めがね村のラガンくん

シュンティ

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 必要のなかったはずのめがねでも、三日もかけていれば、もはやそのめがねなしでは、ものがよく見えなくなっている。それで、やっぱりメディアを利用していてよかった、メディアのくれるめがねがあって助かったと思いこんで、メディア信者になっていくのである。

 メディアの宣伝文句というのは、心が乱れているものにとっては悪魔のささやきである。心が乱れているもの、例えば、企業による理不尽なリストラにあって途方に暮れているもの、くじに当たって見たこともない大金を一夜にして手に入れたもの、軽い気持ちで始めた為替取引で大損して多額の借金を抱えたもの、遺産相続で親族と係争中のもの。なんだか金に絡んだ話に偏ってしまった。もちろん金の問題がなくとも、誰にだって心の乱れは起こりうる。この世に心が乱れないものなどいない。人の心を乱れさせるのもまた、メディアのお家芸である。

 今言及してきたメディアというのは、何も報道機関のみに限った話ではない。電柱にはられているポスターや、ポケットティッシュに入っている紙切れだってメディアだし、人間一人一人だってメディアになりうる。
 と言って、メディアに誰もがだまされるわけではない。ただ特筆すべきは、世間一般の尺度で賢いとされているものたちも、否そういったものたちほど、メディアの術中にはまりやすく、一度はまると容易には抜け出せなくなってしまうということである。自分こそ賢者であり、自分と同じ思考ができないものは阿呆だと思っているこのものたちのことを、ここでは「自称賢者」とでも呼んでおこう。自分はメディアに侵されてなどいない、臨機応変にメディアが出す情報を取捨選択して真実をとらえている、いつだって核心をついている、と自称賢者どもは言い張る。が、その取捨選択だってメディアのくれためがね越しにやっているわけだから、この自称賢者どもこそ、メディアの食い物にされている典型的な種族だと言って差し支えなかろう。
 自称賢者たちは頼まれもしないのに、周囲の人間に自分のかけているめがねのよさを吹聴してまわる。メディアからしたらしめたものだ。世間から一目置かれている知識人が、タダで自分のめがねを宣伝してくれるのだから。

 自称賢者ほどでなくとも、人々は基本的に自分のめがねの性能を信じて疑わない。それは子どもの時分からのことである。例えば一人の子どもが黒板に描かれているのは黄色いボールの絵だと言ったとしよう。別の子どもはあれは緑色の風船だと言って反論するし、また別の子どもは、いやあれはりんごかトマトの絵だと言って譲らない。
 一つ救いなのは、子どもの内はまだめがねを外してものを見ることができるという点だ。めがねを外しさえすれば、子ども同士の間で、黒板に何が描かれていたのか、あるいは描かれていなかったのか共通の見解を得ることができる。けれども、大人になると、めがねなしではものが見られなくなっているから、大人同士の間には溝という溝ができてしまい、収拾がつかないことも少なくない。

 また一方で大人の中には、自分がめがねをかけていることをほとんど忘れてしまっているくせに、自分のめがねがバカにされたときに限って、思い出したように怒り出したり、自分が見たこともないめがねを見たときにはバカにせずにはおれなかったりするものもいる。
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