おぼろ月

春想亭 桜木春緒

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第四章

13

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 あの日からあと。
 何度、源治の名を心の底で呼んだのだろう。その声を思い出しただろう。手を、唇を、肌の匂いを、何度、思い出したのだろう。

 今まで辛くなかったなどと、嘘にも言えない。
 嫌だ、と心の中で何度叫んだだろう。
 助けて、と思った事は何度あっただろう。

 いつかまた再び。
 そう思う事が、あの夜以来、何度も辻に立った月子の奥底に灯る、密かな願望だった。
 そんな期待を、胸に抱いていた。
 期待してはならないと思いながら、彼の姿を闇に探した。
 また。

 もう一度、源治の腕に抱かれたい。その身体に触れたい。触れて欲しい。
 たしなみも慎みもすべて暴いたあとに残る生の月子は、それを、本当は、望んでいた。
 理由など、どうでもいい。何も要らない。
 
「……!」
 不意に、思念が飛んだ。

 源治の歯が、月子の皮膚を掻き分けて、花芯に甘く噛み付いた。
 雷光に打たれたように、彼の歯が触れた粒から月子の身体中に、痺れるような旋律が鳴り響く。

 その響きとともに、暗澹とした思念と記憶が、月子の脳裏から爆ぜて消えた。


 言葉にならない呼気を走らせながら、月子は源治の髪を掴んだ。
 下肢を彼に抱え込まれたまま、稚鮎のようにうねり、跳ねた。髪がほどけて散る。

 慌ただしく息を弾ませた月子の胸に、源治の胸が重なる。月子の身体に源治は彼を沈ませた。
「……は……ぁ!」
「月子……」
 その潤んだ熱に包まれて、源治は喘ぐ。眼下に月子の歔欷きょきを見た。

 何も考えられなくなった。
 触れあう肌から湧きあがるのは、ただ触れあっているという歓び。それだけが、月子と、源治の意識を醸して溶かした。
 意味を成さない月子の声が、源治の聴覚を通り過ぎる。
 華奢な躯体が身悶えた。頭上に掲げさせた掌に掌を重ね、指を絡める。ほどけた黒髪が、ざ、っとうねった。

 肩を竦め、喉を反らす月子を跳ね上げるように、源治はその身体を叩きつけた。開け放たれた窓の下、押し殺したような声で月子がすすり泣いている。哀しげに寄せられた眉に胸を痛めながら、さらに穿つ。
 月子の身体が、源治に強く纏わり付いている。動作を許さないほどの力で締め上げられながら、背筋を寒気のような物が走っていくのを快く感じた。


 陽が傾いたころ。
 涼風が、重なった肌の隙間をかすかに撫でて通り過ぎた。

 陽が落ちて、辺りに闇が降り始めても、月子が二階から下りてくる事はなかった。


 美知江は少し俯いて息を吐く。
 好きなんです、と泣いた月子の声を思い出している。

 空に、蝙蝠が舞っている。
 薄暗がりになった時刻に、そうして、路地に立った美知江に、身なりのいい大柄な侍が近づいた。
「こちらを向け、女」
 横柄な物言いだった。が、その尊大さに比べれば若い声だろう。
 伊助がその侍と話をし、美知江は侍にいざなわれるままに駕籠に乗った。「講」に出始めのころは見も知らぬ場所に連れて行かれることが恐ろしかったが、慣れた。
「鶯梅亭だそうだ」
 駕籠に乗る間際に、伊助がその傷跡のある唇で美知江に耳打ちをしてくれた。行き先だけはわかった。
 藩の中でも高録の者しか出入りできない格式の高い料亭だ。つまりは、上客でもある。場所が場所であるから、着いてみたらとんでもないやくざ者が待っているかもしれない、という類の心配はいらない。それは安堵していい。
 
 特に、昨今はいささか物騒だ。
 美知江のように辻に立っていた女が、朝になって裏路地で死んでいたのが見つかっている。
 それがどうやら、誰かに首を絞めて殺されたらしいと言う噂を聞いた。
 殺されたのは一人ではない。辻に立つ女が二人ほど、他に酌婦をしていた女や、貧しい足軽の女房なども、同じような傷を残して死んでいるのが見つかった。見つかっていないだけで、本当はもっと同じように殺されているのだと言う噂さえある。
 死んだ女たちに共通項があるとは聞かない。同じ土地から出てきたというわけでもないらしく、身分もまちまちだった。
 藩士の家族以外にも、百姓の生まれの者もいた。商人の生まれの女もいたようだ。
 
 美知江をのせた駕籠が止まった。船宿からさほどの距離ではない。その程度の距離さえ駕籠を使おうとする客は、懐が豊かなのだろう。
 美知江の夫も、この藩の藩士である。おそらく美知江を買った大柄な若い男もそうだ。どれほどの禄を得ている侍なのだろう。彼が得ている収入うちの僅かなものでも美知江の佐伯家に振り分けてくれれば、美知江は惨めな思いを抱きながら見ず知らずの男に身体を売る必要もなくなるだろう。
 そんなことを、少し思った。

 上等な身なりをしている男の後をついて鶯梅亭の長い廊下を歩く。彼の背を見ながら美知江は落胆のようなものを感じている。
(めんどう)
 と思う。
 若い客の相手は、ひどく疲れることを経験で知っていた。
 大きな敷地を持つ料亭の奥の離れ座敷に、男は入って行った。美知江もそれに着いて行く。先客がいる。
 一人で、仲居に酌をさせながら膳を前に坐している男は、ほのかな灯りの下で見る限りずいぶんと若い。二十歳を少し過ぎたか、そんな年ごろだろう。その上、その顔を見た美知江がふと驚いたほど、きれいな顔立ちをした青年だった。
 複数の客が美知江一人を買う事も稀なことではなかったが、若者二人という事はあまりない。
 若い客など、一人でもめんどうなのに、二人とは。そんな落胆が生じる。

 風を入れるために開け放った障子から見える空が、藍から黒に変わっていった。


 露わな肌身を寄せあったまま、少しまどろんだ。
 目蓋を上げたわずかな気配に気付いたか、あるいは眼を開くまで待ち望んでいたのか、月子を源治の腕が引き寄せた。
 暗い天井を見上げた月子の視界を、源治が覆う。
 月子、と低い声で囁きながら、源治は彼女の胸元のわずかな膨らみを掌で探った。
「……」
 小さな声が、重なった唇の間から漏れる。
 月子は何と言ったのか。名を呼ばれたのかもしれないと源治は思った。

 向き合って話をしていた頃には未だ明るかった空に、闇のとばりが満ちている。

 その空がまた明るさを帯びたころ。
 源治は、眠ったままの月子の傍らで身を起こした。

 宵の内に下働きの者が持ってきた桶の水がすっかり温くなっている。水音をたてないように手拭いを絞り、身体を拭って着物をまとう。
 僅かな朝の光の中に、横たわる月子の姿がおぼろに見える。彼女が着ていた物は源治が奪った。素肌のままでまどろんでいる。

 凛として大人びた眼差しを持つ月子だが、瞼を閉じたままの寝顔は存外にあどけない。
 それが、本来の月子の素顔なのだろう。

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