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第3章 離れてはいけないし、離れたくない
#42
しおりを挟む「そっか……。日菜ちゃんも知っちゃったか。達月くんの病気」
通り過ぎていく街灯の黄色い光や、信号が赤くなったり青白く光ったりする色で優子さんの顔の色が次々と変わっていく。静かなタクシーの車内で優子さんの寂しそうに囁く声だけが車内に溶けた。
「……優子さん」
「何?」
怒るつもりはもちろんない。けれど、隠し事をされていたのは事実だ。優子さんにはやっぱり聞きたくなった。いや、聞くべきだと思って私は思い切った。
「何で私に教えてくれなかったの? 達月くんのこと」
問い詰める私をひらりとかわすように優子さんは優しく笑って口を開けた。
「……達月くんね、私とニケさんのあの家で暮らし始めた頃ね、冗談抜きで猫ぐらいの大きさしかなかったんだ。ウチで保護するってなった時は正直、心配しかなかった」
まるで息子の話をするように可笑しそうに笑って、それでいて優しさも含まれている声で優子さんは当時の彼を思い出している。
「子どものいない私たちに、子どもを育てたことのない私たちに、こんなに小さな子を育てていくことができるの? って私はその時初めてニケさんに怒ってしまった。達月くんには悪いけど、その頃の私は彼を育てる自信が無かった」
「……それはちょっと意外だな」
「それでもね、彼が、ニケさんがね、絶対僕と優子がこの子の親になるんだって聞かなかった。多分、ニケさんの昔の状況と重なったんじゃないかな」
「昔の状況?」
「ニケさんもね、師匠っていう素敵な大人に拾われて立派に育ててもらった過去があるから。だからニケさんも、その子の師匠になりたかったんじゃないかなって思ってる」
「……師匠。うん、言ってた」
いつか聞いたニケさんの過去の話。本当の両親の愛情を受けてこなかった2人の境遇が偶然にもそこで重なった。それは偶然なのかもしれないけれど、ある意味必然的な出来事なのかもしれない。
「そんなニケさんと一緒に毎日達月くんと過ごしていった。大変だったこともいっぱいあったけど、楽しいことはそれよりもいっぱいあってさ。1年1年過ぎるスピードが尋常じゃないほど早かった。いつの間にか達月くんは私よりも身長大きくなってるし。いつの間にか達月くんは声が低くなってるし。いつの間にか達月くんは小説家になってるし、いつの間にかひとり暮らし始めるって言って出ていくし」
優子さんの声が震え、体も震えている。私は手元にあったブランケットを優子さんの両肩から全身を包み込むように添えた。
「ありがとう、日菜ちゃん」
「ううん」
「そんな達月くんが病気なんてさ、言いたくなかったし信じたくなかった。だから日菜ちゃんにも言えなかった。家族のように思ってる日菜ちゃんにはすごく辛い思いをさせるって思ったから、尚更言えなかったんだ……。ごめんなさい」
両手で顔を隠しながら頭を下げる優子さん。彼女も相当苦しんでいたんだ。私のことも考えてくれていて。私は彼女の冷たい体を温めるように撫で続けた。
「……優子さん」
「……何?」
「子どもの頃の達月くん、可愛かった?」
私の問いを聞くと、優子さんは涙を流しながら微笑んだ。
「当たり前じゃん」
私も優子さんにつられるように笑った。
「だよね。達月くんの小さい頃、見てみたかったな」
「家に帰ったら見せてあげる。いっぱいあるから」
優子さんと語り合っていると、タクシーは空を飛んでいたのかと思うほどスムーズに彼のアトリエまで辿り着いていた。私たちはタクシーから降りてアトリエの前に立って、本当に久しぶりにドアを3回ノックした。窓越しに部屋が明るくなったのが見えて足音がドアに近づいてきた。
✳︎
「……」
「……」
「……」
アトリエの中に入れてくれた達月くんは、私と優子さんの顔を見ただけでその口からは何も声を発さずに、私たちの前に香ばしい香りのするコーヒーが入ったカップを置いて椅子に座った。優子さんも達月くんも口を開かないこの空間に緊張して私も声を発さずにいてしまう。私の横に座る優子さんの方をちらっと見ると、優子さんは彼の淹れたコーヒーカップをじっと見つめている。
「……達月くん」
優子さんはそのコーヒーカップを見つめたまま彼を呼んだ。彼の方を見ると、まるで糸でそこを縫われたのかと思うほど口をぐっと噤んだまま優子さんの方を見つめている。
「上手くなったじゃん。コーヒー淹れんの」
ふふと笑う、優子さんの声に緊張が解れたのか、彼の口に入っていた力も緩んでいるように見えて少しだけ口が開いていた。
「おかげさまでね。それに僕も毎日作ってるしね。まぁ分かりやすい淹れ方を教えてくれた優子さんのおかげだよ」
「相変わらず達月くんは褒めるのが上手だね」
「いや、本当のことしか言わないから」
「ふふ、ありがとうね」
2人のやりとりを見ていると、私も緊張が解れてきたようで体全体に力んでいた力がすーっと抜けていくように感じた。私も続けてそのコーヒーを飲んでみると、本当に優子さんの作ったコーヒーと遜色ないくらい美味しかった。その味に感動しながら飲み進んでいると、達月くんの口が再び開いた。
「2人とも来てくれてありがとう。さっきはあんな感じで店から帰っちゃったけど、僕は改めて自分の中にいる病気を治そうと決めました。口下手で1人で抱えようとしていた僕にてを差し伸べてくれてありがとう」
照れくさそうに話す彼の目線の先には、私の使っているコーヒーがあった。目線を合わさずに話す彼を見て、達月くんらしさが滲み出てきていて私はふふっと笑えた。
「当たり前じゃん。さっき、電話でも言ったでしょ。私に何ができるか分からないけど、できることは何でもする。だから達月くん、1人で抱え込まなくていいからね」
私の言葉に反応するように私の顔を見る達月くんの頬が、いつもより赤くなっている気がした。私の向かいで笑う優子さんもゆっくり、首を縦に動かして頷いている。
「そうそう。重い物を持ち上げる時は1人で持つより、3人で助け合ってそれを持ち上げた方が負担が減る。もちろん、私たち以外のニケさんや晴樹さん、佳苗さんも力を貸してくれる。それは絶対言いきれる。だから達月くん、キミは1人じゃない。キミの周りには私たちがいる。だから安心して」
優子さんの声を聞いている達月くんは、手元のカップを見つめたまま何も言わずに固まってしまっている。石像と化していた達月くんは次に動き出した瞬間、目元を指で拭うと、星屑が散りばめらているように綺麗な瞳を潤ませていた。
「……僕は幸せ者だ」
小さな声で呟いた彼は、涙が溢れそうになる瞳を私に向けるとへへっと声を出して笑ってみせた。
「心強いみんながいるから、僕も頑張れる気がする」
「……うん。大丈夫。達月くん。みんな、いるからね。絶対治るよ」
優子さんも鼻を啜りながら目頭から一筋涙を流して笑っていた。柔らかい笑顔を見せる達月くんを見ていると、無性に彼に触れたくなってその大きな背中にゆっくりと触れた。普段は驚くほど体の冷たい彼の体は、まるでお風呂上がりかと思うくらい温かくなっていた。彼の背中を撫でていると、彼は私の方を振り向いて微笑んだ。
「日菜さん、僕、頑張るよ」
彼の声を聞いた途端に、私の視界も滲み、つられて涙が出そうになっていたけれど、私は絶対に泣かないように堪えながら今できる全力の笑顔を彼に向けた。
「うん! 私も達月くんに負けないぐらい頑張るから」
優しい笑顔のまま、彼が私の方を向いてゆっくりと抱きしめてくれた。いつもの彼のにおいが私の鼻に届く。それに安心するように私の心が落ち着いた。それに応えるように私も彼の体を抱きしめ返した。隣にいる優子さんの鼻の啜る音がさっきよりも大きくなっていた。私は、彼の服に顔を埋め、涙が彼に気づかれないように静かに泣いた。彼の着ている服が黒くてよかった。私たち3人はそれから日が昇るくらいまで語り合った。その後、電池が切れたように意識が遠のいていった。次に目を覚ました頃、目の前には達月くんと優子さんが同じようにテーブルに突っ伏して眠っていた。2人に気づかれないように私は2人のその姿を写真に収めた。
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