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第10章
186話
しおりを挟む先程の喧騒が夢であったかのように、聖堂はしんと静まり返っていた。
辺りは、天井にぽっかりと開いた穴から降り注ぐ月明かりで、淡い光に満たされている。それは、呼吸をすることさえも忘れてしまうくらい、神聖さを感じる光景であった。
「おいっ!クソベルト!!」
突然、稲妻のような声が、神聖な空間を叩き割る。その声に、ハッと我に戻ったのも束の間、今度は視界に飛び込んできた光景に目を剥いた。
「ちょっとは火加減を考えろっ!もう少しで火達磨になるところだったじゃねーか!!」
語気を荒げながら、殿下がユリウスに飛び掛かっていた。だが、ユリウスは特に驚いた素振りもなく、殿下の足が当たる寸前、ひょいっと身をかわす。そしてーーー
「文句があるのは、こちらの方ですよ。」
そう言ってユリウスは、あろうことか、空振りをし体勢を崩した殿下に、容赦のない蹴りを入れた。
「なにのんびりと惰眠を貪っているんですか。予定より7分も遅れているんですよ。この責任をどう償うおつもりで?あと僕の名前はクソベルトではなくユリウスです。いい加減、覚えてください。」
淡々とそう言いながら、ユリウスは殿下の身体をゲシゲシと蹴る。だが殿下もやられっぱなしではない。殿下は「責任転嫁してじゃねぇ!」と咆哮し、その長い足でユリウスの足を払った。ユリウスの身体はぐらりと傾き、そのまま尻餅をつくかと思いきや、彼はすぐさま床に手をつき、軽やかに体勢を整え、殿下と距離をとった。
一方、首をボキボキと首を鳴らしながら立ち上がった殿下はユリウスを見据え、冷笑を浮かべた。
「予定が狂ったのは、明らかにお前が用意した得体の知れない薬のせいだろうが。むしろ7分ぐらいの誤差で起きれた俺を褒め称えるべきじゃねーの。」
「確かにあの薬は、偶然にできた副産物です。ですが、ちゃんと僕が18歳だった時の身体能力に合わせて調合し直してあります。つまり、殿下は当時の僕より劣っている、ということになりますね。」
「あーでたでた。ジジィ共の『儂の若い頃はなー』ってよく比較してくるヤツ。お前らみたいに、過去の栄光にしがみつくしか能のない、頭の固いジジィにはなりたくはねぇよな。」
「おや。その過去の栄光すら持たない青二才が随分と偉そうなことを仰いますね。身の丈に合った言葉を選んだ方がよろしいですよ。テオドール皇太子殿下。」
「そのセリフそっくりそのまま返すわ。ユリウス卿。」
顔面に冷たい笑みを張り付けた二人は、バチバチと火花を散らしている。
…。
これは一体どういう状況なのだろうか。
少し離れたところで繰り広げられている口喧嘩を唖然と眺めていると…
「…アルベルトは貴方の方だったんですね。」
聖女の声が凛と響き、聖堂の空気を支配した。
その声にピタリと口喧嘩を止めたユリウスと殿下は、祭壇の上で底知れぬ威圧感を放っている聖女を見上げる。
「…。」
静黙に交わる3人の視線。
息苦しささえ感じるほどの重い沈黙。
誰もが息を吞み3人の挙動を見守る中。
何の前触れもなく、ユリウスが聖女に向かって歩き出した。
コツコツと、静寂に包まれた空間に、ユリウスの靴音だけが響く。
何故かその音が、やけにゆっくりと耳の中で響いてーーー
私は、皮膚がざわつくような恐怖を覚えた。
「そこで止まりなさい。」
威厳に満ちた聖女の声が、ユリウスの歩みを制した。
2人の距離は、僅か5歩ほど。
再び訪れる静寂。
だがそれは、僅かな間で、終わりを告げた。
ゆっくりと顔を上げたユリウスの瞳が、サファイアの煌めきを宿したことによって。
「ーっ、」
聖女が小さく息を吞んだ次の瞬間。
瞬く間に青い炎の包まれた聖女の華奢な身体が、聖堂の下手の壁に聳え立つ巨大なパイプオルガンに叩きつけられた。
派手な音と共に、パイプオルガンから吐き出された不協和音の音色が、聖堂内に響き渡る。
青い火の粉が飛び散る中、ガラガラと音を立てながら無数のパイプが、小さな身体の上に崩れ落ちてゆく光景を目の当たりにした私は、堪らず声を上げた。
「ベティ!!」
考えるより先に身体が動く。
祭壇から飛び降りた私は、聖女の元に駆け寄ろとした。
しかし。私の身体は、ぐいっと後方に引っ張られる。すれ違いざまに、ユリウスが私の腕を掴んできたのだ。
「離して!」
咄嗟にユリウスの手を振り払う。
だがその直後。
“ぺちん”と。
頬を襲った衝撃…とも言えぬ感触に、聖女のことで一杯だった私の頭は真っ白になった。
「ーーー」
決して痛くはない。ただ酷く驚いただけ。でも、だからこそ、自分が何をされたのか、すぐには分からなかった。
遅れて気付く。私はユリウスに頬を叩かれたのだ。
半ば呆然として、叩かれた頬に手を添えながら、目の前に立つユリウスに視線を向ける。
昨日会っていたはずなのに、何故か何十年ぶりに相まみえたような気がする彼の黄水晶の瞳は、冷たい氷河の中で怒りの炎が揺らいでいるようだった。
「何故、貴女がここに居るんですか。」
憤りを滲ませた静かな声。
その声に、ハッと我に返った私はーーー
思いっきりユリウスの白い頬に、平手を放った。
パァン、と鋭い音が聖堂に響く。
「……何故って、そんなの決まっているじゃない。」
目を見開き、叩かれた頬に手を当てるユリウスを、私はキッと睨みつけた。
「私は、貴方に会いに来た。」
昨夜、小指を絡めて交わした約束を果たしてもらう為に。
「……」
ユリウスの唇が何か言いかけて開いたーーーーその時。
「――死に損ないの虫けら共が…」
地を這うような低い声が聖堂に堕ち、背筋にぞくりと震えが走った。
続いて響く、ガラララ…!!とパイプが崩れ落ちる音に、ハッと下手に目をやった私は、思わず息を呑む。
そこには、まるで地獄の底から這いあがってきた亡霊のように、積み重なったパイプの中から出てきた聖女が、頭から血らしきものを流しながら立っていた。
「アルベルト。毒林檎を食ったはずのお前が、なんで生きていやがる?」
ギラギラと光る獣のような瞳でユリウスを睨みつけながら、聖女は粗野な言葉を吐く。
常に敬語であったはずの可憐な少女の豹変に、誰もが戸惑いを隠せない中、ユリウスと殿下の態度だけは最初と変わらなかった。
何故、2人は聖女の姿を見ても平然としていられるのだろうか―――あんなにも、聖女の頭から溢れているというのに。
聖女の問いに小さく肩をすくめたユリウスは、にこりとした笑みを貼り付けた。
「これは驚きました。貴女もその名で僕を呼ぶのですね、ベティ嬢―――いえ、」
そこで言葉を切ったユリウスは、黄水晶の瞳を眇めて、こう言った。
「ペティーナお姉様。」
思わず「え…」と零す私を一瞥したユリウスは言葉を続けた。
「彼女の本当の名前は、ペティーナ=フェルシュング。正真正銘、僕の異父姉です。」
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