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第四章
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月子は二度と城下の路地になど立つべきではない。
二度と、藤崎の屋敷になど行くべきではない。淫靡な緋の襦袢など身にまとうべきでは、ない。
親と弟妹たちのために身を傷つけることを厭わない月子の心は、それは高潔なものだ。対価を得るための手段がたとえ汚れた事であっても、軽蔑よりは尊崇に値する。
源治は心底そう思う。それなのに、彼女のその行動を目の当たりにした自分の狼狽の大きさはどうだ。
藤崎の家で受け取った枕絵の代金が懐を重くしている。月子が不在の間に、それを彼女に差しだそうと決めた。
藤崎に渡した枕絵と艶本を購入したときの金額を考えると、全て差し出せばその後のやりくりが苦しいのは源治も解っている。
それでも、良いと思った。
十両は超える金額があるのは重みでわかる。それだけあれば、月子はもう城下に出なくても良いのではあるまいか。いかほどの借財を畑野家が負っているのか知らないが、それでも足しにはなるはずだ。
月子の母と弟が身体を弱らせているのも源治は知っている。医薬の代金が圧し掛かっているとしても、今源治が懐に持っている金子で払いを済ませれば、さらなる借財を負うまでにしばらくは猶予ができるだろう。
その間に、もし足りないのなら援助しても良い。月子が断わっても、そこは強いてでも、源治が差し出す物を受け取らせればいい。
そうしている間に、月子は少しでも裕福な家に嫁ぐべきだ。そして二度と身を売ることなど考えずに、夫と睦みあって子を共に育てていけばいい。そういう当たり前の幸せを、月子ならば享受してしかるべきだ。
残酷な考えが源治の胸に湧いている。
月子が嫁ぐまでの間には、もしかしたら、病の母か弟が死ぬかもしれない。
今のところは病を得ているのがその二人だけだとしたら、死んでしまえば医薬の費えが要らなくなる。誰かが死ねば、食べるものを消費する口も減る。
畑野の家も楽になり、月子はもう糧を得るために身体を売らなくて済む。
無論、家族の誰かが死ねばいいなどと、月子が考えていない事を源治は百も承知だ。源治も決してそれを願っているわけではない。
ただ時を経ればそうなるだろうと予想している。
今さえしのげば、良い。
今を過ぎれば月子がわざわざ辛い思いを買って出る必要のない時期が来る。
その時までの間、少しは支える事が源治にはできるはずだ。それを望んでいる。
それだけを。
千々に乱れた考えに、源治が頭の中で少しずつ筋道を付けている間に、月子がひっそりと部屋に戻ってきた。戻ってこないなら、それでも構わないと思っていたのに、静かに彼女が帰って来てしまった。
凛と上がった眦の美しい目が、逸らされている。
その少し斜めに向いた顔を見て、源治はまた動揺した。
「初めては、貴方が良い」
半年前のあの夜の事が、血を鳴らすほどの響きをもって源治の中によみがえる。
思考が止まった。
今、何をどこまで考えたのか。その思考がぷつんと切れた。
月子、と声に出して呼んでしまいそうになる。触れてしまいたくなる。同時に、先刻まで脳裏に渦巻いていた愚かな憤りで、彼女を責めてしまいそうになる。
何を考えていただろう。
そうだ、と思いだす。懐の物を、月子に渡すのだ。
気付けば、驚いたように息をとめた月子の潤んだ眼を間近に覗きこんでいた。果実のような唇が半ば開いている。
いつの間にか、その唇を源治は貪っていた。華奢な身体を腕に収めて、陶然となった。
一目、眼差しを交わせればいいと思っていた。
それだけでもいい。それだけでは足りないのはわかっている。
もう二度と、月子がこのような薄汚い船宿になど来なくて済むように、と願っているはずだ。そのはずなのに、どうして自分は喜々として月子の唇を吸っているのか。
「もうやめましょう」
ようやく源治は言葉を絞り出した。腕の中で月子は無言。眼下に在るのが月子の細い背で、顔は源治には見えていない。
「家に帰って下さい。そして二度とこんなところに来ないでください。二度と、あんなところには行ってはいけな い。見ていられない」
静かに、腕を離す。強いて月子から目をそらした。
「受け取って下さい。これだけあれば、もうこんなところには来なくていい。でもすぐに不足になるでしょう。……また貴方の家に伺う。その時にまた」
懐から取り出した物を、月子の膝に押し付ける。
包みは藤崎家で渡された時のままだ。あの金田という家臣がいくら包んだか源治はまだ確かめても居ない。
その金子の重みが、月子に驚きをもたらしている。
あの半年前の日に源治が伊助に払った五両といい、今月子の膝の上に置かれた金子といい、源治は何故それほどの物を月子のために払おうと言うのだろう。
謂れのない物を享受するのは乞食の仕業だと父や母から聞かされて、月子は生立った。源治の寄越す金子には施しという以外の、謂れがない。
金を渡しながら、家に帰れと彼は言う。二度とこんなところに来るなと言う。あのようなところへ行くなと言う。
おぼろに、源治の意図は、感じる。嬉しいように、その気持ちを感じる。だからこそ、受け取りたくない。
その施しを受けるのは、惨めだ。
「要りません。何も……」
悲しい事だが、しかし月子にも自覚はある。
そうだ。自分がどれほど惨めで、源治の同情を買っているか、よくわかっている。
金子など要らないと月子は思う。
だが状況はそれを必要としている。それを源治は知っている。
しかし月子の父には差し出せないのだろう。誇り高い畑野にそのような真似をすれば、彼が自害しかねないと解るのだろう。
源治が優しい人間だと言うのもわかる。
だからこそ、月子の家族の状況を見かねているのだ。事実として、もう月子は二度も彼からその施しを受け取った。確かに助けになった。
だが、それを渡された時に月子の感じた惨めさは、多分彼には解らない。
好きって、どういう意味でしょう、とついさっき美知江が言っていた。
(わかっています。どんな意味かなんて)
少し汗ばんだ源治の胸元に月子はおさまっている。呼吸をすると、鼻腔に彼の汗のにおいが満ちる。それさえ芳しく、心地よい。他の人なら嫌だ。
一目で良いから会いたいと思っていた。
言葉など交わさなくても、ただ眼差しを交わすことができればいい。
毎日なんて贅沢は思わない。月に一度でもいい。年に一度でもいい。もし会える距離に居るなら、その時だけで良い。
その姿を、目に映したい。希望などそれしかいらない。
(違う……。本当は、それだけでは嫌)
泣きたくなるほど、そう思う。
本当は、触れたい。触れてほしい。直にその肌と、魂に触れたい。触れてほしい。
しかしそれを望むのは、もう間違っている。
(ここに居る私はもう、そんなことを望むなんておこがましい)
悲しい自覚がある。
あの日から後、月子が何をしていたのか。
数多の獣欲が月子を通り過ぎた。思い出したくはないのに脳裏に染みついている。身体にも。慈しんでほしいと願う身は、もう、汚濁にまみれている。
「もう触らないで下さい」
だから、と月子は小さな声で言葉を継いだ。
「だから、貴方が帰って下さい。私はまだここに居ます。お金は要りません。謂れのないものは頂けません」
触るなと言われて源治は、腕を緩める。月子は膝の上から金の包みをすすけた畳の上に置き、源治の方へと指先で押した。
「お帰り下さいませ」
表情を消した眼で、月子は源治を見る。唇を結んだ顔は凛としていた。
二度と、藤崎の屋敷になど行くべきではない。淫靡な緋の襦袢など身にまとうべきでは、ない。
親と弟妹たちのために身を傷つけることを厭わない月子の心は、それは高潔なものだ。対価を得るための手段がたとえ汚れた事であっても、軽蔑よりは尊崇に値する。
源治は心底そう思う。それなのに、彼女のその行動を目の当たりにした自分の狼狽の大きさはどうだ。
藤崎の家で受け取った枕絵の代金が懐を重くしている。月子が不在の間に、それを彼女に差しだそうと決めた。
藤崎に渡した枕絵と艶本を購入したときの金額を考えると、全て差し出せばその後のやりくりが苦しいのは源治も解っている。
それでも、良いと思った。
十両は超える金額があるのは重みでわかる。それだけあれば、月子はもう城下に出なくても良いのではあるまいか。いかほどの借財を畑野家が負っているのか知らないが、それでも足しにはなるはずだ。
月子の母と弟が身体を弱らせているのも源治は知っている。医薬の代金が圧し掛かっているとしても、今源治が懐に持っている金子で払いを済ませれば、さらなる借財を負うまでにしばらくは猶予ができるだろう。
その間に、もし足りないのなら援助しても良い。月子が断わっても、そこは強いてでも、源治が差し出す物を受け取らせればいい。
そうしている間に、月子は少しでも裕福な家に嫁ぐべきだ。そして二度と身を売ることなど考えずに、夫と睦みあって子を共に育てていけばいい。そういう当たり前の幸せを、月子ならば享受してしかるべきだ。
残酷な考えが源治の胸に湧いている。
月子が嫁ぐまでの間には、もしかしたら、病の母か弟が死ぬかもしれない。
今のところは病を得ているのがその二人だけだとしたら、死んでしまえば医薬の費えが要らなくなる。誰かが死ねば、食べるものを消費する口も減る。
畑野の家も楽になり、月子はもう糧を得るために身体を売らなくて済む。
無論、家族の誰かが死ねばいいなどと、月子が考えていない事を源治は百も承知だ。源治も決してそれを願っているわけではない。
ただ時を経ればそうなるだろうと予想している。
今さえしのげば、良い。
今を過ぎれば月子がわざわざ辛い思いを買って出る必要のない時期が来る。
その時までの間、少しは支える事が源治にはできるはずだ。それを望んでいる。
それだけを。
千々に乱れた考えに、源治が頭の中で少しずつ筋道を付けている間に、月子がひっそりと部屋に戻ってきた。戻ってこないなら、それでも構わないと思っていたのに、静かに彼女が帰って来てしまった。
凛と上がった眦の美しい目が、逸らされている。
その少し斜めに向いた顔を見て、源治はまた動揺した。
「初めては、貴方が良い」
半年前のあの夜の事が、血を鳴らすほどの響きをもって源治の中によみがえる。
思考が止まった。
今、何をどこまで考えたのか。その思考がぷつんと切れた。
月子、と声に出して呼んでしまいそうになる。触れてしまいたくなる。同時に、先刻まで脳裏に渦巻いていた愚かな憤りで、彼女を責めてしまいそうになる。
何を考えていただろう。
そうだ、と思いだす。懐の物を、月子に渡すのだ。
気付けば、驚いたように息をとめた月子の潤んだ眼を間近に覗きこんでいた。果実のような唇が半ば開いている。
いつの間にか、その唇を源治は貪っていた。華奢な身体を腕に収めて、陶然となった。
一目、眼差しを交わせればいいと思っていた。
それだけでもいい。それだけでは足りないのはわかっている。
もう二度と、月子がこのような薄汚い船宿になど来なくて済むように、と願っているはずだ。そのはずなのに、どうして自分は喜々として月子の唇を吸っているのか。
「もうやめましょう」
ようやく源治は言葉を絞り出した。腕の中で月子は無言。眼下に在るのが月子の細い背で、顔は源治には見えていない。
「家に帰って下さい。そして二度とこんなところに来ないでください。二度と、あんなところには行ってはいけな い。見ていられない」
静かに、腕を離す。強いて月子から目をそらした。
「受け取って下さい。これだけあれば、もうこんなところには来なくていい。でもすぐに不足になるでしょう。……また貴方の家に伺う。その時にまた」
懐から取り出した物を、月子の膝に押し付ける。
包みは藤崎家で渡された時のままだ。あの金田という家臣がいくら包んだか源治はまだ確かめても居ない。
その金子の重みが、月子に驚きをもたらしている。
あの半年前の日に源治が伊助に払った五両といい、今月子の膝の上に置かれた金子といい、源治は何故それほどの物を月子のために払おうと言うのだろう。
謂れのない物を享受するのは乞食の仕業だと父や母から聞かされて、月子は生立った。源治の寄越す金子には施しという以外の、謂れがない。
金を渡しながら、家に帰れと彼は言う。二度とこんなところに来るなと言う。あのようなところへ行くなと言う。
おぼろに、源治の意図は、感じる。嬉しいように、その気持ちを感じる。だからこそ、受け取りたくない。
その施しを受けるのは、惨めだ。
「要りません。何も……」
悲しい事だが、しかし月子にも自覚はある。
そうだ。自分がどれほど惨めで、源治の同情を買っているか、よくわかっている。
金子など要らないと月子は思う。
だが状況はそれを必要としている。それを源治は知っている。
しかし月子の父には差し出せないのだろう。誇り高い畑野にそのような真似をすれば、彼が自害しかねないと解るのだろう。
源治が優しい人間だと言うのもわかる。
だからこそ、月子の家族の状況を見かねているのだ。事実として、もう月子は二度も彼からその施しを受け取った。確かに助けになった。
だが、それを渡された時に月子の感じた惨めさは、多分彼には解らない。
好きって、どういう意味でしょう、とついさっき美知江が言っていた。
(わかっています。どんな意味かなんて)
少し汗ばんだ源治の胸元に月子はおさまっている。呼吸をすると、鼻腔に彼の汗のにおいが満ちる。それさえ芳しく、心地よい。他の人なら嫌だ。
一目で良いから会いたいと思っていた。
言葉など交わさなくても、ただ眼差しを交わすことができればいい。
毎日なんて贅沢は思わない。月に一度でもいい。年に一度でもいい。もし会える距離に居るなら、その時だけで良い。
その姿を、目に映したい。希望などそれしかいらない。
(違う……。本当は、それだけでは嫌)
泣きたくなるほど、そう思う。
本当は、触れたい。触れてほしい。直にその肌と、魂に触れたい。触れてほしい。
しかしそれを望むのは、もう間違っている。
(ここに居る私はもう、そんなことを望むなんておこがましい)
悲しい自覚がある。
あの日から後、月子が何をしていたのか。
数多の獣欲が月子を通り過ぎた。思い出したくはないのに脳裏に染みついている。身体にも。慈しんでほしいと願う身は、もう、汚濁にまみれている。
「もう触らないで下さい」
だから、と月子は小さな声で言葉を継いだ。
「だから、貴方が帰って下さい。私はまだここに居ます。お金は要りません。謂れのないものは頂けません」
触るなと言われて源治は、腕を緩める。月子は膝の上から金の包みをすすけた畳の上に置き、源治の方へと指先で押した。
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