好きだ、好きだと僕は泣いた

百門一新

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 美術室の窓ガラスを、雨が強さをそのままに激しく叩く音が続いている。

 彼方は、その向こうの薄暗い夜をまとった曇天の下、色とりどりの傘が流れていく様子をぼんやりと眺めていた。一通り説明していった担任の小野が、生徒指導のため先に美術室を出ていく。

「すまなかった。小学校の頃の知り合いだったと聞かされて、夏休みの期間だけ君と同じ部室にして欲しいと頼まれた。彼女の希望で、小野先生に協力してもらったんだ」

 同僚を見送った秋山が、繰り返すようにそう切り出して再び頭を下げた。

 どうして彼女はそんな事を、と彼方は尋ね返せなかった。思い返していた小学校時代の回想が、ようやくプツリと途切れて太腿の上にある拳をぎゅっとした。十四歳になった今、あの当時と違って無垢で無知なままではなく、なんとなく分かってしまえるような気もした。

「さっきも話した通り、宇津見さんは再発した癌の治療のため入院している。次、いつ登校するかは分からない。可能性の少ない手術が、もし成功したとしてもその後の治療もあって……」

 説明の言葉が、先程からずっと耳と頭を素通りしていくようだった。

 彼方は表情に出さないまま、痛いくらい拳を固める。難しい事は分からない。手術が成功するだけじゃダメなんて、そんな事知るはずもない。自分は知識の浅いただの中学生なのだ。

「…………もう、学校には来られないのですか」

 再発場所が難しく、今の状態で手術が成功するかどうかも分からない。先生達の説明をそう頭の中でまとめながら、ぽつりと静かな声色で尋ねた。

「――正直に言えば、それは僕ら教師にも分からない」

 秋山先生がそう言った。そこには、下手な嘘も誤魔化しもなかった。

 彼方は、胸の内側がひどく静まり返っているのを感じながら、窓ガラスを叩きつける雨を眺めていた。先程出ていった担任の小野との説明の際中、何度か「大丈夫だ」「きっと良くなる」という言葉を交えられていた。それを聞いて、恵が危険な状態である事を実感してしまってもいたから。

「もう、手術と治療は始まっているんですか」

 長い沈黙のあと、彼方は再び尋ねた。

 質問を投げかけられた秋山が、身をよじるようにしてその横顔を見やる。

「九月から手術の準備期間に入っている。経過の状態によっては、早ければ今月末にも手術が行われるそうだ。今は病室が移されて、先日から僕達も面会に行けない状況でね」
「つまり先生方は、皆知っていたんですね」

 授業の合間か、もしくは終わった後に一時顔を出しに行っていたのだろう。だから廊下ですれ違う事も少なかったのかもしれない。

 そう考えながら、ふと、とても静かだった二組側の廊下辺りの事を思い出した。

「他の生徒達は知っているんですか?」
「少なからず、僕のクラスの子達は知っているよ」

 そう言った秋山が、どうにか平静を装いながら肩をすくめるのを、彼方は室内の風景が反射しているガラス越しに見つめていた。

 しばらく、どちらも言葉がないまま時間が過ぎていった。ガラス越しに目を合わせる秋山は、考えの読めない三十歳の真面目な顔で彼方を見据えている。

 雨の音がする。ずっと変わらず、馬鹿みたいに窓を容赦なく叩き続けていた。

 その様子をただただ眺めていた彼方は、ようやく、ぼんやりとした様子で視線を外した。何かを考えなければとするように顔を下へ向けて、ひどく感覚が鈍いような気がする己の軟弱な手を見た。

「…………ああ、そうだ。僕、彼女に渡したい物があったんだった」

 思い出すように言葉を紡いで、いつものようにいかない思考を動かすように目を細めた。
 喉がカラカラに乾いているみたいに、言葉が途切れ途切れになる。それでも黙っている秋山から、続く言葉を待っている配慮を感じてどうにか声を絞り出した。

「生まれて初めて、一生懸命描いたんです。交換しようと言って、テスト明けに渡す約束をしていたんだ」

 そう口にしてから目を向けたら、秋山が少し悲しそうに笑いかけてきた。そのまま静かに頷くのを見て、彼方は恵との作品交換の件を知っているのだと気付いた。

「――うん、その話は聞いているよ。だからテストが終わるまで、僕らの方で話し合って打ち明けるのを待っていたんだ」

 切り出された言葉を聞いて、ギシリっと胸が締め付けられた。日に日に感じていた嫌な予感に呑まれそうになって、彼方は相槌を打てなかった。

 じっと見つめ返していたら、秋山が組んだ手に目を落とした。

「…………再発した癌の進行がはやい」

 ぽつり、と彼が口にした。

「僕は去年、初めてこの学校で自分のクラスを持った。そして二年になっても、彼女がいるクラスの担任になった。とても元気な女の子で、知らせを聞いた時はまさかと思ったんだ」

 夏休みに入る前、宇津見恵は小さな違和感のような体調不良を訴え、念のため病院で検査する事になり学校を休んだ。

 そして唐突に、両親から学校側へ連絡があったのだそうだ。指名を受けて対応に出た担任の秋山は、そこで彼らから泣きながら『どうか、娘を説得して欲しい』と頼まれたという。

「僕らとしても、すぐにでも治療を始めるべきだと思った。でも彼女は、余命を宣告した医者に時間が欲しいと言ったそうだ……最後になるかもしれないのなら、最後に自分だけの時間が欲しい、と……病院側から話を聞いて、僕は、それなら彼女の意見を尊重するべきだと……」

 だから夏休みの間だけでも時間をくれませんか、と恵の味方をして、ご両親に頼み返したんだ、と。そう話す秋山の声はかすれ、次第に途切れて、最後には言葉も続かなくなった。

 彼方は、ぼんやりとそれを聞いていた。感情と情報の整理が、時差でもあるみたいに追い付かないみたいだった。実感として込み上げないでいると、何度か大きく息を吸った秋山が、咳払いを一つし、打ちひしがれた顔を教師の顔に塗り替えてこちらを見てきた。

「明日、出来上がった宇津見さんの本を、彼女のご両親から預かる事になっているんだ」

 そのまま控えめな微笑を浮かべて、そう切り出された。

 どうやら、それもあって呼び出したようだ。だから彼はここに残っているのかと、彼方はまだうまく回らないでいる頭の中で考える。

「どうか君に渡してくれと、彼女がご両親に言ったらしい。君が宇津見さんに渡す事になっている絵を、その時向こうの両親へ預けたいと思うんだが、――それでいいかい?」

 話を聞きながら、彼方は観察するように彼を眺めていた。秋山はしばらく眠れていないのか、よくよく見れば涼し気な顔立ちの目尻と鼻上に薄い皺を作っていた。彼が無理に微笑んだり言葉を出すたび、鼻上に二本の薄い皺が寄るのも見えた。

「受け取るのが明日の朝なんだ。どうだろう、もしかしたら都合が悪い?」
「……いいえ、大丈夫です。宜しくお願いします」

 もう一度問い掛けられて我に返り、形上の言葉を数秒遅れで答えた。

 この後とくに用があるわけでもないのに、彼方は壁の時計を見やった。動いている秒針を確認して秋山に目を戻したはずなのに、今が何時何分なのかも分からなかった。

「じゃあ、これで失礼します」

 彼方は立ち上がると、頭を軽く下げてから歩き出した。足元に力が入らなかったものの、どうにかゆっくりと前へ進んだ。

 後ろから秋山の別れ言葉が聞こえたものの、答えてきたその声は掠れきっていて、窓を叩き続けている鈍い雨の音にかき消されてしまっていた。
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