私は貴方を許さない

白湯子

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第9章「愚者の記憶」

147話

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アルベルトside


エリザと出会ってから3年の月日が流れた。
あの日以来、叔父は僕との約束を守り、定期的にエリザの様子を僕に報告してくれる。その報告によれば、母親である毒虫の教育は緩和されて、エリザは穏やかな日々を過ごせているらしい。

この報告を受けた時はにわかに信じられなかったが「これ以上、行き過ぎた教育を続けるのであれば、法的措置をとることもやむを得ない。」と、叔父が毒虫に対して厳重注意の指導を行ったそうだ。
流石の毒虫も、叔父に直接言われてしまえば、従わずにはいられない。

命令以上のことは絶対にしない叔父が、エリザの為に動いたのは意外ではあったが、虐げられている少女を見ていくうちに何かしら心境の変化があったのだろう。

やはり、叔父にエリザを任せたのは正解であった。
時折、母のお茶会に参加しているエリザを見かけるが、初めて出会った時のように泣いている様子はない。
同年代の子達と談話をしながら、楽しげにお菓子を頬張っている姿はまるで頬袋にどんぐりを詰め込むリスのよう。淑女には程遠いが、エリザの場合はそれでいい。君はそうやって笑っているだけでいいんだ。

世界が僕の思い通りに回ってゆく。

……はずだった。


◈◈◈◈◈



「――あと今夜は閨教育の実技がありますので。」
「…は?」


底冷えのする13歳の冬の朝。
僕の安寧した日々に、不躾にも叔父が小石を投げつけてきた。


「…その件については、指南書だけで充分だって言ったはずだけど。」


僕はいつものように今日の予定を淡々と話す叔父の声に耳を傾けていた。だが、最後の最後に叔父が放った小石のせいで、僕の機嫌は急降下した。


「陛下の意向ですから、無視は出来ませんよ。」
「ラルフは僕に父上の意向に黙って従う人形になれと言っているの?」
「そういう訳ではありません。」
「なら…」
「ですが、この件に関しては殿下だけの問題ではないのです。」
「…。」
「この帝国の運命をも左右する問題だということを、貴方なら重々承知しているはずですよ。」
「……。」


取り柄といえるような産業や資源が少ないこの雪国では魔力の存在が必要不可欠だ。特に神の血を引く僕ら皇統が途絶えてしまえば、このノルデン帝国は崩壊し、民は悲惨な末路を辿るだろう。
だからこそ、皇族直系の子孫を次世代に滞りなく残す為に、閨教育の存在が重要視されているのだ。

僕は長い溜息を吐き出した。


「……分かったよ。」


気は進まない。だが父の機嫌を損ねる方が面倒だ。ここは大人しく従うふりをしておこう。
僕が渋々了解したのを見て、叔父は満足そうに眼鏡を押し上げた。


「その答えを聞けて安心しました。もし、それでも嫌がる様でしたら、私が指南する予定でしたので。」
「…笑えない冗談はやめて。」
「冗談?私はいつでも本気ですよ。」
「そこは冗談だと言って欲しかった。」


叔父の真面目過ぎる性格は長所であり短所だ。朝からどっと疲れた僕は背もたれに寄りかかった。


「それでは私は今夜の準備をしてきますので。」
「あ、ちょっと待って。」
「はい?」


執務室を出ていこうとする叔父を引き止める。


「前に頼んだアレのことなんだけど。」
「あぁ。順調ですよ。早くて今日か明日には完成するかと。」
「そう。完成したら直ぐ持ってきてね。」
「御意のままに。」


そう言って叔父は執務室を後にした。



◈◈◈◈◈



「殿下。今夜はよろしゅうございます。」


この世界は不思議なもので、気が進まないことが先に待ち構えている時に限って、早く時間が進むのだ。

ベッドの上で三つ指をついて頭を下げている女性は、僕の指南役だ。
叔父いわく、そこそこ身分のある女性で、現在は寡婦。自分の立場をしっかり理解しており、僕との関係はこれっきり、らしい。
よくまぁ、こんな指南役のお手本みたいな人を見つけてきたなと思いながら、僕は頭を下げたままの指南役を静かに見下ろした。

波打つ艶やかな赤髪に、薄い生地のネグリジェが張り付いた豊満な白い肢体。
まるで脳味噌が下半身で出来ているような雄の下卑た妄想を具現化したかのような女性だ。


「顔、上げていいよ。」


僕の許しを得た指南役は、ゆるりと顔を上げ、うっそりと微笑んだ。
貴婦人らしく上品に細められた瞳の奥には、ちらりと淫靡さが顔を覗かせている。
喪に服している未亡人というよりも、これは…


「どうかされましたか?」


黙ったままの僕に指南役は不思議そうに首を傾げる。その際に指南役の豊かな髪がさらりと肩から落ち、強めの薔薇の香りが僕の鼻先を掠めた。


「…いや。やっぱり閨教育を受ける必要は無さそうだなと思ってね。」


叔父が選んだ人材どいえど、やはり見知らぬ人間と同じベッドの上で座っているのは、気分のいいものでは無い。
僕の拒絶に、指南役の女性は困ったように眉を下げた。


「わたくしは、ラルフ様から貴方様のことを任されております。ですから、このままでは帰れませんわ。」
「ラルフには僕の方から上手く伝えておくよ。滞りなく授業は終わったって。」
「ですが…」
「大丈夫だよ。指南書の内容は全てここに入っているから。」


コンコンと自身の頭を小突いてみせると、指南役は困り顔のまま首を横に振った。


「いえ。指南書には大切なことが欠けているのです。」
「へぇ…。一体何が欠けているの?」


僕が指南書を読んだ時には、欠けているとは感じなかった。だからこそ、指南書に目を通すだけで充分だと思ったのだ。
僕の問いに指南役は上品に微笑んだ。


「愛ですわ。」
「…。」


思わず半目になる僕に構わず、指南役は語りを続ける。


「性交とは生殖目的だけのものではありません。パートナー同士の理解をより一層深める大切なコミュニケーションなのです。」
「…。」
「ですが、そこに愛がなければ性交はただの暴力です。この世界には快楽を得る為だけに女性を道具のように扱う殿方が大勢いらっしゃいますが、殿下にはそうなって欲しくありません。是非ともこの閨教育を通じて、未来の妃様と共に愛を育んでいただきたいのですわ。」
「………。」
 

指南役の語りはあまりにも抽象的で、あまりにも漠然としすぎていた。
僕は片手で顔を覆い、深い溜め息を吐き出した。


「……貴女に少しでも期待した僕が馬鹿だった。」
「あら、一体ナニを期待していたのです?」


貴婦人らしからぬ下卑た笑みを浮かべた指南役に、僕は指の隙間から睨みつけた。


「おめでたい頭の貴女に教えてあげる。この世界に愛なんてものは存在しない。」
「存在しないだなんて…。そんな悲しいことを、どうして言いきれますの?」
「愛を司る器官が存在しないからだよ。」
「きかん?」


人差し指を顎に当てて頭の上にクエスチョンマークを浮かべている指南役に、僕は溜息混じりで説明を始めた。


「今、僕は貴女と話していて、物凄い不快感を覚えている。」
「もしかして…わたくし、嫌われています?」
「それは感情を司る器官である前頭葉が正常に働いているからだ。」
「あらあら…。無視されてしまいましたわ。」
「だが、愛にはそういった器官が存在しない。だから―」
「ありますわ。」


食い気味に、妙に芯のある声を発した指南役は、僕に向かって挑戦的な笑みを浮かべた。


「…何処に?」
「ここです。」


そう言って指南役は自身の胸に手を当てる。


「愛は司る器官は、心でございます。」
「馬鹿馬鹿しい。」


僕は吐き捨てるように言った。
母もそうだが、どうして女性という生き物は幻想に囚われがちなのだろうか。
話が合わなくて、頭が痛くなる。


「…ふふっ。」


唐突に、俯いた指南役は口元を手で押さえながらクスクスと笑いだした。


「何がおかしい。」


一通り笑い終えた指南役は、ゆっくりと顔を上げる。その顔には人を憐れむような笑みが浮かんでいた。


「いえ…。殿下は随分と人の心を軽んじていらっしゃるな、と思いまして…。」
「それがどうした。」
「ふふっ。そのままですと、いずれは心に足元をすくわれてしまいますわよ?」


指南役の忠告めいた言葉に、思わず口から嘲笑がこぼれる。


「存在しないものにどう足元をすくわれるのか、是非とも体験してみたいね。」
「……。」


指南役のよく回る口がようやく閉じた。僕は指南役から壁掛け時計に視線を移す。……無駄な時間を過ごしてしまった。だが、いい時間稼ぎにはなったかもしれない。そろそろ指南役を帰らせて、今日は早く寝てしまおう。

そう思った次の瞬間、僕は天井を見上げていた。


「…みーんな、最初は同じようなことを言うんですよ。」


視界に、うっそりと微笑む指南役の顔が映り込む。


「高貴なる魂を持った我は性に屈しないーとか、穢れた手で触るなーとか、指南書だけで充分だ、と、か…。」


遅れて気が付く。僕が指南役に押し倒されていたことに。


「さぁ、わたくしが教えてあげましょう。世界はもっと単純だということを。」


手入れが行き届いた指南役の指が、僕に向かって伸ばされた。



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