六丁の娘

大純はる

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第九話 新しい故郷

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「メスギツネは」
 静かな調子で言葉を発したのは、何としほだった。進は驚き、思わず背後を振り返った。
「ああ? なんやお前、今度はえらいチンマイのがおる思うたら、しほか。兄貴と仲良く一緒に出て行って、また一緒に帰ってきましたってか」
「そのメスギツネは、お兄とヤッたんだ。だから、そのややこ・・・は、お兄の子どもかもしれない」
「なにイ」
 こめかみに青筋を立て、目つきが三角に据わっていく。もう酒が入っているのかもしれない。だとしたら最悪だ。
「あたしの弟じゃなくて、甥っ子かもしれない。だからあんたの顔を見て泣くんだ。ほんとの父親が出てきても泣き止まないなんて、おかしいもの。あんたは、出来損ないの寝取られ親父だ」
「このクソガキャ、言うに事欠いて」
 父はずかずかと大股で歩み寄ってきた。進は目の前に立ちふさがり、それを押し止めようとしたが、あっさりと弾き飛ばされてしまった。こちらよりずいぶん背丈は小さいのに、ぎゅっと引き締まった肉の塊のような体をしているのだ。
「一生嫁にも行かれんツラにしたろか、コラッ」
 拳を振り上げて殴りつけようとする。何度も見てきた眺め、胸の奥を引き裂かれるような眺めだ。
 自分は、ずっと無力だった。父親の前に出ると、妹のためにさえ、何一つしてやれなかった。自分は、ただの弱い卑怯者だ。
 ところが今、父親が殴りつけたのは、しほの頭ではなかった。
 貴相と言ってもいい、ウガヤの頬だった。横顔がぐにゃりと歪み、烏帽子が斜めに傾いて、口の端から血混じりのつばきと歯のかけらを吐き出した。とっさに前に出て、頭を抱えたしほをかばったのだ。
「何じゃ、おのれは」
 拳を痛めたのか、父は熱を冷ますように手を振っている。
「ウガヤっ」
 進は叫びながら駆け寄ろうとした。殴られた当人はこちらを目だけで抑えると、震える手の甲で膨らんだ頬を拭い、海の男の方へ向き直って頭を下げた。
「わたくしは京の住人、ウガヤと申す。渡辺四郎左衛門のお父上とお見受けした。ご子息は今、わたくしの元で立派に働いてくれている。もうお父上の所へ戻らなくてもよい」
「はん、このゴクツブシがか。よっぽどしょうもない仕事をさせてくれとるんやろのう」
 嘲り笑いを浮かべつつ、カアッ、と痰を切ってみせた。
「そして、しほもまた我らの元で暮らしている。もう二度と、この渡辺津へ帰らせるつもりはない。本日はそのことを、はっきりとお伝えしに来た」
「ウガヤ」
 進は思わず、すがるような声を発していた。涙がこみ上げて溢れ出しそうなくらい、有り難かった。
「さっきからずいぶんと、手前勝手な小理屈を並べ立ててくれるのう」
 父はまるで正反対に、白けた調子で脅しにかかった。
「こんな頭のいかれたクズどもでも、ワシの子らや。ちうことは、この渡辺党の一門や。生かすも殺すも、一家の入り用次第や。お前が何者かはよう知らんがの、京のぼんちゃん。難波には難波のやり方があるよってな、さっさとケツ拭いて都へお帰りやす」
「この通り、何卒、お願い申し上げる」
 ウガヤは、その場に紫袴むらさきばかまの膝をつき、傾いた烏帽子の頭を深々と下ろしてみせた。そうしてためらいもなく、埃っぽい地べたに額を押しつけた。
びた一文にもならんのう、そないなことされても。さんざガキどもにコケにされた、ワシの気イすら晴らされへんのう」
 そう言いながらも、汚れた下駄の二本歯を、目の下に這いつくばる襟足へ載せてみせた。それでも抵抗がないとみるや、膝を振り上げ、どかどかと何度も後ろ頭を踏みつけた。
「親父、もうやめてくれ」
「やめろ、このクソジジイ」
 兄と妹は、泣き叫びながら実の父親に取りすがった。赤ん坊の金切り声は、いよいよやかましさを増している。母親はただうろたえ、文字通り狐憑きのような顔になって、どうにか泣き止ませようと激しく揺さぶるばかりだ。
「泣くな、オイ、泣くなやっ。あとでまたうちが殴られるやろが」
 隣近所の家並みから、だんだんと人が出てきた。
 何の騒ぎや、とばかりに、木戸やくぐり戸から顔を覗かせている。物見高い商家の奉公人はまだしも、親戚縁者や船仲間たちまでいる。父親は一家の体たらくを恥じたものか、すっかり赤黒い顔色で、全てを搔き消さんばかりに怒鳴りつけた。
「お前らなんぞ、勘当じゃ。せっかく忘れかけとったのに、おめおめと現れてきよって。卦体糞けったくそ悪い。二度とそのツラ見せるな。さっさと失せい、消え失せろっ」

 上りの船は、川の流れを遡るので、岸から水手が曳き上げていった。
 船頭が浅瀬に棹をさしながら、右岸と左岸を交互に縫ってゆく。西風が吹くところでは帆を上げ、勢いよく川面を滑っていった。
「それでも伏見まで半日はかかる」
 ウガヤはぽつりとつぶやいた。
「よく知ってるな」
 初めての遠出のくせに、と進は言外に含んでいた。
「紀貫之は、八日もかけているがな」
 よくわからない返事だった。
 目元を腫らしたしほは、それを隠すように、ウガヤの膝へ顔を埋めている。まだ時折すすり泣きが聞こえてくる。他の乗客の目も気になった。自分たちはよっぽどひどい顔をしているのだろう。
 帰りの船は早朝にしか出ない。渡辺津にはもう留まれなかったので、江口まで歩いて、どうにか宿を見つけた。
西行さいぎょう法師のようにはならなかったな』と、ウガヤはまた変なことをつぶやいていた。
 昨日とは打って変わり、空は鏡のように晴れていた。点々と手づかみしたような白い雲が浮かんでいる。
「悪かった」
 そういう空を仰ぎながらウガヤはつぶやいた。唇が膨れ、まだ言葉を発しにくそうだ。片手はゆっくりと、しほの髪の分け目を撫で続けている。
「あんたが謝るのか」
「帰れない場所には、帰れないだけのよしがある。俺はどうやら、それを甘く見ていた。人それぞれの始末というものを。まだまだ頭の中にしか現実がない。勉強させてもらった」
「そいつは何よりだが、俺たちにはもう帰る場所がない。勉強どころじゃない」
 珍しく、ぼやきたい気持ちにもなっていた。したたか殴りつけられた目元が、じんじんと腫れて痛む。
「いや、ある」
 こちらへ向き直り、切れ長の目尻に力を込めてきた。
「六丁だ。あそここそが、俺たちの新しい故郷じゃないか」
「そいつを信じていいのか」
「もちろんだ」
「ウガヤにとっても、六丁が故郷なのか」
「俺たちはみんな同じさ」
 進は笑みを含んで目を伏せた。慰めかもしれない。生まれ育ちも心の持ちようも、今の立場にしたって、自分たちは決して同じではない。そのくらいはわきまえているつもりだ。
 しかしそんなウガヤが、あの凶暴な父親に向かって、自分たち兄妹のためにはっきりと物を言い、地べたにまで這いつくばってくれた。そういうことが、涙の出るくらい嬉しかった。
 今の思いを、この先一生忘れることはするまい。爽やかにしぼんでいくような胸の内で、進は強くそう念じた。

(第十話へ続く)
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