六丁の娘

大純はる

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第六話 六丁の番匠

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「おう四郎左しろうざたちばな辻子の方の修築はどうかね」
 そう声をかけてきたのは、振売ふりうりの魚屋だった。小袖の諸肌を脱ぎ、皺くちゃの平礼ひれ烏帽子を傾けている。
 進は曲尺かねじゃくを肩にかけ、玄翁げんのうを片手に、かんなのみを入れた革袋を背負っていた。
「昨日の昼には終わったよ」
「ほう、仕事が早いね。あそこは転法輪てんぼうりんの三条さんのお屋敷やったかな」
「そう。ご隠居と、まだ若いご当代がいたな。ちょうど将棋仲間が集まってて、何くれとなく手伝ってくれたよ」
「ご隠居は、元大臣と言ったかのう」
「うん」
「あそこはお屋敷と言っても、中門ちゅうもんひさしもなくて、母屋一つきりやな」
「それはまあ、ここではみんなそうだから」
 進は屈託なく笑うと、小さく一つ頭を下げて帰り路を急いだ。
 町筋には老若男女が溢れ、肌を接するばかりだ。棟上げしたばかりの骨組みが、空のあちこちに仰がれる。壁の木肌も、犬矢来いぬやらいの竹もまだ新しく、近くを通れば爽やかな香りが鼻をくすぐった。
 洛中でもこの六丁の賑わいは、格別に活気がある。滅びたものの中から新しいものが甦ってくる、そういう時だけの活気だ。
 今やその端くれでいられることを、進はこの上ない喜びに感じた。
 角の軒先から、「もちや」と書かれた筵が翻っている。地口じぐちの内へ入っていくと、店棚の後ろに焙烙頭巾をかぶった男が控えていた。目つきは鋭いが、その顔に皺は少なく、鬢びんもまだ黒い。
「おう。今日もお疲れさん」
 進の姿を認めると、棚越しに竹皮の包みを手渡してきた。
「ありがとうございます、深草さん」
 かつての夜に杖をつき、こつんとぶつかってきた老人と同じ男だった。あの時は、こちらを欺くために変装していたわけだ。
「近ごろ、しほちゃんの具合はどうだ」
「悪くないですよ。あの人も、時々は顔を出してくれますし」
「そうだな。しほちゃんは、ずいぶんあの人には懐いてるみたいだから」
 この商家の旦那みたいな男が、本当は大炊御門おおいのみかど信量のふかずという大層な姓名の持ち主で、現役の右大臣だとは、今でも信じられない。
「とはいえ、いつでも来てくれるわけじゃありません」
「それはまあな。あの人も忙しい身なんだ」
「とするとやっぱり、六丁の住民じゃないんですね」
「ふむ」
「まだずいぶん若いのに、みんなからカシラと認められて、すごい人です」
「四郎佐」
 深草は、親心からたしなめるような目つきになっていた。
「大乱のあと、ここは一面の焼け野原だった。他に行き場もない町民や百姓、公家衆までもが寄り集まって、身分の違いも乗り越え、今の六丁を作り上げてきたんだ。わしらを束ね、導いてくださっているのは、紛れもなくあの方だ。いらん探りを入れないのも、感謝の表し方というもんだろう」
「はいっ」
 進は竹皮の包みを抱え込み、大きく一礼した。そのまま店を出て、烏丸小路を一条の方へ歩いていった。
 その北頬、かつての夜の土蔵のほど近くに、石置き屋根の小屋がある。竹垣の枝折戸しおりどから入ると、通り庭でもないただの土間で、簀子縁の上に板敷きの一間がついているばかりだった。
「しほ、ただいま」
 進が声をかけると、遣戸やりどの陰から恐る恐る覗く顔があった。ばらばらの尼削ぎ髪で、まっすぐな瞳はまばたき一つしない。毎日同じことの繰り返しなのに、不思議な出来事のようにこちらを見返している。
「今日も深草さんところで、こいつをもらってきたぞ」
 胸元に抱えていた包みを、妹の方へ下げ渡した。
 うなずくでもなく、礼を言うでもなく、しほはただそれを受け取り、小さな指で紐を解いてみせた。竹の皮がはらりと開くと、五つの丸い餅が目の下に現れた。白い粉を吹いた塩餡でくるまれている。
 しほは足元に竹皮を置き、餅を両手に一つずつ取り上げると、沓脱石の上の草履を引っかけて外へ飛び出していった。
「今日もまずはお供えか」
 兄はつぶやきながら、土間に仕事道具の袋を置いた。裏庭の井戸で釣瓶つるべを手繰って顔を洗い、もう一度表へ出ていった。
 辻子の角に、小ぶりだが真新しい地蔵堂が建てられている。浅い平入り屋根の下に、素朴な石彫の菩薩像が二つ並んでいた。
 しほはその前の地べたに膝を割って座り込み、長いまつ毛を伏せて一心にたなごころを合わせていた。
 目の下の小皿には、先ほどの餅が一つずつごろんと載せられている。二本の刃跡でしかない地蔵の両目が、それを見下ろしながら微笑んでいるかのようだ。
 進もまた言葉一つ発さないまま、妹の背姿を見守っていた。夕映えが赤い影を引き伸ばし、目の前の小さな二体の石像と、まるで対になったように立ち尽くしていた。

(第七話へ続く)
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