好きだ、好きだと僕は泣いた

百門一新

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 まだ小学生だった頃、入学当初からあまり学校に来ない女の子がいた。

 学校へやって来ても、見知らぬ子供達の中に放り込まれたみたいに緊張していた。話しかけられるとビクリとして、恐る恐る言葉を返すような女の子だった。どこか違和感のある真っ黒い頭もあって、何もせず座ったままでいる姿は教室の中で浮いていた。

 細くて小さすぎる身体に対して、髪の量と色が合わないような印象を受けたせいだろう。不健康な青白い肌に対して、髪はごわっとした感じでクラス一の真っ黒な健康髪だった。

 休み時間になれば、ほとんどの子供達が教室を飛び出していった。残るのは大抵、絵を描き続ける彼方とその女の子だけだった。その痩せた小さな女の子は、自分の席に座ってじっとしていて、時々、彼方が視線を感じて振り返ると慌てて顔を下に向けていた。

 小学一年生だった当時も、彼方は飽きずに人の顔ばかり描いていた。耳が痛くなるような声で喋る同性の同級生達が苦手で、彼らがわっとはしゃいで教室を出ていくたび、じんじんと痛む気がする耳を少し叩く皮肉をやったりしたものだ。

 そんなある日、少し体格の大きな男の子が、その女の子を泣かせてしまった事がある。

 プールの授業が始まる前あたりだったように思う。彼女の髪がカツラであると知って、彼らは指を向けて笑ったのだ。彼女が泣いて飛び出して行った後、心底怒った表情をした担任と副担任がやってきて、次の授業の時間まで使ってひどく叱り付けた。

「『うつみめぐみ』さんは、今、病気と必死に闘っています。それをあなた達は笑うのですか?」

 まだ一桁の年齢である彼方達に、二人の先生は病気の事を簡単に教えた。若ければ若いほど転移が早く、それでいて合併症も生じて何度か手術も受けているという。
 ひどく泣いたあの女の子は、無理やり走ったせいで体調不良になり早退してしまったらしい。笑った男の子達は、自分達がひどい事をしてしまったと知って青い顔をしていた。

「治療が無事に終わるまで、あの子は長い欠席も繰り返すでしょう。お休み明けの登校は、辛い治療から帰って来てのものですから、皆さんは温かく彼女を迎えてあげて下さい」

 色々と説明された中で、『癌』という言葉が頭に残った。帰ってから両親に尋ねた時、彼らが互いの顔を見合わせて「治療がうまく行くといいわねぇ」「まだ小さいのになぁ」という言葉に、彼方は女の子の置かれている状況を幼いながらに察した。

 その女の子は、翌週から少しだけ登校してきた。でもそれからまた長らく休み、次に顔を見た時には季節が変わってしまっていた。

 それから数年、彼方は女の子と違うクラスだった。美術関係の本を読んでは、黙々と絵を描く日々が過ぎていった。話すのも嫌だというような仏頂面を浮かべて一人行動する彼は、それでも決して俯いたりせず、いつも背筋を伸ばして歩く子共だった。

 四年生になった時、再び『うつみめぐみ』と同じクラスになった。しばらく前は短髪頭だったものの、また辛い治療があったのか、彼女の頭はまた真っ黒になっていた。

 次の大きな――最後になるかもしれない――手術があるまでの間は少しゆっくり出来るらしい。五月の中旬から、しばらくは毎日のように登校してきた。

 二年ほど見なかった間に、彼女は少しだけ顔を上げるようになっていた。仲の良い女の子達も出来て、親しげに「メグちゃん」と呼ばれていた。気分が悪い時は、保健室で休んでいる事も多かったが、それでも学校生活を楽しもうと努力するかのようだった。

 いつも自信のない目を上げて、慎重に辺りを見やる女の子。

 でも、そんなおどおどした様子の彼女が、時々、揺らぐ事のない真っ直ぐな目をする事があった。それに気付いてから、彼方はなんとなく引かれてその表情を観察するようになった。

 知られない程度に見ているつもりだった。けれどお返しなのかなんなのか、その女の子がチラチラと観察するような目を向けてくるのが増えた。気付いて振り返ると、慌てたように視線をそらされてしまう。それが毎日に続くと、さすがに集中力を欠かれて少し苛々した。

「君、何か僕に訊きたい事でもあるのかい」

 ある日、チラチラと視線を送って来る『メグちゃん』に、彼方は振り返りざま不機嫌な声で尋ねた。すると彼女は、ビクッとして慌てて目を落として縮こまる。

「あの、その、ごめんなさい……」

 そのまま、消え入りそうな声で謝られた。

 苛々しそうになった彼方は、父から言われていた「短気なところは直しなさい」という言葉を思い出して自分を落ちつけた。夫婦喧嘩をすると怒涛のように物を言う母のようにはなりたくないとも思っていたから、深呼吸を挟んでからこう続けた。

「……僕は怒って言ったわけじゃない。いきなり謝られても困るというか……ただ、声もかけないままチラチラ見られ続けるより、聞きたい事があるならハッキリ尋ねてくれた方がいい」

 何か言いたい事があるのならどうぞ、と促したら、『メグちゃん』は膝の上に置いた手をもじもじとさせて「あの、その」と臆病な声で言った。

「いつも一人でいるから、寂しくないのかなぁって……それに毎日何かを描いているみたいだけど、えぇと、何を描いているのかなぁとか……?」
「僕は誰かの都合やら、お喋りやらに振り回される方が嫌なんだ。煩わされたくなくて一人でいる。絵は描きたいものを、ただ描いているだけだよ」

 彼方は片眉を上げ、俯いたままの彼女にぴしゃりと言い返した。きつめの口調になってしまったのに、彼女は引き続きもじもじとしていて、まだ話し足りない様子だった。

「えっとね、その、いつも美術の本とか読んでいるでしょう? いつもね、あの、たまたま見かけるたびそうだから……『絵描きさん』になりたいの?」
「そんなんじゃない。ただ描き方や筆の使い方で、こうも変わるのかと興味があって読んでいるだけだ。それに載っている作品を見るのも、嫌いじゃない」

 そう答えたら、女の子がチラリと目を上げてきた。しばし、他のクラスメイト達がいない休み時間の教室で、少し離れた席から互いに見つめ合った。

 口で説明するよりも、見せた方が早いだろう。彼方が引き出しに入れていた美術関係の本を、面倒そうながら取り出して開いて見せてやると、彼女が興味があるように見つめてきた。

「たとえば、このページの絵画だ。そっちから見えるかい?」
「うわぁ、すごいッ」

 絵の写真が載ったページを見た彼女が、目を輝かせて身を乗り出す。彼女のそんな表情を見たのは初めてだったが、彼方はとくに気にもせず話を続けた。

「これは実在している被写体を見て描かれているものだ。ここまでの高望みはしないけど、いつか僕にも描ければいいなとは思っている。興味深い一文を読んで以来、読書よりも描く時間が増えた。考え方や捉え方なんだろうけど、思わずそうだなと考えさせられたんだ」

 女の子が、向こうの席から興味津々にページの絵を見つめ「写真みたいね」と呟いた。それから、ふっとこちらに真っすぐ目を向ける。

「なんだか難しい言葉を使うのね。『興味深い一文』って、何?」
「ある芸術家が、『我々はその絵画の中に、過ぎ去ってしまった時を見い出す事が出来る』と本に書いていた。一秒だって同じ時は訪れないし、空だって同じ顔は見せない。その時間を、この四角い紙の中に切り取って収める。だから素晴らしい宝なのだと、彼は言っていた」

 女の子が、思案気に目を落とした。ぽつりと口の中で「……その時を………残せる……」と呟く声が聞こえた。

 もう話は以上だろう。しばらくの沈黙を聞いた彼方は、手に持っていた本をもとの場所にしまった。


「――とても、良いお話ね」


 不意に、問いかけるような口調でそう声を掛けられた。

 振り返ってみると、彼女が少し悲しそうな笑みを浮かべて床を見つめていた。

「キレイな時を、そのまま切り取って集められたら素敵だろうけど、きっと一番それを望んでいても無理なんでしょうね。私が見る風景は、こんなにきらきらしていないもの……」
「いつも俯いてばかりじゃ、見えるはずもないだろう。君がきらきらしているはずがないと思ってしまえば、君の見ている世界は、すぐに色褪せてしまうに決まってる」

 彼方がぶっきらぼうに言葉を返したら、女の子が俯きがちに視線を上げてきた。

「…………なんだか、あなたって意外とすごく真っ直ぐで、きらきらしている気がする」
「はあ? よしてくれ。僕はきらきらなんぞ振り撒いた覚えもないし、そんなもの背負った事だってないよ」

 顔を顰めて本心を口にした。少し意外そうな表情で瞬きを繰り返しながら、じっと見つめ返していた彼女が、唐突に「ねぇ」と言って質問する。

「私、写真も上手く撮れないの。それでも『キレイな時を集められる』と思う?」
「出来るに決まっているだろう。絵も写真も経験の問題だ」

 彼方は仏頂面で答え、他に言うべき事もないだろうと鉛筆を手に取った。開いていたノートの途中の描きに目を戻すその横顔を、彼女はただひたすら眺めていた。

「…………いいなぁ。私も、そんな風になれるかなぁ」
「人は変わろうと思えば変われるし、やろうと思えば出来るものさ。あの本の著者が言う『一分一秒の世界全てが愛おしい』とやらはよく分からないけど、僕は確かに、僕が過ごす風景と時間の中にいて良かったと、そう思えてならない時があるような気もしている」

 その時、開いた窓から風が吹き込んできて、ぱらぱらっとノートをめくり上げた。

 彼女が「うわっ」と言って、咄嗟のようにして頭を押さえる。それが視界の端に映る中、彼方は「やれやれ」と疲れたようにノートのページを元の場所に戻した。

「……うん、今、ちょっと分かったかもしれない」

 風が止み終わって、ふと『メグちゃん』が呟く声が聞こえた。

 彼方は「何が?」と眉根を寄せて振り返った。そこには、驚いたようにこちらを見ている彼女がいて、その表情が唐突に笑顔に変わった。

「『かなたくん』の言う通りかも。世界って、本当はきらきらとしたものが沢山溢れていて、とてもキレイなのかもしれないね」

 優しく細められた目が、真っ直ぐこちらへ向いている。その笑顔はあまりにも柔らかで、彼方はどうしてかパッと目をそらしてしまっていた。

 このまま絵描きに戻ってしまおうと思っていたのに、どうにも進まず椅子に背をもたれた。息を吐き出しながら目をやった先には、日差しの明るさにぼんやりと浮かび上がっている教壇があった。心地よい風が吹くたびに、近くに飾られている造花が心地よさそうに揺れている。

 彼方はその光景を眺めながら、外から聞こえてくる沢山の子供達の賑やかな声をしばらく耳にした。ボールを蹴る音、掛け声、陽気な笑い声に時々上がる歓声――。

「…………限られた命と、過ぎていく時があるから、その一瞬一瞬がキレイに見えるのかもしれない。僕らはきっと、そのようにして、世界に在り続けるのだろう」

 自然と、そんな言葉を口にしていた。ずっとこちらを見ていた彼女が「うん」と答えて、つられたように賑やかな外の雰囲気が伝わってくる窓へと目を向けた。

 そのあとに言葉をかわす機会はなく、それが『メグちゃん』との最初で最後の会話になった。

 それから少しの学校生活を過ごした後、彼女は大きな手術に臨んだ。手術成功の知らせを学校側に伝えたあと、術後経過観察とリハビリ期間に入った。それからほどなくして、そのまま別の小学校に転校していった。

 たった一日、そう話したのが一番長い会話だった。新しい勉強などをどんどん頭に詰め込んでいくうちに、『痩せ細っていたガリガリの女の子メグちゃん』を思い出さなくなった。
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