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第十四話・保育園からの電話
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オフィスビル前の市道を、救急車両が駅の方角へ向かってサイレンを鳴らし走り抜けていく。換気の為に窓を少し開けていたせいで、その騒々しさに優香は眉を潜めていた。パトカーと救急車がほぼ同時に通過していったので、駅前で何か事件でも起こったのだろうか。
再び静寂を取り戻したオフィス内には、カチカチというキーを叩く音とマウスの操作音だけになる。普段は饒舌な宏樹も、作業中に余計な声は掛けてこない。元々、独立後は一人きりでやってきた人だから、黙々と仕事をこなすのが得意なのだろう。優香自身もお喋りしながらだとすぐ手が止まってしまうから、静かに集中して作業できるのはありがたい。
確認し終えた伝票の束をホチキス止めしていると、デスクの隅に置いていた優香のスマホが鳴りだした。マナーモードにはしていたけれど、バイブの低い音と振動に慌てて手に取って液晶を確認する。――番号登録済みだったから『みつば保育園』と表示された着信の知らせに、優香はハッとして宏樹の方を見る。
「……陽太の保育園からだ」
出てもいいよと宏樹が頷き返したのを確かめてから、スマホの通話ボタンをタップする。園からの電話が掛かってくるのは、陽太に何かがあったからだ。少し緊張しながら出る。
「はい。石橋です」
電話の向こうからは、聞き慣れた保育士の声。乳児クラスの担任は、普段と変わらずおっとりとした話し方で、園での今日の陽太の様子について説明してくる。短い返事を繰り返してから、優香は電話を切った。その様子を自分のデスクから心配そうな視線を送ってきていた宏樹へ、困った表情で通話の内容を報告する。
「陽太、熱出てるみたい。迎えに行かないといけないから、今日は早退させて貰ってもいいかな?」
時期的なこともあり、保育園ではインフルエンザが流行り始めている。特に上に兄弟がいる二人目や三人目の多い乳児クラスだから、発症する子が出るのは早いだろうとは覚悟していた。しかも、まだマスクやうがいが出来ない月齢ばかりが集まっているから、一人でも出たら一気にクラス中が感染してしまうはずだ。乳幼児にソーシャルディスタンスや感染症対策なんて通用しない。
「早退は別に構わないよ。そのまま保育園に?」
「うん、迎えに行って小児科に連れてかなきゃ……インフルかもしれないし」
「ああ、今流行ってるってテレビでも言ってた。陽太、大丈夫だといいけど」
「上のクラスが先週、学級閉鎖になってるし、可能性は高いと思う……」
デスクの上を片付けながら、優香は診察券と保険証がしまってある場所を頭に思い浮かべる。熱を出しているらしいが、本人はいたって元気で普段通りに遊んでいるというのは救いだ。
「そっか。じゃあ、車を出した方がいいよね。俺も行くよ」
宏樹はノートパソコンをパタンと閉じると、デスクの引き出しから車のキーを取り出す。体調を崩している甥っ子を電車で移動させる訳にもいかないし、ここで一人で残っていても気が気じゃないし仕事にもならないと言い張ってくる。
「ごめんね。ありがとう」
「そういうのはいいって」
申し訳なさそうに礼を言う優香がいつまで経っても他人行儀だからか、宏樹は少しばかり寂しそうな表情を見せる。もっと頼ってくれていいといつも言ってくれるけれど、そういう訳にもいかない。
念のためにとマスクを着用して保育室へ顔を覗かせた優香は、隅っこで積木遊びしている陽太の姿にホッとした。少しだけ吐き戻したせいか着替えさせてもらったみたいで、朝に着せていたのとは別のトレーナーを着ている。それ以外は登園時と変わらない顔色で、室内に流れている音楽に合わせて玩具を上下に振ってご機嫌そうだ。
「微熱より少しあるくらいで、嘔吐も咳込んだ勢いでという感じです。ご本人さんもとても元気で、いつも通りなんですけどね」
「そうですか、すみません……これから病院に連れていきます」
「お熱もそれほど高くはないので大丈夫だとは思いますが、もしインフルだった場合は、園の方へご連絡いただけますか?」
担任保育士の言葉に、「分かりました」と返事して、すでにまとめておいて貰っていた荷物一式を受け取る。そして、優香の姿を見つけて嬉しそうに駆け寄って来た息子を、片方の腕で抱き上げた。腕から伝わってくる体温は、確かにいつもより僅かに高めだ。
ありがとうございました、と礼を言ってから園舎を出ると、駐車場で待ってくれていた宏樹の車へ乗り込みかける。後部座席には来る際には無かったはずのチャイルドシートが設置されていて、優香は驚いた顔で運転席の宏樹のことを見た。
「このチャイルドシートって……?」
「兄貴の車にあったやつだよ。廃車にした後に外して家で保管してたの見つけたから、いつでも使えるようにトランクに積んでたんだ」
産後に退院する時と一か月検診しか出番がなかった、陽太のチャイルドシート。たった二回しか使っていないから、まだ新品同様だ。妊娠中に夫と二人でネットの口コミを見てあーだこーだと言い合いながら決めた、国内メーカーの物。忘れかけていた記憶が不意打ちで一気に蘇ってくる。まだ見ぬ我が子を想像しながら夫と選んだグレーのシートへ、大きくなった息子を座らせつつ、優香は胸が詰まるような気持ちに苛まれる。
助手席を見ると、取り扱い説明書が無造作に置かれていたから、今さっき優香がお迎えに行っている間に宏樹はそれを見ながら一人で設置してくれたのだろう。独身の彼にそんなことまでさせてしまって、段々と申し訳なくなってくる。
「ごめんね、チャイルドシートなんて付けてたら、宏樹君の出会いが遠のいちゃうよね」
「また、そんなことを言う……」
呆れたように笑いながら、宏樹は車のエンジンをかける。
「一旦、家に戻るんだよね? 小児科って、あのクマの看板のところ?」
「うん、そう。診察券と保険証を取りに行かないと。……なんか、ごめんね」
「いいよ。俺が一緒に居たくて、勝手にやってるだけなんだからね」
当たり前のように傍にいてくれる宏樹のさりげない優しさ。ダメだとは思いつつも、つい甘えてばかりになってしまっている。
再び静寂を取り戻したオフィス内には、カチカチというキーを叩く音とマウスの操作音だけになる。普段は饒舌な宏樹も、作業中に余計な声は掛けてこない。元々、独立後は一人きりでやってきた人だから、黙々と仕事をこなすのが得意なのだろう。優香自身もお喋りしながらだとすぐ手が止まってしまうから、静かに集中して作業できるのはありがたい。
確認し終えた伝票の束をホチキス止めしていると、デスクの隅に置いていた優香のスマホが鳴りだした。マナーモードにはしていたけれど、バイブの低い音と振動に慌てて手に取って液晶を確認する。――番号登録済みだったから『みつば保育園』と表示された着信の知らせに、優香はハッとして宏樹の方を見る。
「……陽太の保育園からだ」
出てもいいよと宏樹が頷き返したのを確かめてから、スマホの通話ボタンをタップする。園からの電話が掛かってくるのは、陽太に何かがあったからだ。少し緊張しながら出る。
「はい。石橋です」
電話の向こうからは、聞き慣れた保育士の声。乳児クラスの担任は、普段と変わらずおっとりとした話し方で、園での今日の陽太の様子について説明してくる。短い返事を繰り返してから、優香は電話を切った。その様子を自分のデスクから心配そうな視線を送ってきていた宏樹へ、困った表情で通話の内容を報告する。
「陽太、熱出てるみたい。迎えに行かないといけないから、今日は早退させて貰ってもいいかな?」
時期的なこともあり、保育園ではインフルエンザが流行り始めている。特に上に兄弟がいる二人目や三人目の多い乳児クラスだから、発症する子が出るのは早いだろうとは覚悟していた。しかも、まだマスクやうがいが出来ない月齢ばかりが集まっているから、一人でも出たら一気にクラス中が感染してしまうはずだ。乳幼児にソーシャルディスタンスや感染症対策なんて通用しない。
「早退は別に構わないよ。そのまま保育園に?」
「うん、迎えに行って小児科に連れてかなきゃ……インフルかもしれないし」
「ああ、今流行ってるってテレビでも言ってた。陽太、大丈夫だといいけど」
「上のクラスが先週、学級閉鎖になってるし、可能性は高いと思う……」
デスクの上を片付けながら、優香は診察券と保険証がしまってある場所を頭に思い浮かべる。熱を出しているらしいが、本人はいたって元気で普段通りに遊んでいるというのは救いだ。
「そっか。じゃあ、車を出した方がいいよね。俺も行くよ」
宏樹はノートパソコンをパタンと閉じると、デスクの引き出しから車のキーを取り出す。体調を崩している甥っ子を電車で移動させる訳にもいかないし、ここで一人で残っていても気が気じゃないし仕事にもならないと言い張ってくる。
「ごめんね。ありがとう」
「そういうのはいいって」
申し訳なさそうに礼を言う優香がいつまで経っても他人行儀だからか、宏樹は少しばかり寂しそうな表情を見せる。もっと頼ってくれていいといつも言ってくれるけれど、そういう訳にもいかない。
念のためにとマスクを着用して保育室へ顔を覗かせた優香は、隅っこで積木遊びしている陽太の姿にホッとした。少しだけ吐き戻したせいか着替えさせてもらったみたいで、朝に着せていたのとは別のトレーナーを着ている。それ以外は登園時と変わらない顔色で、室内に流れている音楽に合わせて玩具を上下に振ってご機嫌そうだ。
「微熱より少しあるくらいで、嘔吐も咳込んだ勢いでという感じです。ご本人さんもとても元気で、いつも通りなんですけどね」
「そうですか、すみません……これから病院に連れていきます」
「お熱もそれほど高くはないので大丈夫だとは思いますが、もしインフルだった場合は、園の方へご連絡いただけますか?」
担任保育士の言葉に、「分かりました」と返事して、すでにまとめておいて貰っていた荷物一式を受け取る。そして、優香の姿を見つけて嬉しそうに駆け寄って来た息子を、片方の腕で抱き上げた。腕から伝わってくる体温は、確かにいつもより僅かに高めだ。
ありがとうございました、と礼を言ってから園舎を出ると、駐車場で待ってくれていた宏樹の車へ乗り込みかける。後部座席には来る際には無かったはずのチャイルドシートが設置されていて、優香は驚いた顔で運転席の宏樹のことを見た。
「このチャイルドシートって……?」
「兄貴の車にあったやつだよ。廃車にした後に外して家で保管してたの見つけたから、いつでも使えるようにトランクに積んでたんだ」
産後に退院する時と一か月検診しか出番がなかった、陽太のチャイルドシート。たった二回しか使っていないから、まだ新品同様だ。妊娠中に夫と二人でネットの口コミを見てあーだこーだと言い合いながら決めた、国内メーカーの物。忘れかけていた記憶が不意打ちで一気に蘇ってくる。まだ見ぬ我が子を想像しながら夫と選んだグレーのシートへ、大きくなった息子を座らせつつ、優香は胸が詰まるような気持ちに苛まれる。
助手席を見ると、取り扱い説明書が無造作に置かれていたから、今さっき優香がお迎えに行っている間に宏樹はそれを見ながら一人で設置してくれたのだろう。独身の彼にそんなことまでさせてしまって、段々と申し訳なくなってくる。
「ごめんね、チャイルドシートなんて付けてたら、宏樹君の出会いが遠のいちゃうよね」
「また、そんなことを言う……」
呆れたように笑いながら、宏樹は車のエンジンをかける。
「一旦、家に戻るんだよね? 小児科って、あのクマの看板のところ?」
「うん、そう。診察券と保険証を取りに行かないと。……なんか、ごめんね」
「いいよ。俺が一緒に居たくて、勝手にやってるだけなんだからね」
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