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第5章
13 ジレンマ
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ひとつの綻びといえど、塞がずにいれば次第に穴は大きくなり大損害を被る。ひとつ譲れば事は無事に済む。ふたつ守れば絆は深まり、みっつ繋げば、皆安心。何だこの標語みたいなの。馬鹿馬鹿しい。
雪はクスッと笑った。我ながら安っぽい出来だ。自分の意思を貫くことがこんなにも難しいとは思わなかった。特別な難癖つけているわけではないのに。なかなかどうして前に進まない。このままでは、泉原雪のままでいられなくなる。
猫に吠えられるとは思ってもいなかった。怒鳴られたと言ってもいいが、ここは吠えられたと言った方が当たっている。ククルは怒った顔もきれいだ。剝きだした歯も、鼻筋もスッと入って毛並みも申し分ない。浮遊体なのに姿はしっかりと猫形に象られていた。中身のない体に魂が宿る。いずれ体を取り戻すとナイトメアが言っていたのを思い出した。使い魔であるククルの復活を望んでいた。あと、ヴァリウスの討伐。ククルを始め、無残に殺された獣人達の復讐だと言ってた。愛着のあるククルの復活を望むのはわかるけど、名前も知らない獣人達の復讐を買って出るのには違和感が拭えない。そんな殊勝なことをやる人とは到底思えないのだ。あいつ何を考えている?
「ねぇ、ナイトメアには会ったの?あいつ何を考えているの?」
「…って、いえ。それよりわたしの話聞いてますか?」
「聞いてるよ。でも、」
「でももへったくれもないですよ。決意をしたのなら巫女の元に行きましょう」
ククルはいきり立っていた。
「私、消える気ないよ」
(何でククルが怒っているのだろう?)
背中の毛がビリビリと逆撫でていた。
「…他に方法があれば聞きますよ」
「…どれもこれも私が消えること前提よね。うまいこと言って安心させたとでも思った?」
反面、雪は怒ることなく冷静に答えた。
ぐぬぬ…。
ククルは黙ってしまった。ブス顔もきれいだ。
「本当は方法なんてないのでしょう?」
ククルの言ってることはわかる。ヴァリウスの目をいっときでも逸らすための目くらましだ。ならフリでもいいのではと思ってしまう。
本当に記憶を消す必要があるの?消したら戻ってくる保証はあるの?
結果が目に見えていても、悪あがきは最後までしたいと思うのは当たり前よね?自分以外の人が焦っていると自分はやけに冷静になれるのはなんでかな?心配されていることが嬉しくて、顔が綻んでしまう。同じ綻びならこういう方がいい。
「…でも、マリーの姿が見たいから行こうか」
「覚悟したんですか」
「覚悟なんてないよ。でも、黙って消えるのは嫌だから。お別れぐらいはしたいじゃない」
人付き合いは上手い方じゃなかったけど、いなくなったことも知らされずに消えるのは悲しい。
「欲張りですね」
「そうかな?…そうかもね」
覚えていてほしい。少しだけでいいから。私がいたという証を残してほしい。
「欲張りですよ。あなたもご主人も」
わたしの為にとか言っておきながら、別の人のことを考ている。わたしはいつだって一番にはなれない。でも、この人を放ってはいけない。
「別れの挨拶なんていりませんよ。あなたの犠牲の上で、巫女は生かされたと知る方が可哀想じゃないですか」
消えた理由は知らせたくないんじゃないんですか?
ほら、また。雪を傷付けることば。回避しようとすればするほど口からこぼれてしまう。
ククルをひねくれさす原因を作ったのは雪だけれど、嫌いにはなれなかった。こめかみのシワがぎゅうぎゅうに寄せてきた。
ククルは気まずそうに顔をしかめた。雪の顔をまともに見られない。
「会いに行くだけよ」
雪はククルの頭に手を置いた。柔らかな毛の感触は、狭い額でも指先だけでもわかった。
いいこいいことあやす指先は、ククルの心情を察したかのように優しいものだった。
「影付きさん」
ククルは俯き気味でいた顔を上げた。
「雪よ。泉原 雪」
一人でも多く名前を覚えていてほしい。いずれは忘れていいから。
「今は覚えていて」
体を撫でる手は優しかった。かつて主人と窓辺で日向ぼっこしていた時と同じ感覚になった。頬を撫でる風の流れに雪の手つきはよく似ていた。
「…歌が聞こえるね。それを辿ってマリーの元に行こう」
雪は耳に手を当てて、声が聞こえる方角を向いた。
「…」
ククルはまた黙ってしまった。声のなる方に行けば雪の末路が待っているからだ。
雪を好きだと言っても主人を慕うそれではない。愛情でもない。自分とは違う考え方をしているところが面白いと思った。好きだった。右向けば左。上を見れば下。人とは違う観点で物事を考える。他人にばかり優しくて、自分を蔑ろにするかと思えば、記憶を消されたくないと足掻いてくる。惜しむ気持ちもわからなくもないが、記憶の消去も上書きもいくらでもできる。過去が消えても何度でも上書きは可能だ。
あなたの過去が消えてもわたしがいる。あなたの側にわたしがいて何度でも記憶を書き直してあげる。
「…」
ククルは喉元まで出かかった気持ちを一旦止めた。地上近くまで降りてきたからだ。ふわふわな風に邪魔されたくない。わたしの気持ちはふわふわなどしていない。本気だからだ。わたしがこの人を取ったら、ご主人との縁が切れる。それでもいいと思った。わたしを追いかけてきたいと強い念があれば再会も夢ではない。ただ、ご主人との記憶が消えるだけだ。
ククルは雪の肩の上に乗った。毛箒が鼻をくすぐる。
ぴょんと雪の肩の上から飛び降りて地面に足をついた。
地面を踏みしめる感触に違和感を感じた。長く浮遊体でいたから物に触れる感触が失われていたからだった。地面を踏みしめられているということは、近いうち本体に戻るからだ。その日を迎えればわたしは復活する。隣にはこの人ではなくご主人がいる。
「それではいやなんですよ!」
ククルはまた雪に吠えた。
雪もようやく地面に足をつけた。おとと、おとと、と足をもたつかせながらもなんとか両足で立つことが出来た。
一歩二歩、反動で足が勝手に動いた。
「足が変な感じ」
痺れている時には感覚がない。それと似ていた。
大地から伝わる小刻みな揺れに雪はハッとした。
「地震だ!」
両足を踏みしめるにはまだ痺れが消えてなかった。ピリピリとした電流が足の動きを鈍くさせた。あちこちで大地が隆起しているのが見えた。グラウンドカバーがめくり上がり、土肌が丸見えだ。
「何が起きているの!?」
身の丈以上の草木が生い茂り、ドドメ色の花が咲いていた。鼻をつくような匂いに雪は顔をしかめた。茎はよく見ると色が薄い。淡いというか濁っていた。緑には程遠い歪な色。
「成長が追いついてないようですね」
ククルもまた、雪と同じように表情を曇らせた。
呪歌によって、成長を促すというよりは無理矢理に追い込まれているように見えた。本来は花への純粋な祈りの歌だが、今はマリーの力が暴走している。チドリへの不信感やサリエに置き去りにされた恨みが純粋な歌を呪いの歌に変えてしまったのだ。
「マリー…」
雪は悲しげに空を見上げた。青空にも陰りが見えてきた。城の方角から湿った雲が集まりつつあった。
「巫女が暴走とは世も末だ」
ククルは呟いた。このままうやむやに事が済めばいいと思った。巫女の暴走を隠れ蓑にして、影付きを連れて逃げるのだ。国境を越えればヴァリウスは追っては来れない。記憶も奪われることはない。そうすればこの人の側にずっと居られる。
ククルは雪の前に立ち塞がった。
「契約をしましょう」
「え?」
「わたしに新しい名前を付けてください」
「新しい名前って…。ククルではなくて?」
「わたしとあなたの縁を結ぶ為に、新しい名前が必要なのです」
雪は戸惑うばかりだ。突然のククルの発言に頭の中がプチパニックだ。理解する機能がどっちらけで役に立ちそうにない。
「縁を結ぶってどういうこと?ククルじゃダメなの?ナイトメアはククルをずっと待っているのに、あいつの元には戻らないの?」
体が復活すれば記憶も据え置きだ。ククルとナイトメアの縁が再び結ばれる。
「…ご主人とは運が良ければまた会えます」
ククルには迷いがない。雪にも迷わせない。ドンと身構える姿に雪は一歩後退した。後ずさった足がピリッと痛んだ。左足だけに痛みが増した。刺青のように染み込んだティモシーの葉が足首にくっきりと浮かび上がってきた。
ひとつの綻びといえど、塞がずにいれば次第に穴は大きくなり大損害を被る。ひとつ譲れば事は無事に済む。ふたつ守れば絆は深まり、みっつ繋げば、皆安心。何だこの標語みたいなの。馬鹿馬鹿しい。
雪はクスッと笑った。我ながら安っぽい出来だ。自分の意思を貫くことがこんなにも難しいとは思わなかった。特別な難癖つけているわけではないのに。なかなかどうして前に進まない。このままでは、泉原雪のままでいられなくなる。
猫に吠えられるとは思ってもいなかった。怒鳴られたと言ってもいいが、ここは吠えられたと言った方が当たっている。ククルは怒った顔もきれいだ。剝きだした歯も、鼻筋もスッと入って毛並みも申し分ない。浮遊体なのに姿はしっかりと猫形に象られていた。中身のない体に魂が宿る。いずれ体を取り戻すとナイトメアが言っていたのを思い出した。使い魔であるククルの復活を望んでいた。あと、ヴァリウスの討伐。ククルを始め、無残に殺された獣人達の復讐だと言ってた。愛着のあるククルの復活を望むのはわかるけど、名前も知らない獣人達の復讐を買って出るのには違和感が拭えない。そんな殊勝なことをやる人とは到底思えないのだ。あいつ何を考えている?
「ねぇ、ナイトメアには会ったの?あいつ何を考えているの?」
「…って、いえ。それよりわたしの話聞いてますか?」
「聞いてるよ。でも、」
「でももへったくれもないですよ。決意をしたのなら巫女の元に行きましょう」
ククルはいきり立っていた。
「私、消える気ないよ」
(何でククルが怒っているのだろう?)
背中の毛がビリビリと逆撫でていた。
「…他に方法があれば聞きますよ」
「…どれもこれも私が消えること前提よね。うまいこと言って安心させたとでも思った?」
反面、雪は怒ることなく冷静に答えた。
ぐぬぬ…。
ククルは黙ってしまった。ブス顔もきれいだ。
「本当は方法なんてないのでしょう?」
ククルの言ってることはわかる。ヴァリウスの目をいっときでも逸らすための目くらましだ。ならフリでもいいのではと思ってしまう。
本当に記憶を消す必要があるの?消したら戻ってくる保証はあるの?
結果が目に見えていても、悪あがきは最後までしたいと思うのは当たり前よね?自分以外の人が焦っていると自分はやけに冷静になれるのはなんでかな?心配されていることが嬉しくて、顔が綻んでしまう。同じ綻びならこういう方がいい。
「…でも、マリーの姿が見たいから行こうか」
「覚悟したんですか」
「覚悟なんてないよ。でも、黙って消えるのは嫌だから。お別れぐらいはしたいじゃない」
人付き合いは上手い方じゃなかったけど、いなくなったことも知らされずに消えるのは悲しい。
「欲張りですね」
「そうかな?…そうかもね」
覚えていてほしい。少しだけでいいから。私がいたという証を残してほしい。
「欲張りですよ。あなたもご主人も」
わたしの為にとか言っておきながら、別の人のことを考ている。わたしはいつだって一番にはなれない。でも、この人を放ってはいけない。
「別れの挨拶なんていりませんよ。あなたの犠牲の上で、巫女は生かされたと知る方が可哀想じゃないですか」
消えた理由は知らせたくないんじゃないんですか?
ほら、また。雪を傷付けることば。回避しようとすればするほど口からこぼれてしまう。
ククルをひねくれさす原因を作ったのは雪だけれど、嫌いにはなれなかった。こめかみのシワがぎゅうぎゅうに寄せてきた。
ククルは気まずそうに顔をしかめた。雪の顔をまともに見られない。
「会いに行くだけよ」
雪はククルの頭に手を置いた。柔らかな毛の感触は、狭い額でも指先だけでもわかった。
いいこいいことあやす指先は、ククルの心情を察したかのように優しいものだった。
「影付きさん」
ククルは俯き気味でいた顔を上げた。
「雪よ。泉原 雪」
一人でも多く名前を覚えていてほしい。いずれは忘れていいから。
「今は覚えていて」
体を撫でる手は優しかった。かつて主人と窓辺で日向ぼっこしていた時と同じ感覚になった。頬を撫でる風の流れに雪の手つきはよく似ていた。
「…歌が聞こえるね。それを辿ってマリーの元に行こう」
雪は耳に手を当てて、声が聞こえる方角を向いた。
「…」
ククルはまた黙ってしまった。声のなる方に行けば雪の末路が待っているからだ。
雪を好きだと言っても主人を慕うそれではない。愛情でもない。自分とは違う考え方をしているところが面白いと思った。好きだった。右向けば左。上を見れば下。人とは違う観点で物事を考える。他人にばかり優しくて、自分を蔑ろにするかと思えば、記憶を消されたくないと足掻いてくる。惜しむ気持ちもわからなくもないが、記憶の消去も上書きもいくらでもできる。過去が消えても何度でも上書きは可能だ。
あなたの過去が消えてもわたしがいる。あなたの側にわたしがいて何度でも記憶を書き直してあげる。
「…」
ククルは喉元まで出かかった気持ちを一旦止めた。地上近くまで降りてきたからだ。ふわふわな風に邪魔されたくない。わたしの気持ちはふわふわなどしていない。本気だからだ。わたしがこの人を取ったら、ご主人との縁が切れる。それでもいいと思った。わたしを追いかけてきたいと強い念があれば再会も夢ではない。ただ、ご主人との記憶が消えるだけだ。
ククルは雪の肩の上に乗った。毛箒が鼻をくすぐる。
ぴょんと雪の肩の上から飛び降りて地面に足をついた。
地面を踏みしめる感触に違和感を感じた。長く浮遊体でいたから物に触れる感触が失われていたからだった。地面を踏みしめられているということは、近いうち本体に戻るからだ。その日を迎えればわたしは復活する。隣にはこの人ではなくご主人がいる。
「それではいやなんですよ!」
ククルはまた雪に吠えた。
雪もようやく地面に足をつけた。おとと、おとと、と足をもたつかせながらもなんとか両足で立つことが出来た。
一歩二歩、反動で足が勝手に動いた。
「足が変な感じ」
痺れている時には感覚がない。それと似ていた。
大地から伝わる小刻みな揺れに雪はハッとした。
「地震だ!」
両足を踏みしめるにはまだ痺れが消えてなかった。ピリピリとした電流が足の動きを鈍くさせた。あちこちで大地が隆起しているのが見えた。グラウンドカバーがめくり上がり、土肌が丸見えだ。
「何が起きているの!?」
身の丈以上の草木が生い茂り、ドドメ色の花が咲いていた。鼻をつくような匂いに雪は顔をしかめた。茎はよく見ると色が薄い。淡いというか濁っていた。緑には程遠い歪な色。
「成長が追いついてないようですね」
ククルもまた、雪と同じように表情を曇らせた。
呪歌によって、成長を促すというよりは無理矢理に追い込まれているように見えた。本来は花への純粋な祈りの歌だが、今はマリーの力が暴走している。チドリへの不信感やサリエに置き去りにされた恨みが純粋な歌を呪いの歌に変えてしまったのだ。
「マリー…」
雪は悲しげに空を見上げた。青空にも陰りが見えてきた。城の方角から湿った雲が集まりつつあった。
「巫女が暴走とは世も末だ」
ククルは呟いた。このままうやむやに事が済めばいいと思った。巫女の暴走を隠れ蓑にして、影付きを連れて逃げるのだ。国境を越えればヴァリウスは追っては来れない。記憶も奪われることはない。そうすればこの人の側にずっと居られる。
ククルは雪の前に立ち塞がった。
「契約をしましょう」
「え?」
「わたしに新しい名前を付けてください」
「新しい名前って…。ククルではなくて?」
「わたしとあなたの縁を結ぶ為に、新しい名前が必要なのです」
雪は戸惑うばかりだ。突然のククルの発言に頭の中がプチパニックだ。理解する機能がどっちらけで役に立ちそうにない。
「縁を結ぶってどういうこと?ククルじゃダメなの?ナイトメアはククルをずっと待っているのに、あいつの元には戻らないの?」
体が復活すれば記憶も据え置きだ。ククルとナイトメアの縁が再び結ばれる。
「…ご主人とは運が良ければまた会えます」
ククルには迷いがない。雪にも迷わせない。ドンと身構える姿に雪は一歩後退した。後ずさった足がピリッと痛んだ。左足だけに痛みが増した。刺青のように染み込んだティモシーの葉が足首にくっきりと浮かび上がってきた。
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