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三章 桑爪を探して
皆お酒を飲んでいるの
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日比谷遥のアパートは、大学の南側に広がるひっそりとした住宅街の中にあった。
路線バスも近くを走り、コンビニエンスストアもいくつかあるので、さしあたって暮らすのに不便はないように思えるが、この辺りに居を構える学生はそう多くない。潟杜市自体が、北から南に向かって下り勾配の地形をしている為に、大学に向かおうとすると、毎回坂を上らなければならないからだ。
なまじ起伏の激しい土地に城を築き、以降何百年にも渡って攻め入られづらい町づくりを推し進めてきた潟杜市は、現在でも駅前から郊外まで満遍なく多様な坂道が入り組んでいる。
ひとたび気を抜けば異界に迷い込みそうな奥ゆかしい小径に侘びと寂びを見出し、怪しげな想像をめぐらして生きるのが潟杜暮らしの通な楽しみ方とも言えるが、そうは言っても一人の夜道は心細い。スマートフォンで位置を確かめながら迷路のような住宅街を彷徨って、ようやく、ぽつねんと明かりの灯るアパートの前にたどり着いた時、利玖は心の底からほっとした。
三階建ての質素なアパートで、建物にオートロックはついていない。教えられた通りに二〇七号室の前まで行ってドアベルを鳴らすと、「はあい」と遥の声が返って来た。
がちゃがちゃと鍵を外す音に続いて、内側から扉が開く。
紙コップを傾けて、こくこくと美味そうに喉を鳴らしていた遥は、険しい表情で息を切らしている利玖を見るや、目を丸くした。
「え、利玖ちゃん、その格好のまま来たん?」
「少し……、急いでいまして……」
遥からの電話に出た時点で十八時半を過ぎていた。今から大急ぎで大学へ取って返しても、十九時から開演する史岐達のライブには、アンコールに間に合うかどうかすら怪しいといった所だった。
考えたら足が止まってしまうからと、ずっと見ないようにしていたどうしようもない不安に気づいた途端、慣れない夜道を脇目も振らずに駆け抜けてきた疲れが一気に押し寄せて来て、利玖はひりつくように痛む喉を押さえて目をつぶった。
その様子を見て、ただならぬ事情を抱えている事を察したのか、遥は真剣な顔でリビングに向かって「トーコ!」と呼んだ。
リビングで輪になって酒を飲み交わしていた部員達の間から、東御汐子が立ち上がると、小さな巾着を持って戸口までやって来た。
「刃物みたいだから、ガーゼにくるんで入れておいたわ。確認してくれる?」
受け取った巾着からおそるおそるガーゼに包まれた塊を取り出し、手のひらの上で広げると、そこには史岐が描いた物と寸分違わない一揃いの桑爪があった。
ドールハウスのティーカップみたいに小さな物を想像していたが、利玖が指にはめても使えるぐらいには大きい。主の元に戻れば、本来の大きさに戻るのだろうか。
「これが、巫女の袖から……」
「そうそう、まさかの身内やで。これ見てみ」
日比谷遥が、自分のスマートフォンを掲げるのと同時に、リビングで「うわあ!」と悲痛な声が上がった。
「ちょっと、先輩! 勝手に見せないでって言ったじゃないですか!」
そう喚いているのは、店仕舞いをした後の屋台で見かけた曽根という名の男子部員である。
白酒を召した右大臣よろしく顔全体が桃色に染まっている。勢い込んでこちらへ向かってこようとしたが、足元がふらついてあっけなく脇の部員に取り押さえられた。
遥は後ろを振り向き、鬼のような形相で「じゃかあしい」と一喝した。
「あの場で正直に言うとったら、利玖ちゃんもこんな大変な思いせんで済んだんよ。乙女に夜道を走らせた罰として、あんたはそこで神妙に恥ずかしがっとりよし」
遥のスマートフォンには、巫女装束を着て長い黒髪の鬘を被り、薄化粧まで施した曽根部員の写真が映し出されていた。
「他のサークルん所でしょうもない勝負して、罰ゲームで着させられたんやて。うちらにばれへんように西門の方には近づかへんかったっちゅうんやから小賢しいわ」遥は口に咥えた空の紙コップをぷらぷらさせながら喋る。「ここに来て飲み始めてから、『誰かこんなの落としましたか?』て見せられた時には絶句したわ。でもまあ、曽根やんが屋台に来たんは桑爪の話が終わった後やったから、たまたま拾ったようわからん道具見せたら巫女のコスプレしとったんがばれるなんて思わへんかったんやろな」
曽根が「まったくです」とぶつぶつ言った。
「皆さん、ありがとうございます」利玖は胸の前に巾着を抱きしめながら、深々と頭を下げた。「本当に……、助かりました」
「今からまた大学戻るん?」
「はい」
遥と汐子はそれを聞くと、さっと顔を見合わせ、無言で互いに向かって頷いた。
「利玖ちゃん、ちょっとこっちおいで」
遥が利玖の肩を押して玄関の方に追いやるのと同時に、汐子がリビングに戻って行く。
「あの、遥さん、すみませんが急いでいるんです」
「せやったら尚更」
間を置かずに汐子が戻ってきた。
彼女は、後ろ手にリビングのドアをしっかりと閉めたのを確認すると、もう片方の手に抱えていた無地のパーカーと細身のスキニー、そして畳んだタオルケットを遥に差し出した。
「これで良かった?」
「おっけい、おっけい」
遥はタオルケットを振って広げると、それを緞帳のように利玖との間に下ろした。
「ごめんな。安アパートやよって、うちもいっつもここで服脱いでお風呂入ってんねん。浴衣だけ置いてってくれたら洗濯して返すさかい、ちゃんと温かい格好して帰り」
「遥さん……」
タオルケットの仕切りの向こうで、「ふふん」と遥が得意げに鼻を鳴らした。
「それに、上手いことしたら、返すっちゅう名目でお仕事しとる匠さんの所行けるやろ?」
「ごめんなさいね。誰か車を出せたら良かったんだけど、わたし達皆お酒を飲んでいるの」
誰が見ても一目瞭然な事を、汐子がいたって真面目な口調で言うので、利玖は我慢出来ずに吹き出してしまった。
路線バスも近くを走り、コンビニエンスストアもいくつかあるので、さしあたって暮らすのに不便はないように思えるが、この辺りに居を構える学生はそう多くない。潟杜市自体が、北から南に向かって下り勾配の地形をしている為に、大学に向かおうとすると、毎回坂を上らなければならないからだ。
なまじ起伏の激しい土地に城を築き、以降何百年にも渡って攻め入られづらい町づくりを推し進めてきた潟杜市は、現在でも駅前から郊外まで満遍なく多様な坂道が入り組んでいる。
ひとたび気を抜けば異界に迷い込みそうな奥ゆかしい小径に侘びと寂びを見出し、怪しげな想像をめぐらして生きるのが潟杜暮らしの通な楽しみ方とも言えるが、そうは言っても一人の夜道は心細い。スマートフォンで位置を確かめながら迷路のような住宅街を彷徨って、ようやく、ぽつねんと明かりの灯るアパートの前にたどり着いた時、利玖は心の底からほっとした。
三階建ての質素なアパートで、建物にオートロックはついていない。教えられた通りに二〇七号室の前まで行ってドアベルを鳴らすと、「はあい」と遥の声が返って来た。
がちゃがちゃと鍵を外す音に続いて、内側から扉が開く。
紙コップを傾けて、こくこくと美味そうに喉を鳴らしていた遥は、険しい表情で息を切らしている利玖を見るや、目を丸くした。
「え、利玖ちゃん、その格好のまま来たん?」
「少し……、急いでいまして……」
遥からの電話に出た時点で十八時半を過ぎていた。今から大急ぎで大学へ取って返しても、十九時から開演する史岐達のライブには、アンコールに間に合うかどうかすら怪しいといった所だった。
考えたら足が止まってしまうからと、ずっと見ないようにしていたどうしようもない不安に気づいた途端、慣れない夜道を脇目も振らずに駆け抜けてきた疲れが一気に押し寄せて来て、利玖はひりつくように痛む喉を押さえて目をつぶった。
その様子を見て、ただならぬ事情を抱えている事を察したのか、遥は真剣な顔でリビングに向かって「トーコ!」と呼んだ。
リビングで輪になって酒を飲み交わしていた部員達の間から、東御汐子が立ち上がると、小さな巾着を持って戸口までやって来た。
「刃物みたいだから、ガーゼにくるんで入れておいたわ。確認してくれる?」
受け取った巾着からおそるおそるガーゼに包まれた塊を取り出し、手のひらの上で広げると、そこには史岐が描いた物と寸分違わない一揃いの桑爪があった。
ドールハウスのティーカップみたいに小さな物を想像していたが、利玖が指にはめても使えるぐらいには大きい。主の元に戻れば、本来の大きさに戻るのだろうか。
「これが、巫女の袖から……」
「そうそう、まさかの身内やで。これ見てみ」
日比谷遥が、自分のスマートフォンを掲げるのと同時に、リビングで「うわあ!」と悲痛な声が上がった。
「ちょっと、先輩! 勝手に見せないでって言ったじゃないですか!」
そう喚いているのは、店仕舞いをした後の屋台で見かけた曽根という名の男子部員である。
白酒を召した右大臣よろしく顔全体が桃色に染まっている。勢い込んでこちらへ向かってこようとしたが、足元がふらついてあっけなく脇の部員に取り押さえられた。
遥は後ろを振り向き、鬼のような形相で「じゃかあしい」と一喝した。
「あの場で正直に言うとったら、利玖ちゃんもこんな大変な思いせんで済んだんよ。乙女に夜道を走らせた罰として、あんたはそこで神妙に恥ずかしがっとりよし」
遥のスマートフォンには、巫女装束を着て長い黒髪の鬘を被り、薄化粧まで施した曽根部員の写真が映し出されていた。
「他のサークルん所でしょうもない勝負して、罰ゲームで着させられたんやて。うちらにばれへんように西門の方には近づかへんかったっちゅうんやから小賢しいわ」遥は口に咥えた空の紙コップをぷらぷらさせながら喋る。「ここに来て飲み始めてから、『誰かこんなの落としましたか?』て見せられた時には絶句したわ。でもまあ、曽根やんが屋台に来たんは桑爪の話が終わった後やったから、たまたま拾ったようわからん道具見せたら巫女のコスプレしとったんがばれるなんて思わへんかったんやろな」
曽根が「まったくです」とぶつぶつ言った。
「皆さん、ありがとうございます」利玖は胸の前に巾着を抱きしめながら、深々と頭を下げた。「本当に……、助かりました」
「今からまた大学戻るん?」
「はい」
遥と汐子はそれを聞くと、さっと顔を見合わせ、無言で互いに向かって頷いた。
「利玖ちゃん、ちょっとこっちおいで」
遥が利玖の肩を押して玄関の方に追いやるのと同時に、汐子がリビングに戻って行く。
「あの、遥さん、すみませんが急いでいるんです」
「せやったら尚更」
間を置かずに汐子が戻ってきた。
彼女は、後ろ手にリビングのドアをしっかりと閉めたのを確認すると、もう片方の手に抱えていた無地のパーカーと細身のスキニー、そして畳んだタオルケットを遥に差し出した。
「これで良かった?」
「おっけい、おっけい」
遥はタオルケットを振って広げると、それを緞帳のように利玖との間に下ろした。
「ごめんな。安アパートやよって、うちもいっつもここで服脱いでお風呂入ってんねん。浴衣だけ置いてってくれたら洗濯して返すさかい、ちゃんと温かい格好して帰り」
「遥さん……」
タオルケットの仕切りの向こうで、「ふふん」と遥が得意げに鼻を鳴らした。
「それに、上手いことしたら、返すっちゅう名目でお仕事しとる匠さんの所行けるやろ?」
「ごめんなさいね。誰か車を出せたら良かったんだけど、わたし達皆お酒を飲んでいるの」
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