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第一章

第42話:すれ違った姉妹2

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 ルーナのすすり泣く声が響きわたる部屋のドアを、エリスは音を立てないようにそっと閉じる。

 カフェから戻ってきたエリスは、突然ルーナの叫び声が聞こえたため、急いで様子を見に来たのだが、杞憂に終わった。

 呪いの苦しみを分かち合えるジルでなければ、ルーナの心は癒せなかったかもしれない。少なくとも、今のルーナに必要な存在がジルであることは間違いなかった。

(人見知りで甘えん坊だったジルが、ルーナちゃんを支えてあげるなんて。男の子の成長は早いなー。まだまだ姉離れはできないと思うけど、立派な男の子になったね)

 弟離れできない自分はさておき、エリスはアーニャの部屋の前に足を運ぶと、コンコンッとノックして、扉を開ける。

 作業部屋にしてはグチャグチャになっている、アーニャの部屋。錬金術のことが書かれた書物があちらこちらで山積みになり、ルーナの治療薬のデータと推測が書かれたノートは散乱していて、大切な実験道具だけは妙に綺麗にされている。

 肝心のアーニャは椅子に座り、治療薬の研究データをまとめていた。

「どうしたのよ。こんな時間にエリスが来るなんて、珍しいじゃない」

 防音設備が整っているためか、ルーナが叫んでいたことに気づいている様子はない。チラッとエリスの姿を確認しただけで、アーニャは目線を机に戻して、筆を走らせる。

「ルーナちゃんの治療薬を作る邪魔をしたくないので、控えているだけですよ。本当はもっと掃除に来たいですし、アーニャさんにも休んでもらいたいですから」

「最近はちゃんと休んでるわよ。ジェム作りをエリスの弟に任せられるようになって、随分と助かってるわ。私の半分以下の時間で正確に作るんだもの。あの子、本当に化けるわよ」

「化けるかどうかは別にして、アーニャさんの元で働けてジルは喜んでますよ。私もジルも、アーニャさんとルーナちゃんに恩を返したいですから」

 エリスの言葉を聞いて、妙な違和感に襲われたアーニャは、筆が止まった。

 いつも入ってこない時間に作業部屋へ訪ねてきたこと。弟の錬金術の腕前を褒めても、食いついてこないこと。そして何より、エリスの雰囲気が違う。覇気がないというか、落ち込んでいるというか。

 顔を上げたアーニャは、見つめてくるエリスに目線を重ねる。

「何かあったの? エリス、変よ」

「……ルーナちゃんの石化が、進んだみたいです」

 事実を述べただけのエリスの言葉に、アーニャは理解が追い付かなかった。復唱するように何度も頭の中で再生し、断片的なワードを聞き取り、ようやく、事の重大性に気づく。

「なに言ってんのよ。冗談なら許さないわよ」

「こんな冗談を言うために来ません。ルーナちゃんの石化が進みました」

「本当になにを言ってるの。エリス、これをよく見なさい」

 机の上に置いてある紙を持って、アーニャはエリスに詰め寄った。紙に書かれているのは、ポーションの効き目と石化の呪いの侵蝕スピードを予測したグラフになる。

「ルーナの次の石化までは、後二週間近くあるわ。私が作ったポーションを飲み続ければ、もう一週間は延びるの。ちゃんとデータが出てるの。こんなにも早く石化するなんて、あり得ないことよ」

「ジルの呪いを見ていた経験上ですが……、急に呪いの侵蝕が早まることは何度かありました。何かの拍子に、階段を踏み外すような形で悪化するんです。多分、すでにルーナちゃんは何度か経験してると思います」

「どういうこと? そんなこと、ルーナは一度も……」

 一度もない、と、アーニャは言い切れなかった。思い当たるのは、半年前だろうか。

 部屋を訪れたときに、石化した足をルーナが隠し始めたことがある。ルーナの様子がおかしいとは気づいたけれど、石化した足を見るのがツラくなったと、アーニャは勝手に解釈していた。

 それ以降、アーニャに石化した足を見せることはなくなり、呪いの近況を自己申告するようになった。多少は前後するものの、アーニャの予想通りに石化は進んでいると、ルーナに伝えられていたが……、現実は違うことに気づく。

 治療薬を作るアーニャに余計な負担をかけまいと、ルーナは誤魔化していたのだ。証拠をなくすように、呪いの侵蝕が進む石化した足を毛布で見えなくして。

 現実を受け入れ始めたアーニャの頭が混乱しないように、エリスは優しくさとし始める。

「隠したがっていたので内緒にしていましたが、ルーナちゃんって、昼間に眠っていることがありますよね」

「そ、それがどうしたのよ。石化と昼寝は関係がないわ」

「石化が進んでいたのかわかりませんが、怖かったんだと思います。泣き顔を見られたくないみたいで、寝たフリばかりするんですよね」

 エリスの言葉を聞いて、アーニャの心の中で積み上げてきた何かが、ゆっくりと崩れ落ちていった。

 黙っていたルーナに怒りたいとか、気づいてあげられなくて謝りたいとか、自分を責めたいとかではなく、虚無に近い。どうしてこうなったんだろう……、という漠然とした後悔がゆっくりと押し寄せ、なかなか現実を受け入れられなかった。

 きっとエリスの言うことはすべて正しくて、石化の具合はあまり良くない。頭では理解できているものの、心が拒絶するように抵抗し、呆然としてしまう。

「……いつからかわかる? ルーナが寝たフリをするようになったのは」

「私が気づいた範囲では、半年前かなと。そのくらいに、態度がよそよそしい時期もありましたし」

「そう。弟の呪いが解ける前から、ルーナのことをしっかり見てくれていたのね。エリスはボーッとしてることが多かったから、意外だわ」

「ジルのことを考えてるときは、よくボーッとしてましたね。ギルドでも何度か怒られました。でも、私にとってルーナちゃんは、大切な妹ですから」

「勝手にエリスの妹にしないでちょうだい。私の妹なんだから」

 いつものような強気な態度も取れず、吊り橋のように不安定な心になったアーニャは、近くの椅子に腰を下ろした。視界に映る錬金術の道具を見ることがツラく、視線を反らす。

 一向に完成しないルーナの治療薬が、自分の力では作れないような気がして……。

「ねえ、エリス。ルーナの治療薬、本当に作れると思う?」

「アーニャさんなら大丈夫です。絶対に作れます」

 疑うことを知らないような優しい瞳でアーニャを見つめ、エリスは迷うことなく断言した。

「どうして、そう思うの?」

 震える声で問いかけたアーニャは、涙が溢れそうなほど瞳が潤んでいて、子猫のように弱々しく見える。取り乱したルーナ以上に、今のアーニャは心が脆い。

 ゆっくりと近づいたエリスは、アーニャの前でしゃがみ、包み込むように優しく抱き寄せた。

「こんなにもアーニャさんが頑張ってる姿を見れば、神様が必ず助けてくれますから。私も頑張っていたら、助けてもらいましたよ。破壊神様に」

 努力が報われないことなど、この世に山ほどある。現にアーニャも報われていない。ただ、その努力を理解してくれる人はいるし、心を動かされる人もいる。

 治療薬を作る手伝いはできなかったとしても、今度は一緒に前を向いて歩き出せるように、一人で抱え込んで心が折れてしまわないように、頑張り続けるアーニャをエリスは支えたいのだ。

「最近まで気づきませんでしたが、治療薬を作る重圧に負けまいと、ルーナちゃんと距離を置いてるんですよね。しっかり者のルーナちゃんに頼って、弱音を吐かないようにするために」

「仕方ないじゃない。一番ツラいのは、呪いをかけられたルーナで、ずっと苦しみ続けて……」

「アーニャさんも、ですよね? 呪いに体を蝕まれてるのはルーナちゃんですが、呪いに心が蝕まれてるのは、アーニャさんも同じです。だから、焦る気持ちはわかりますけど、無理はしないでください。頼りないかもしれませんが、弱音くらいは聞きますので」

 ルーナを看病し続けるアーニャの気持ちを、エリスは痛いほど理解している。

 呪いと戦い続けるルーナは、姉という心の拠り所があるため、涙を流してでも戦うことはできる。しかし、自分を信じて治療薬を作り続けるアーニャは、心の拠り所が存在しない。妹の命を救うという重圧に耐え、今まで妹を支え続けてきた。

 それももう、限界。エリスに抱き寄せられたアーニャは、自分の心の弱さに気づいている。強がって表面は取り繕えたとしても、心の内側では、ずっと助けを求めていたのだから。

 しかし、いきなり甘えてもいいよ、と言われても、アーニャは素直に甘えられない。どうしたら慰めてもらえるのかもわからず、エリスに抱き締められた現状をちょっと意識するだけでも、恥ずかしい。

 そして、調子に乗ってるんじゃないわよ! と突き放すには、あまりにも居心地が良すぎた。エリスに甘えたい、でも恥ずかしい。そんなアーニャの葛藤が勝手に体を動かし、エリスの胸の中で暴れまわるように、グリグリグリッと頭をうずめまくる。

 予想外の甘え方に、ちょっぴり、エリスは困惑する。

 これじゃあ呼吸ができないじゃないの! と逆ギレしかけたアーニャは、ガバアアアッ! と顔を上げた。

「そ、その、正直に言うわ。弱音の吐き方がわからないの。ルーナは聞き上手で誘導してくれるから、素直になれる。でも、どうしてもエリスの前だと気を張らないとダメっていうか、そもそもね、相談とか弱音を言葉にするのは、ルーナ以外にしたことがなくて、えっと……」

 甘え方がわからないと察したエリスは、もう一度アーニャを抱き寄せた。もっと強く安心できるように、できる限りの力でギュ~ッと抱き締める。

 恥ずかしくて目がスイスイスイーッ! と泳ぎまくっているアーニャは、もうわかんないよぉぉ、ふぇ~ん! と泣いてしまいたいが、絶対にできない。今まで誰かに強く抱き締められた経験がないため、背中に手を回していいのかもわからなかった。

「弱音が吐けないっていう、弱音ですね。それはもう、弱音なんじゃないですか?」

「ややこしいことは、言わないでよ」

 しゅーんっとなったアーニャは、自然と体の力が抜け落ち、エリスに体を預けた。甘やかされることに慣れていないアーニャだが、最初からこうすればよかったのでは? と思えるくらいに、エリスの体温が心地良い。そして、いつもジルの頭を撫でているエリスの手が、アーニャの頭を撫で始めると……、意地を張るのがバカみたいだわ、という気分になっていった。

「エリスって、変わり者よね。おまけに、お人好しだわ」

「アーニャさんに言われたくはないですけどね。エリクサーをタダで譲ってくれる人なんて、この世でアーニャさんくらいですよ」

「仕方ないじゃない、エリスの弟が死にそうだったんだもん。毎日泣きそうな顔をするエリスと会ってれば、譲りたくもなるわ」

「それでも、普通は譲らないですよ。エリクサーを使った後も、嫌味の一つもありませんし」

「待ってよ。私がそんなことを言うと思ってたの?」

「……正直いまも、エリクサーを渡さなければよかった、って言われないかドキドキしてます」

「そんなこと言ったら、可哀想じゃないの。同じ人間とは思えない発言よ。ルーナも私も悪魔じゃないんだから」

「そういうところがお人好しなんですよ」

 この後、日が暮れるまでアーニャは、エリスから離れることはなかった。素直になれない自分が今度はいつ甘えられるかわからず、ベタベタに甘えるのだった。

「ねえ、もうちょっとだけ、ギュッてして」
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