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第10章
183話
しおりを挟む「…嘘よ。」
思わず発した否定の言葉に、聖女は「あぁなるほど」とばかりにうんうんと頷いてみせた。
「急に言われても信じられませんよね。初代皇帝が神様から授けられた力で世界を救ったという英雄譚が、まさか全部嘘だったなんて。その上、欲に目がくらんでゴキブリまで食べちゃうなんて…おぞましくて、とても同じ人間だとは思えません。ここに居る皆もずっと信じていた皇族に騙されていたことを知って、とてもショックを受けていました。エリザベータ様もずっと信じていたものに裏切られて、さぞや傷ついたことでしょう。心中お察しします。」
違う。そうじゃない。
と、喉に刺さった小骨のようなものが、私に訴えかける。
確かに皇族の青い血の正体が口にするのもおぞましい害虫だったなんて、とても信じられないしショックを受けている。
けれどーーー私は知っているのだ。
言い伝えられてきた歴史でも聖女が言う真実でもない。
幸せだったあの頃に戻りたいと何度も何度も神様に願い、そして最後は神様の存在を否定した男のお話を。
何時どこで知ったのかすら定かではない不確かな記憶を手繰り寄せようとした一刹那、記憶を司る海馬が、この世に存在しないはずの記憶をあぶりだした。
大樹に腰かけ、ぼんやりと遠くを眺めながら頬を濡らす知らない男。
彼は一体誰なのだろうか。
あともう少しで何か思い出せそうだったが、再び聖女が語り始めたので、私の意識はそっちに引っ張られた。
※※※※
「お辛いと思いますが、私のお話にはまだ続きがあるんです。もう少しだけ付き合って下さいね。えっと…何処から話ましょうか…。…んー…あ、そうそう。
ごほん、え―――
―――長い長い眠りから覚めた神様は、世界を見て愕然としました。
4つの国は、それぞれ発展し、順調に人口を増やしていったのですが、それと比例して世界の歪みも大きくなっていたのです。
暴力、競争、差別、欲望...様々な悪が蔓延る世界に、神様は大変お嘆きになりました。
愛するわが子の為、すぐにでも悪を浄化しなけらば。慈悲深い神様はそう思いました。しかし、力をゴキブリ一族に奪われたままの神様には、浄化するだけの力がありません。
そこで神様は残った力で、心が清らかな乙女を聖女として目覚めさせ、その聖女に世界の浄化の役目を与えました。
聖女の力は心の浄化。私たち聖女は皆の心から、悪を取り除いていたのです。…まぁ、その力を利用して好き勝手やっていた阿婆擦れもいましたが…まったく。力を奪われた今の神様には、何百年に一度しか使えないのに…あぁ、ごめんなさい。はなし、戻しますね。
何十年、何百年と神様と聖女は浄化活動をしてきました。けれど、悪はこの世界からなかなか消えません。
人間は心の弱い生き物です。心から悪を浄化しても、またすぐに新しい悪が生まれてしまうのです。
神様は思いました。
この世界から完全に悪を浄化することは難しい。と。
色々と悩んだ結果。
神様は新しい世界をつくることにしました。
暴力、競争、差別、欲望...それらの悪が存在しない、みんなが幸せに暮らしていけるような素晴らしい世界を。」
※※※
夢物語のような話を語り終えた聖女は、にっこりと微笑んだ。
「さぁ、エリザベータ様。その新しい世界に旅立つ時がやってきました。」
それを聞いて、私の脳裏には”時間切れ”という残酷な単語が浮かんだ。
助けに来る気配が一切ない今の状況で、それはまずい。焦る私をよそに、笑顔のままの聖女は懐からあるモノを取り出した。それを見て、ぐるぐると駆け回っていた思考がピタリと停止する。
聖女が手にした掌サイズのそれは、シャンデリアの光を受け止めギラリと輝く、2本の銀製のナイフだった。
「エリザベータ様はこちらをどうぞ。」
まるでお菓子でも分け与えるかのような軽い口調で、聖女は2本のうち1本のナイフの柄の方を私に向けて差し出した。
一瞬、刺されるかと思った。だがそうなると、私にナイフを差し出す意味が分からない。
ナイフと聖女の顔を交互に見て困惑している私の様子に、聖女は笑みを深めた。
「新しい世界に旅立つ為には、この悪に当てられた身体から魂を切り離す必要があるんです。」
意味が分からない。
分からないのに。分かりたくないのに。
私の頭は、勝手に最悪な未来を描いてしまう。
「新しい世界に行けるのは、清らかな魂だけ。名残惜しいですが、この身体は、この世界に置いていきます。」
今まで石像のように微動だにしなかった大勢の人々が一斉に動き始めた。
彼は聖女と同じようにフードの懐から、銀製のナイフを取り出し、隣と向かい合い始めた。ちょうど2人組になるように。
そして彼らは、手にしたナイフの矛先を、向き合った相手に定めた。正確には、相手の胸の中心へと。
身体中から体温が消えていく。
この異様な空間から逃げ出したくて、助けて欲しくて、胸の中に居る殿下の身体を強く抱き締める。けれど、その身体は氷のように冷たくて――――――
涙が溢れ出した。
「怖がる必要なんてありませよ。痛いのは一瞬です。」
違う。そうじゃない。
まるで泣きじゃくる子供を慰める母親のような、優しい声音と表情を浮かべる聖女にそう伝えたいのに、言葉が喉でつっかかって出てこない。
そうとは知らない聖女は、ナイフを持ったままの手で私の涙をそっと拭う。
そして、その反対の手で、私から殿下をベリッと引き剥がした。まるでゴミ箱にでも捨てるかのように乱雑に。
その接し方の温度差に頭がおかしくなりそうになって、殿下が胸の中に居なくて心細くて、また涙が溢れ出した。
「……貴女、おかしいわ。」
思わず口にした情けないほど弱々しい言葉に、聖女はカラッと笑った。
「そうなんです。私、おかしいんです。もうとっくの昔から壊れた人間なんです。」
そう言って、祭壇の上に身を乗り上げ膝立ちなった聖女は、爛々と煌めく瞳で私を見下ろした。
「でもね、エリザベータ様。そうさせたのは、この世界なんですよ?」
「―――」
どうして私は一瞬でも自分が優位に立てるかもしれないなんて、思ってしまったのだろう。
立てるわけないじゃないか。
こんな……自分の狂気に気付いているのに、それに対して何の罪悪感も感じていない人に。
何を言ってもきっと根っこまでは響かない。最初から私が出来ることなんてなかったのだ。
ーーー気付けば。
私の両手には銀色に輝くナイフが握らされていた。
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