見やすくなったんじゃない?」
 「いや、そうじゃない。なんていうか、その、感情を覚えた。みたいな感じで思った」
 「ん? 僕だって人間だよ。昔から」
 「まぁ何にせよ! ここにいる全員ハッピーってことでいいんじゃない!?」

 私が無理矢理その場を収めようとすると、他の3人が全く同じタイミングで私を見て大声で笑った。

 「まとめるの下手か、日菜!」
 「さすがに俺も思ったよ! けど日菜ちゃん、フォローありがとな」
 「ハッピーって言葉、久々に聞いたよ」

 馬鹿にされた感じも否めないけれど、何よりみんなの笑顔を見ることができて本当に良かった。ここが病室だと忘れそうになるくらい和やかな雰囲気のまま、私たちはこのまま夜遅くまで語り合った。

 達月くんが治療を始めてから早くも2ヶ月ほどが経った。未だに彼の病気が治る方法は見つけることが出来ていない。それでも、みんなといればいつか彼の病気は治ると、根拠のない自信が私の胸の中に込み上げている。
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