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第四章
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しおりを挟む「帰るのは良い。だがこれはもう差し上げたものだ。受け取るつもりなどない」
「私も受け取れません」
「何故です」
「謂れのない施しを享受するのは、卑しい事ですから」
「卑しいなどと……」
卑しいも何も、必要なものである事は解っているのだから、受け取ればいい。源治は苛立ちを覚えた。
現実に、月子と家族に必要なものは金である。謂れも何もないだろう。それがあれば、月子は嫌なことをしなくていい。そう思いながら、源治はそれを差し出した。好意の気持ちなのだ。素直に受け取ってほしい。
ふ、と月子の声が漏れた。
その唇が小さな笑みを浮かべている。不審な笑みを、源治は怪訝に見た。
「今さら、私の口で、卑しいなどとは、言えた事でもありませんのにね」
「そんなことを、俺は思った事はない!」
鋭い怒声に、月子はびくりと震えて、怯えた口を閉ざした。
「……大きな声を出して、すみません」
「いえ……」
「卑しいなんて、そんなことは思っていない。驚かせてすみません。……ただ、受け取ってほしいだけです」
月子はそれでも首を横に振る。
「何故」
金の包みを真中において、正座の膝が向き合う。
笑顔の白い歯が印象的な源治の、浅黒い顔が真摯に引き締まっている。目の光が涼しく、均衡のとれた目鼻立ちは優しげだった。
その容貌の通りに、源治は優しいのだと月子は思う。膝の前に置かれたその包みも、彼が優しさから差し出そうとしているのかもしれない。
多分そうなのだろう。ならば、なおさら受け取りたいものではない。
触れてくれるなと、月子は源治に言った。
己の身の汚れに触れてほしくない。
でも、触れたい。触れてほしい。
向き合いながら、彼に倒れ込みそうなほど、そう思う。
(……いいえ)
源治を「客」にしたくなかった。これまでに月子を通り過ぎてきたいやらしい連中と、彼を同列にしたくない。
だから月子は、源治からの金は欲しくない。
何と言えば伝わるのだろう。
源治は、膝の前の金の包みを取った。そのまま、月子の手を掴んで、その掌に握らせる。
握らせた上から、その手を包み込むように握る。そして引いた。
引き倒した月子の上に覆いかぶさり、慄いた唇を襲う。
「貴方を、買います。それなら、受け取ってくれますか」
「いや!」
金と共に握った手と、抗って源治を押し離そうとした手を、月子の頭上に押さえつけた。
振りほどこうとしているのか、月子は押さえつけた源治の手に抗う。かなうはずもないのにその華奢な手に力を込めているのが伝わっている。
「はじめから、そう言えばよかったのですか」
見開いていた月子の瞼が眸を覆う。その下から、涙がこぼれた。
かたくなな月子の体から力が抜けた。その掌から金の包みが、がしゃりと音を立てて畳に落ちた。
我ながら嫌な言い訳だ、と源治は思う。
堂々巡りの思案を重ねて、あれこれと理由を付けて、己を許せるような言い訳を考え抜いて、月子を求めようとする。
こんなことをすべきではないとか、やめようなどと、どの口で言っていたのだろう。
駕籠を降りた月子の手を引いて船宿に入った時に、源治が何を考えていたのかなど、思い出すのも愚かしい。
(……俺は、ただ)
月子の襟を引いて開いた。
瞼の下の涙に触れた唇で、また月子の唇を吸う。布の下の素肌に触れる。
こうしたかった。ただそれだけだ。
金の事など、多分、言い訳に過ぎない。
触れたい。感じたい。その思いが胸に膨れて、破裂しそうだ。
月子を助ける事ができるなら、持てる限りの物を捧げていい。
否、それはきれいごとだ。
目の前にいる月子を求める許しを請うために、持てる限りの物を差し出した。
欲しいからだ。感じたいだけだ。
それを得るために、買う、と言った。そう言えば、月子は従うだろう。そして、思った通り、月子は抗うのをやめた。
月子は、早く誰か気立てのいい青年に嫁いで、幸せになればいいと源治は考えている。嘘ではない。
それが最良だと思う。そのくせ、そう思うたびに月子を娶るかもしれない見も知らぬ誰かに、焦げるような嫉妬を覚えている。
は、と源治は息を詰めた。
「嫌……!」
月子の手が胸元を覆う。だが隠される前に、源治の目にはそれが焼き付いてしまった。
僅かな膨らみを見せる青白い乳房に、強く吸った後の鬱血と、噛みつかれたような歯の形。
明らかに残された痕跡。
藤崎の屋敷で、月子はしどけない姿であの老人と共に居た。それは、彼の痕跡だろう。
「月子」
「触らないで」
嗚咽の下、消え入りそうな声で月子が言う。
身体を覆う腕を避けながら、その痕跡に、源治は触れた。
これは傷だ。
擦り傷や切り傷にそうするのと同じように、源治は月子の傷を舐めた。そうして唇を月子の肌の上に滑らせながら、薄い背を浮かせて帯を解き、ざわざわと音を立てながらそれを引き剥いだ。紺の木綿をその下の浅葱色の襦袢とともに開き、汗ばんだ肌着から腕を抜く。二布を掴んでそれを暴く。
未だ昼間の光の中に、痛々しい陰影が月子の肌身に落ちている。
「いや! それは……」
慄いた月子の膝の裏を押さえつけ、源治はそこに顔を沈めた。
「見ないで……!」
掌で顔を覆い、身体を捩る。
か細い腿が、夏の光に白く眩しい。わずかな彩りの下に触れ、指先でそっと開く。薄紅色の裂け目が痛々しく震えていた。
傷ならば、多分そこが一番深い。
唇を押しつけて、傷を癒すように、丁寧に舌を這わせた。
やめて、と何度か月子が言う。
何度目か、その言葉が弱く途切れた。肌を震わせた。
嘆くように月子は首を背けて唇を噛んでいた。
月子の中に去来する思いが、源治には解らない。時に戦慄を走らせる身体が、ただ愛しい。
かみしめた唇から音色が漏れる。
源治の手は、指は、その唇も舌も、月子に優しい。心の内まで溶かすように感じる。
他の誰とも違う。源治だけが違う。彼が触れたときだけ、湧き上がる歓びがある。
(……好き)
だからこそ、汚れを帯びた身体に触れてほしくなかった。
猥雑な客のように、対価を払ってほしくなかった。
「……!」
高い声が、迸る。源治が月子を啜る音がその耳朶に這う。なだらかに白い肌が波打った。胎内で愉悦が凝縮した。強張った背が、反る。
奥底には別の思いが沈んでいる。
理由などどうでもいい。理由など、なくてもいい。
ただ求めて欲しかった。
同情であろうが、哀れみであろうが、蔑みであろうが、感情の置き場は何でも構わない。
唇を重ねてほしかった。素肌に触れてほしかった。
苦しかった。辛くて、悲しくて、泣き叫びそうだった。
二度と、何も知らなかった頃に戻れないことは覚悟していた。覚悟の通り、何一つ月子は忘れ去ることができないままだ。
どうすればその汚れを、せめて記憶からだけでも、拭い去れるのだろう。
どこにいても、山里の家に在っても、弟妹に微笑みを見せながら、自分自身を通り過ぎた暴虐の記憶が月子の脳裏を苛んだ。
日々を暮らしながら不意に、思い出したくもない事を思い出し、身体中をかきむしった。忘れ去ることができないことが苦しくてたまらなかった。
心身を傷めて、何も解らなくなってしまえばいっそ楽になれるのかもしれない。身体も心も捨て去ってしまえば、忌々しい記憶もなくなるだろう。
しかしそれは、月子には許されなかった。
傍らで呆然と佇む母を支え、血を吐きながら弟たちを説く太三郎を看た。そういう生き方を月子は続けるしかない。
自分が壊れたのなら、あとの彼らはどうなるのか。
(もし、逸が、奈那子が……)
妹たちが、いずれ自分と同じように身を売らなければならなくなるかもしれない。それを想像することが、恐ろしい。
彼女たちは、苦しむ必要は無い。清らかな心も体も、何一つ、傷める必要は無い。これは分かち合う必要が無いものだ。傷むのは一人でいい。
月子が、それを耐え抜けばいい。それだけのことではないか。
今はもう、拭えぬ汚れを負った。
この上にそれが積み重なったとして、何だというのだろう。
(私は、強いのだから……)
大丈夫だ、と己の胸に言い聞かせて、月子はいつも、講に行く。
「強い、な……」
彼は、そう言った。
あのとき、あの朝に、源治は月子にそう言った。
(あの人が言うなら、本当のこと)
胸に熾火のように抱く温もりを、寒い夜にも忘れたことはない。
一生、忘れない。
源治のことだけを思って、彼の感触だけを思い出し続けていれば、きっと、何事に遭っても耐えていける。
それが、月子にとって心の拠り所だった。
源治の言葉が、月子にとってのわずかな励ましだった。それは、まるで呪縛のように、月子を支える言葉だった。
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