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ユリ

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最近、ユリは鷹雄さんに連れられて何かと外出する事が多くなった。
その理由をユリ本人にメールで尋ねるが、いつもはぐらかして教えてくれないので木葉にメールすると、木葉もよく解っていない様で明確な答えは返ってこない。それならとダリアにメールで尋ねると、返信すらない。セキレイさんに聞くと、彼は適当な事を言って誤魔化す。
一体、ユリは何をしているんだろう? 
射撃や乗馬の練習もよく休むし、ユリがその場にいないとつまらない。

「セキレイさん、ユリって特別枠だからこんなに外に出るんですか?」
日中、私は部屋のテーブルでセキレイさんに数学の勉強を見てもらいながら尋ねた。
「ん?まあ、そうだな。ユリは特別だから。ほら、ここ間違ってる」
真向かいの席からセキレイさんに指摘され、私は間違った箇所に消しゴムをかける。
「ねぇ、セキレイさん、特別枠って何なんですか?私達一般の献上品と何が違うんですか?」
「え?ああ、それな、特別枠は王が外出するのに合わせて連れて行かれるんだよ。だから特別枠は外に出れるんだ。翡翠、これは1か?7か?中途半端に書くな」
セキレイさんは反対側からテキストの怪しい箇所を指でつつく。
「1……7です」
私はセキレイさんの顔色を窺いながら答えた。
「じゃあ不正解」
「いえ、1でした」
「それも不正解。お前、わざとどっちにも見える様に書いたな」
セキレイさんに見破られ、私は都合が悪くて閉口する。
「……」
「ズルするな、ろくな大人にならないぞ」
「私は親の背中を見て成長しているんです」
「親って誰だ?」
「セキレイさん」
「いい度胸だな、宿題増やすぞ?」
セキレイさんの眉間に皺が寄り、私はとりあえず素直に謝る。
「すみません」
「なぁ、翡翠、ユリの事、気になるのか?」
セキレイさんがテーブルに頬杖を着き、唐突に切り出した。
「気になりますよ。ユリは私の一番の親友だし……」
私は言いながら、ユリとのキスを思い出して赤くなる。
ユリとは親友であり、少しだけそれ以上でもある。
「だし?何?」
セキレイさんにジロリと見つめられ、私は更に赤面した。
この人は無駄に顔がいい。
「どうした?顔が赤いけど、続きを言ってごらん?」
セキレイさんは相変わらず無表情だけど、目がマジで、私の思考を見透かしているようで怖い。
「い、いえ、何でもないです。セキレイさん、今晩は会食で居ないんですよね?」
「え?ああ……今日は翠の部屋で留守番するといい」
いつも留守番は鷹雄さんの部屋とだいたい決まっているのに、セキレイさんは何故か今日に限って翠の部屋を指定した。
「何でですか?私、鷹雄さんの部屋がいい」
ユリとすれ違ってばかりだったので今晩こそは会いたかった。
「ユリがいるから?」
「ユリがいるから」
私がはっきり答えると、セキレイさんは困った顔をして首を掻く。
「……なぁ、翡翠、ユリユリって、あんまりあいつに固執し過ぎるのもどうかと思うぞ?」
「何でですか?ユリは凄く優しくて、いいこです」
「それは認めるが、適度な距離をおくのも人付き合いには大事なんだぞ?」
「距離をおく人付き合いって、そこに友情はないじゃないですか」
私は噛み付くつもりはなかったが、どうにもセキレイさんの言い分には納得がいかなかった。
「親しき仲にも礼儀ありって言うだろ?」
「言うけど、ずっとユリに会えてなかったんです、今日くらい会ったっていいじゃないですか。何でそんな事を言うんですか?」
セキレイさんは昔から所有欲が酷かった。だから今回もそうなのだと思った。
「お前が傷付くからだよ」
「傷付く?私がユリに会うと傷付くんですか?ユリは私に手を上げたりしないし、私が寝ている時に悪戯したりしません」
私は珍しく少しだけ頭に血が上った。
「そうじゃあなくて、献上品なんていずれ必ず離れ離れになるんだ。深入りしてお前が傷付くのが心配なんだよ」
セキレイさんは私を宥める様に私の手を握ったが、何かに気付いた様子でそれをすぐに放す。
「ごめん、セクハラした」
セキレイさんは私に初潮がきてからずっとこの調子だ。過度な接触を避けている。セキレイさんも、私に深入りして傷付くのを恐れているのかもしれない。
「それは……解ってます。私が側室になれたとしても、なれなかったとしても、ユリともセキレイさんとも離れ離れになるのは解ります。だから、それまでに、少しでも長くそばにいたいんです。私はセキレイさんとは考えが違ってて、おかしいのかもしれません」
好きな人と少しでも一緒にいたいと思うのは不自然な事なのだろうか?
「翡翠……それは俺にも解る。俺もお前とは四六時中一緒にいたいし、離れ離れになるのは辛い。でもユリの場合は少し事情が違っていて……お前、ユリの気持ちには気付いているのか?」
「え、ええと……何の……事ですか?」
突然の勘ぐりに私はあからさまに動揺した。
セキレイさんはどこまで知っているんだろう?
私がユリとキスしたと知ったら、セキレイさんは何を思うのだろう?
セキレイさんは独占欲の塊だからユリ相手でも餅を焼いたりするのだろうか?
でもセキレイさんは大人だから、そんな事、きっとない。
「いや、気付いていないのならそれでいい。でもあまりユリを挑発するなよ」
『いいな?』と念を押され、そもそもセキレイさんは何の心配をしているのだろうと不思議に思った。
「挑発って、ユリは女の子で、友達なのに、セキレイさん、おかしいですよ。や、ヤキモチですか?」
私がギクシャクと冗談ぽく尋ねると、セキレイさんが──
「俺がお前にヤキモチを妬いたらおかしいか?」
──と、あまりにも真摯な目で此方を見てくるものだから、私は心臓が激しく脈打つのを止められなかった。
何だろう、胸が熱くて、痛いくらい脈打ってる。心臓発作でも起こしてしまいそう。
「──なんて、俺は子供相手にヤキモチなんか妬いたりしないよ。娘が変なのに引っ掛からないか心配なだけだ。少しは親心も理解してほしいもんだね、翡翠」
そう言ってセキレイさんはベランダに煙草を吸いに出たが、私の心臓は未だ直接バチで叩かれているみたいに鼓動を刻んでいる。
びっ……
……くりした。
最近はあまりセキレイさんと触れ合ったりしていないせいか、彼のこんな何気無い言葉の一つにドキドキしてしまう。
私は子供だからきっとセキレイさんにからかわれて、転がされているんだ。
早く大人になりたいなと思ったが、皆と離れるのが辛くて今のままでいいとも思った。

その夜、私は会食に出向いたセキレイさんを見送り、翠の部屋に行くと見せかけて鷹雄さんの部屋を訪れる。
少し後ろめたい気持ちもあったが、しばらく見ていなかったユリの顔を見たくて心を踊らせていた。
部屋に入ってみるとダリアがソファーでテレビを観ていて、ユリだけが私を熱烈に歓迎してくれた。
「翡翠!来てくれたんだ!凄く会いたかったよ」
ユリは私を見るなり力強く抱き寄せ、私の首筋で私の匂いを嗅ぐ。
お風呂には入ったけれど、こうしてユリに直接クンクンされると何だか恥ずかしい。
「翡翠の匂いだ」
ユリはとても嬉しそうに笑い、私もつられて微笑んだ。
「ユリ、みっともない事しないでよ」
今日のダリアはいつにも増して機嫌が悪い。
「はいはい、私と翡翠はお茶を淹れるから、ダリアは木葉に連絡して呼び寄せて」
ユリはそう言って私をキッチンに引っ張った。
「なんで私が」
リビングから不満の声があがったが、ユリはそれに反比例して上機嫌だ。
「ほんと、いつぶりかな、凄く久しぶりに感じる」
ユリは改めて私を抱き寄せ、その感触を堪能する。
「大袈裟だよ、ユリ、2週間くらいだよ?」
私はいつも通りを装っていたが、心の中ではユリと同じくらいテンションが上がっていた。
「2週間、凄く凄く長く感じた、もう会えないかとも思った」
いつも明るいユリが少しだけしんみりして、私は何事かと彼女の顔を凝視する。
「ユリ、痩せたね」
ユリの顔はたったの2週間でだいぶ頬が痩けていて、精悍で妖艶な雰囲気を纏っていた。こうして肩を並べていると、彼女は前より身長も伸びた気がする。髪も1つに括って肩に掛けてあり、露出したうなじから鎖骨までのラインがとても美しくて色気が香ってくるようだった。
ユリは服を着ているのに、私は何だかドキドキして目のやり場に困り、彼女越しにシンクの汚れを見つめる。
「ユリ、外って大変なの?」
ユリは外で何かハードな仕事でもかせられているのか、私はとても心配だった。
「別に、何ともないよ。ただ、翡翠に会えないのが辛い」
「わ、私も、寂しい……」
ユリに熱視線を向けられ、愛の告白でも受けている様で物凄く気恥ずかしい。
「ね、翡翠、約束は果たすから」
ユリは私の耳元で吐息混じりに話し、私は感じるやらこそばゆいやらで内容が全く入ってこなかった。
「ユリー!お茶まだぁ?」
いつの間にか合流した木葉がリビングから声をあげ、私はユリと緊張から解放され、肩の力が抜ける。
ユリって……グイグイだ。

久しぶりにいつものメンバーがテーブルに介し、皆でお茶片手に恋愛ドラマを視聴していると、若い男女のキスシーンからのベッドインが始まり、話題は自分達の指南の話に至った。
「ねぇ、翡翠はセキレイさんにどこまで指南してもらった?」
ユリが興味津々で隣から私を覗き込む。
「え、指南って、性教育の事?」
私はいまいち『指南』というものが何なのかよく解っていなかったが、ざっくりと保健の授業か何かだと思っていた。
「夜の手引きの事だよー、これで、王様を手玉に取るテクニックを学ぶんだよー」
木葉が得意気に語ったが、それでも私はピンとこない。何故なら、セキレイさんは人知れずマニアックなAVは観るくせに、そういった夜に関する教育には後ろ向きなのだ。
「絵本は読まされてるよ」
「絵本!?」
皆声を揃えて驚嘆し、天然記念物でも見る様な目で此方を凝視するので、私は変な事でも言ったかなと弱気になる。
「え……ぅん、コウノトリとか、キャベツ畑のやつ」
「あんたまさか、それ信じてるんじゃないでしょうね?」
ダリアに突き詰められ、私は完全に気圧された。
「信じるとか、信じないとか、そんなんじゃあなくて、特に……疑問にも思ってなくて……指南て、本当は何をするの?皆は鷹雄さんや翠から何を教わってるの?」
「私はまだAしか教わってなーい」
私は、木葉が言う『A』が解らずユリの方を見ると、ユリは『キス』の事だよとウィンクして教えてくれた。
「キスを教わるの?でも、あれってただ口を合わせるだけでしょ?」
そんなもの、恋愛ドラマを見ていれば簡単に学べる。
「あんた、ほんとお子ちゃまね!」
ダリアに高笑いされ、私は無知が恥ずかしくて身を縮めた。
「翡翠、ディープキスはね、口の中で舌を絡ませたり、吸ったり、時には甘噛みしたりするんだよー」
歳の近い木葉に教えられ、私の面子は丸潰れだったが、それを忘れさせるくらいのカルチャーショックを受ける。
テレビ画面で、ベッドでイチャイチャしながらキスをしている男女を見て、よもや口の中でそんなバトルが繰り広げられているなんて驚きだった。しかもそんなハードな事を木葉があの爽やかな翠から教わっているなんて!
「翠が口頭で、そんな事を指導してくるなんて……」
翠のイメージがピンクに色づき、聞いているこっちが恥ずかしくなる。
「何言ってんの、実地に決まってんでしょ?馬鹿ね」
「実地っ!?」
私はダリアの言葉に耳を疑った。
実際に翠と木葉が──
あんな、あんな淡白そうな顔をして、翠は……獣だ。
想像すると私は耳まで赤くなり、ユリに『翡翠、可愛い』と頬を人差し指でツンツンされる。
「でででででも、キスって好きな人とするものでしょう?」
練習でそんな事をするなんて、絶対におかしい。
「木葉、翠の事大好きだよー!でも、献上品は王様の為のものだから、好きでなくても王様とキスしないといけないんだよ」
木葉の言葉で私は現実を思いしらされる。
そうだ、好きとか関係なしに献上品は王の所有物で、王の好きなようにされる。それは当然キスも然りだ。
なんか、嫌だなと思った。
『私は翡翠が好きでキスしたけど、翡翠はどんなつもりでされたの?』
ユリから耳打ちされ、私はひたすら恥ずかしくて返答に詰まる。
ユリの事は好きだけど、私達は同性だから、正直、あのキスをどう受け取っていいか解らない。
でもそれよりも気になったのは、セキレイさんはどうしてキスの指南を私にしてくれないのだろうという事。
もしかしたらセキレイさんも、キスは好きな人としかしない主義の人なのかもしれない。

──そう思ったら、何故か私はとても悲しい気持ちになった。

「ねー、ユリだったら、鷹雄さんから全部指南してもらったんでしょ?最年長だし」
木葉の言う通り、ユリは最年長で既に外へお務めに出ているので鷹雄さんから最後まで教わったに違いなかったが、ユリは私の方を見て表情を曇らせた。
「それは、まぁ……」
ユリが言葉を濁すあたり、触れてほしくなかったのだろう。私は気を遣ってそれ以上掘り下げなかったが、ダリアが空気も読まずにずけずけと口を挟んできた。
「特別枠のユリは鷹雄さんから本番まで全部教え込まれてんのよ?私はその知識をユリから指南してもらってるけどね?」
ダリアが自慢気に話すと、突然ユリが激昂し、テーブルを思い切り両手で殴りつける。
衝撃で茶器がガチャガチャと危うい音をたてて中身を溢ぼし、ユリ以外の全員が肩をびくつかせ、その場に緊迫した空気が流れた。
こんなユリ、初めて見た。
それに、ユリが鷹雄さんから本番まで全部教え込まれてるって、それって……
私達献上品は、王に献上されるその時まで処女を保持しなければならない。でも、特別枠であるユリは、鷹雄さんに……
それがどんな内容かは解らないけれど、私はユリをとても遠くに感じた。
ユリは私を好きだと言ってくれたけど、ユリは鷹雄さんの事をどう思っているのだろう?
もし、ユリは鷹雄さんに対して好きっていう感情が無いのであれば、キス以上の練習をするのは辛かったんじゃないだろうか?
それに、ユリがダリアに指南しているとしたら、ユリはダリアともキスやキス以上の事をしているという事だ。それどころかユリは、王の遠征に同行してお務めを果たしているとなると、王とも本番というやつをしている事になる。ユリは、誰とそんな事をしても、平気なんだろうか?
私だったら、心が壊れてしまう。
私が横目でユリを盗み見ると、ユリは疲れた顔をいつもの明るい表情に取り繕った。
「ごめんごめん、最近カルシウムが足りてなくて。それとも更年期かもね」
作り笑顔で無理して笑うユリが痛々しくて、私はテーブルを片付けるユリの手伝いをかって出る。

何事もなくまたテレビ観賞を始める2人をよそに、私達はカーテンを挟んだキッチンで洗い物をしていた。
「悪いね、翡翠」
ユリが茶器を洗い、それを私が布巾で拭いていく。
「いいよ、ユリ、疲れてるでしょ?早く片付けて、早く寝た方がいいよ」
私は綺麗に水滴を拭き取った茶器を水切りカゴに並べる。
「ありがとう、翡翠。翡翠は優しいね。最初に翡翠を見た時から、この子は人の痛みの解る子だって思ってた」
「私、そんなんじゃあないよ。セキレイさんにはよく噛み付いていたし」
「そうだっけね」
私が肩を竦めて笑うと、ユリもにこやかに笑い返してくれた。
良かった、いつものユリだ。
そう思うと、さっきまでの私の緊張もだいぶ和らぐ。
「ねぇ、翡翠、翡翠はさ、さっきのダリアの話を聞いてどう思った?」
ユリから控えめに発せられたその言葉を聞いた瞬間、私の背中に再度緊張が走る。
だってユリ、その話をされるのイヤなんじゃあなかったの?
どうして自分から?
なんで私に?
私は変な事を言ってユリを怒らせたくなくて、慎重に言葉を選んだ。
「えっと、ユリ、大変だなって」
私は無難な言葉を選んだつもりだったが、ユリがキュッと蛇口を閉めた音に肩が敏感に反応する。
「翡翠は、私が他の身近な人とキスやそれ以上の事をするの、イヤじゃないの?」
「え?それは……」
考えてもみなかった。ユリの心情に自分のものを重ねて彼女を不憫には思ったが、本人に対しての他意は思いもしなかった。
「翡翠は、もし私がセキレイさんとキスしたらどっちにヤキモチを妬く?」
ユリが挑発的に笑って私の顎を掴み、親指で私の口をこじ開け、そのまま顔を寄せてキスしたかと思うと、ニュルニュルと私の中に舌を滑り込ませ、私の舌を絡めとり『ディープキス』とかいうのを実践してきて、私は驚いて持っていた皿を手放した。
「おっと」
ユリは反射的に私が落としかけた皿を片手でキャッチし、水切りカゴに入れる。
「ごめんね、翡翠、驚かせちゃったね。私も余裕が無くてね。でもね、翡翠、私はもし翡翠がいずれセキレイさんとこんな風にキスするかと思ったら凄くイヤなんだよ。勿論、私にはそれを止める権利もないし、色んな人と肌を重ねている私が言えた立場ではないんだけど、翡翠も私と同じ気持ちだったらいいなって思ってる」
ユリは言いながら私の髪に触れ、そこに自分があげた髪留めがない事に気付く。
「髪留め、気にいらなかった?」
ユリが伏し目がちにこちらを流し見て、私はその色気に圧倒された。
ユリはとても綺麗で、ドキドキする。でもこの気持ちがユリの言っているものと同じかどうかは解らない。
「あの髪留めは凄く気にいってるんだけど、セキレイさんが、部屋以外では付けちゃいけないって言うから……でも、部屋ではいつもつけてるんだよ」
私はユリを悲しませたくなくてフォローに力を入れたが、彼女は、私がプレゼントをあまり使っていない事よりも、違う方に意識がいっているようだった。
「へぇ、セキレイさんてあんなにクールそうでいて独占欲が強いんだ。案外、私からの宣戦布告に気付いてヤキモチを妬いているかもね」
ユリは強かに笑ってもう一度私に顔を寄せてきて、私はまたキスされると思い、覚悟を決めてギュッと瞼を閉じる。
「翡翠、可愛い」
クスクスと耳元でユリに笑われ、私は彼女にからかわれたのだと思って涙目で下を向く。
「ねぇ、翡翠、セキレイさんがイロイロ教えてくれないなら、私が代わりに教えてあげようか?」
「え?」
私が驚いて顔を上げると、ユリの扇情的な眼差しと視線がかち合った。
ユリって、こんな狼みたいな眼をしていたっけ?
「翡翠、セキレイさんから子供扱いされてるからキスも教えてもらえないんでしょ?」
ユリは私の心を読む様に痛いところをピンポイントでついてくる。
「そう……だけど」
ユリの言うことは、多分、当たっている。
私は、皆みたいにセキレイさんから指南してほしいけれど、今の私はセキレイさんに子供扱いされていて相手にもされない。
「翡翠も思春期だから、皆が調教師からどんな指南を受けているか気になるでしょ?」
言われながらユリに耳朶を指で弄ばれ、私はくすぐったいような、おもはゆいような曖昧な感覚にとらわれ身を竦めた。
皆、こんな事を調教師から教わっているのかと思ったら、少しだけ妬ましかった。
なんで私だけ……
セキレイさんはこんな事、絶対にしてくれない。
「鷹雄さんはね、いきなり最初から、キスと平行して耳朶から愛撫を仕掛けてきたんだよ」
『こんな風にね』
──とユリはディープキスしながら私の耳朶を指でなぞったり弾いたりして『愛撫』というものを実践してきて、私はその初めての感覚に翻弄され、腰を抜かした。
「おっと」
ユリに力強く引き上げられ、今度は首筋にディープキスされる。
ナメクジにでも這われている様な妙な感触がして、私の肌がゾワゾワとあわ立った。
こんなの知らない、何これ……
この初めての快感をセキレイさんにしてもらったらと思うと、私の胸は高まった。
もっと知りたい。
「翡翠、可愛い」
ユリが息を乱し、私の肩甲骨を強く吸い上げる。
「ユリ、何をしているの?」
チクリと刺す様な痛みがした後、ユリが顔を上げて微笑んだ。
「エッチ」
私が熱に浮かされ潤んだ瞳でユリを見つめていると、彼女は一瞬狂おしそうに眉をひそめ、私の頭を胸に抱く。
「翡翠、私ね、お務めで鷹雄さんと戦場に行ってるの」
「戦場?」
初耳だった。
ユリが王の遠征に同行しているのは知っていたけれど、それが戦場だったなんて思ってもみなかった。
「うん……鷹雄さんは王様付き軍医だから、元々よく同行してて、私は、特別枠の献上品として遠征先での王様のお戯れに対応してる。王様はその地の戦況を把握する為に長く戦場に駐留したりするから、私はその際の慰めや、もしもの盾になるの」
「盾って……」
「うん、いざとなったら身代わりになるの。だから、毎回ここを出る度に、2度と翡翠に会えなくなるんじゃないかって悲しくなるの」
私を抱くユリの腕に力が込められ、私はユリの硬い胸板で息が苦しかったが、彼女の悲しみを思い、じっと我慢した。
「私、本当は遠征になんか行きたくない。王様に抱かれるのも嫌!翡翠とずっと一緒にいたい、翡翠にも側室になってほしくないし、翡翠がセキレイさんと一緒にいるのも嫌!」
ユリはいつになく感情的になり、語気が強まっていた。
「ユリ……」
ユリは私を好きだと言ってくれたけど、そんな風に思っていたなんて……
私はユリの愛情の深さを知る。
「私は遠征でずっと翡翠の事ばかり考えていて、王様に抱かれながら、もしかしたら今頃翡翠はセキレイさんから指南を受けているかもしれない、王様が私にするように、セキレイさんから愛撫を施されてるかもしれないって思ったら、もう……気がおかしくなりそうで……」
あまり自分を見せないユリが、私の頭の上で声を震わせていて、私はそんなユリが可哀想でならなかった。

その後、私はセキレイさんがお迎えに来る前に木葉と翠の部屋に戻り、そこから迎えに来たセキレイさんと部屋に帰った。
「お利口にしてたか?」
セキレイさんに後ろから頭を撫でられ、私はセキレイさんの言いつけを守らなかった罪悪感でギクリと心臓が浮く。
「う、うん」
歯切れの悪い返事をしてしまったが、セキレイさんにはばれていないようだ。
「はぁ、おフランスだなんだって堅苦しくて、全然食べた気がしなかった。ワインも、古くていい物らしいけど、渋くて飲みづらくてやけに酔いが回った」
セキレイさんはジャケットを脱いでベッドに放り、タイを緩めてシャツのボタンを上から3つ外す。
「苦し、暑いし、目が回る」
セキレイさんがベッドに身を投げると、骨ばった鎖骨と胸筋が垣間見え、大人の男の色香が漂ってきた。
私はユリとの事もあってか、何故かとてもセキレイさんを性的に意識してしまってドキドキする。
こんな事、初めてだ。これが思春期というもの?
「翡翠、ちょっと来い」
『来い来い』とセキレイさんに手招きされ、私がベッドの傍らに立つと、いきなり彼に腕を掴まれ、私は跳び上がる。
「な、何ですか?」
「脱がせて」
「は?」
この人いきなり何を言っているんだ?
「いずれ王の衣服を脱がせて差し上げる事もあるかもしれないんだ、練習しておけって事」
ここで私はははーんと思った。
「セキレイさん」
「んー?」
「酔っぱらって面倒くさいだけでしょう?」
「うん。でも脱がせて」
やっぱり!
「もうっ!手のかかる調教師ですね!」
それでも、普段から人に任せられない質のセキレイさんが私に甘えてくれる事が嬉しかった。ついでに酔っぱらって乱れているセキレイさんを見るのも新鮮でちょっと楽しくもある。
私はセキレイさんのシャツのボタンを全て外し、前合わせをはだけさせた。
「あ……」
これは駄目だ。いかがわしい。
セキレイさんの半裸なんて特に意識した事はなかったが、程よく付いた筋肉が少し汗ばんでいて、彼が息を上げる度にそこが上下してイヤらしく見えた。私には何でかそれが見てはいけないものに見えてしまって目のやり場に困る。
「翡翠、脱がせて」
二の足を踏んでいる私にセキレイさんが業を煮やし、私の両手にシャツの前合わせを持たせる。
「ええと……」
私の腕を掴むセキレイさんの手も、不意に触れた彼の生の胸板も、熱くて、硬くて、逞しくて、私は大人の男の人と同居していたのだと今更ながら思い知った。
「どうした?」
私が固まっていると、セキレイさんは体を横にして片肘を着く。
「どうしたもこうしたも……」
そんな体勢にされると、物理的にも脱がせづらいし……
だって、それに、ズボンも脱がせないといけないとなると、どうしていいのやら。
「じゃあベルトを外して、チャックを下げて」
セキレイさんに目線で合図され、今度は手をベルトに持っていかされた。
上目遣いで挑戦的に見上げてくるセキレイさんは凄く意地悪で、とにかくいやらしい。
私はさっきから顔から火が出そうで、ずっと体が熱く火照っていた。
「で、出来ません」
私はついぞ根負けし、項垂れてベルトから手を放す。
だって、ベルトはいいとして、チャックは、必ずセキレイさんのセキレイさんに触れてしまうじゃあないですかぁ。
もう、恥ずかしくて死ねる。
「いいや、上出来だ。風斗は何も知らない不慣れでいたいけな少女が好きな変態だからね。お前は無知で可愛いままでいいんだよ」
セキレイさんにそう言われて頬を撫でられ、私はまたしてもからかわれたのだと思ってちょっとむくれた。
「わ、私だって、キスくらい知ってます!凄くエッチなやつ」
本当はこんな事を言うつもりはなかったのに、セキレイさんに子供扱いされるのがどうにも悔しくて、考えるより先に口をついて出てしまった。
「へぇ、いつ、何処で、誰と、どんな?ここで俺にしてみせてよ」
セキレイさんは全く信じていないのか、嘘だとたかをくくってニヤニヤ笑っていて、それもまた私の反抗心に火を着ける。
「ほ、本当にしますからね!本当の本当にしますからね!後悔したって知りませんよ!?」
私は威勢だけは一丁前だったが、実際は腰が引けていた。
「早く」
急にセキレイさんが真面目になり、私はやりにくさに拍車がかかる。
「~~~~目を閉じるのがマナーかと……」
私は、思わず発した言葉が変に上ずって、もう、穴があったら入りたかった。
「翡翠、目は直前で閉じるのがスマートだよ」
悔しい!どうせセキレイさんは経験豊富で、余裕のある大人なんだ!私を馬鹿にして──
そこでふと私は気付いてはいけない事に気付いてしまう。
セキレイさんはやっぱり、瑪瑙さんとキスとか、キス以上のいやらしい事をしていたのかな?
私は、これまで以上にとても悔しい思いに押し流され、それから姿なき瑪瑙さんに物凄く嫉妬した。
「どうした?翡翠、怖じけづいた?」
唇を噛み締める私を見て、セキレイさんは楽し気に私の頬に指でちょっかいを出す。
ほら、やっぱりセキレイさんは本気じゃない。私をからかってた。
セキレイさんに相手にされない事がとても悲しい。
「セキレイさん」
「んー?」
「セキレイさんて、瑪瑙さんが私くらいの時には、瑪瑙さんにキスの指南をしてたんですか?」
「……」
セキレイさんはさっきまで上機嫌だったのに、急にばつが悪そうに黙りこくる。
……やっぱり、そうだよね。
沈黙は肯定を意味していた。
「瑪瑙さんと、その……エッチな手引きもしてたんですか?」
故人の事をあまり赤裸々に聞いてはいけないのは解っていたけれど、私は気になって仕方がなかった。
こんな事、今まで1度も気にならなかったのに。
「……なくはない」
「……」
自分で聞いておいて、私はとてつもなくショックを受けた。調教師が献上品に指南するのは当たり前の事なのに、自分だけがセキレイさんに相手にされていないようで、悔しくて、悲しくて、瑪瑙さんが妬ましくてどうにかなりそうだった。しかも瑪瑙さんを愛していたセキレイさんは、調教師と献上品という枠を越えて、指南なんて無粋な行為とは違った愛のある行いをしていたのだ、私は瑪瑙さんの足下にも及ばない。
「……」

なんでこんなにも心が苦しいんだろう。

「セキレイさん、皆は私をおいて色々指南を受けているのに、セキレイさんは何で私に指南してくれないんですか?」
恨み節なんてみっともなかったけれど、口から勝手に言葉が出てくるのだから仕方がない。
「お前の魅力は無垢なところだよ。悪戯に汚して、台無しにしたくないんだ」
酔っぱらいのくせにもっともらしい事を言うセキレイさんが憎い。
「でも……」
セキレイさんとキスしたい。セキレイさんがどんなキスをするのか知りたい。怖いけど、どんな風に瑪瑙さんに口付けたのか知りたい。
「思春期であれやこれやと知りたくなるのは仕方ないけど、お前は精神的にまだ幼いんだ、キスなんて早すぎる。時がきたらそのうちちゃんと教えてやるから」
『な?』とセキレイさんに諭されたが、納得のいかない事ばかりで、私は癇癪を起こしそうになる。
「どうせまた絵本で教えてくれるんですよね?」
私はこんな自分が嫌だったけれど、セキレイさんに恨みがましく当て付けてしまう。
「翡翠、どうしたって今日は機嫌が悪いんだ?何かあったのか?嫌な事があったら何でも俺に言えよ。お前が純粋な事、ダリアにでも馬鹿にされたか?俺は純粋なお前、好きだけどな?」
最近は気を遣ってしてくれないのに、セキレイさんは酔っているせいか私をベッドに引き上げてハグしてくれた。
セキレイさんの匂いだ。
でも今は、酒臭くて、煙草臭くもある。大人の匂いをしている。
私はどうしたってセキレイさんのハグには弱くて、抗えないのだ。
「落ち着いたか?」
そう言ってセキレイさんに顔を覗き込まれたが、私は久しぶりのハグのせいで恥ずかしくて心が落ち着かない。以前はこれで穏やかな気持ちになったのに、おかしな事だ。
でももう少しこうしていたかった。
「セキレイさん、まだ酔ってるんですか?」
「俺は酔ってなんかいないよ」
「酔っ払いの常套句じゃないですか」
「ん」
「もっと飲みます?」
「いい、朝、寝坊する。お前に朝食を作ってやらないとな」
私はセキレイさんに頭をナデナデしてもらって、それだけで温かい気持ちになる。
酔いが醒めたら、セキレイさんはまた私と距離をおくのかもしれない。それが寂しい。
「……なぁ、お前、お前にも1つ聞いていいか?」
「はい」
「お前はキスした事あるのか?」
「あっ……」
セキレイさんは、私がさっき言った事が今になって気になり出したようだ。      
私がまさかの不意打ちに言葉を詰まらせると、セキレイさんも、沈黙は肯定を意味しているものと受け取り、表情を堅くする。
セキレイさん、怒ってる?
さっきは勢いで啖呵をきってしまったが、今はセキレイさんの一挙一動に体が震えた。
セキレイさんは私と共に上体を起こし、手荒に私のシャツの襟首を捲る。
「じゃあさ、まさかとは思うけど、これは虫刺されじゃあなくてキスマークって事か?」
セキレイさんは冷静に見せて、物凄く怒っていた。
「え!?キスマーク!?」
なんだ、それ!?
というか、いつの間に!?
私が慌ててサイドテーブルにあった手鏡で確認すると、先刻ユリに吸われた辺りに桜の花びら程度の赤い鬱血を見つける。
これか!
私はすぐに合点がいったが、気付くのが遅すぎた。
「昨日はなかったよな?まだ新鮮に鬱血してるし──それで?だいたい想像はつくけど、誰とキスしたって?凄くエッチなのをさ」
セキレイさんの目はいつにも増して据わっているし、声も低くて、怖い!
私は手鏡を投げ出し、自然とその場に正座した。
「あの、ええと、ごめんなさい……」
私は低姿勢で平に謝るも、セキレイさんは許してはくれない。寧ろその怒りは静かに沸々と加熱しているようにも思える。
「んで、どこまでやった?話によってはお前を処断しなければならないけど、俺はお前にキスマークをつけた相手を処断しようと思う」
『処断』とか穏やかでない単語を口にしているのに、セキレイさんはやけに淡々としていて、逆にそれが物凄く怖い。
「あの、そんなには……」
私は話があまり大きくならないよう、言葉に気を遣った。
「そんなにって?どこまで?」
しかしセキレイさんの執拗な追及は収まらず、私はセキレイさんによって後ろに押し倒され、馬乗り状態にあう。
「あの、あの、セキレイさん?」
私は蛇に睨まれた蛙の気持ちで硬直して冷や汗を流す。
「あのさ、翡翠、もしお前が王以外の誰かに処女を奪われたとしよう、そうしたら、俺はお前が成熟しても、我慢する必要はないんじゃあないかなって思うんだけど?」
『どうかな?』とセキレイさんに上から迫られ、私は怖くて首を竦めた。
私は、今にもセキレイさんに食われてしまいそうだと思った。
「セ、セキレイさん、何を言って……私、処女奪われてません」
私は恐怖もあったが、セキレイの生々しい胸筋を間近に感じてえらく緊張する。
大人の男の人だ。いつものセキレイさんとは別の生き物みたいだ。昼の生き物じゃない、夜の生き物だ。
「あ、ほんと?」
セキレイさんが存外しれっと応えたところもまた、言い知れぬ怖さがある。
「本当です本当です本当です本当です本当です!!」
私は早口で捲し立てた。
「別に、お前の体を調べれば解るけど、お前は嘘つきだからね。だってお前は俺に嘘をついて鷹雄の部屋に行ったんだろう?」
セキレイさんには全てお見通しの様で、私は、彼が私のスマホをGPSで追跡でもしていたんじゃあないかと疑う。
「あの……はい、すみません」
セキレイさんには敵わない。私は素直に服従する。
「相手はユリか?」
「……」
私はユリに申し訳なくて口をつぐんだ。
もしセキレイさんが真実を知ったら、彼はユリに何かするのだろうか?
「俺としてはユリしか思い当たらないんだけど?」
「……」
「話したくないなら話さなくてもいい、でもユリだよな?」
どっちですかっ!?
私はこの場において思わず心の中で突っ込む。
「こんな痕までつけられて、お前、抵抗もしなかったのか?」
セキレイさんは、私が口を割らなくても相手がユリだと断定していた。
「だって……セキレイさんが少しも指南してくれないから……」
ユリにキスを許してしまったのも、流されたからだけではなく、好奇心が先にたってしまったからというところもある。
「じゃあ、俺がお前に指南ていう名目のいかがわしい事をしたら、お前はユリと距離をおいてくれるのか?」
「いか、いかがわしいって、指南は指南でしょう?それに何でそんな話になるんですか?」
それじゃあまるで私が、誰かにいかがわしい事をされたくて欲求不満なみたいじゃないか。
「翡翠さ、何で俺がお前を大事に大事に純粋培養してきたか解ってないよな?」
「子供扱いの間違いじゃなくて?」
「それもある。というか、お前には極力ずっと子供でいてほしいくらいだ。それに、風斗は初々しいくらいが好きなんだ。俺の弟だからな」
「そんな、初々しいを装うくらい、私にも出来ます。それにユリは同性だし、べ、別に私が処女を失う事だってないんだから、キスくらいいいじゃないですか。それがイケナイ事だって、セキレイさんは言わなかった」
私は戦きながらも言いたい事を並べ立てた。
「距離をおけって言ったろ?なのに何で嘘ついてまで会って、キスマークつけて帰ってくるんだよ。それにお前は初々しいを装える程器用じゃない。今日、思い知ったろ」
「う……」
ぐうの音も出ない。
「あのな、翡翠、前にも言ったけど、ユリと距離をつめたところで、傷付くのはお前なんだからな」
「解ってます」
セキレイさんは、暗にユリが戦死した時の事を言っているのかもしれない。
「じゃあユリとはもう会うな」
「え?」
私は信じられないといった風にセキレイさんを下からガン見した。
「会わない方がいい。仮にお前が気をつけても、ユリに強引に迫られたらどうにもならない」
「ちょっと待って下さい、本気で言ってるんですか?」
「本気」
確かに、セキレイさんの目はヤバいくらいマジで、怖い。
私はセキレイさんの怒りのオーラに気圧されながらも勇んで抗議した。
「い、嫌だ。ユリは友達だもん!」
「でもお前はユリの事を何も解ってない」
「セキレイさんの方が全然解ってない!」
「いいや解るね。あれは美少女の皮を被った狼だ」
「そ、そんな事──」
チラッと思った。
というかそんな事より、口論している間に、いつしかセキレイさんとの距離が縮まっていて、気が付いた頃にはすぐ目の前に彼の端正な顔があった。
近っ!!
今になって私の心臓が跳び跳ねる。
「セキレイさん、ちょっと近くないですか?」
私は気恥ずかしくて、堪らずセキレイさんの胸板を押し返したが、逆に彼に体重をかけられ、手を挟まれた。
重っ!!
普段、セキレイさんは細身に見えたが、脱いだら結構筋肉質で重味がある。
「腕が疲れた」
とかセキレイさんに真顔で言われたが、それなら私の上からどいてくれればいいのにと思った。
私が挟まれた手を何とか引っこ抜き、セキレイさんの体を横に寄せようと力を込めると、突然、その腕を押さえ込まれる。
「え?」
セキレイさんに掴まれた腕は抜け出そうにもびくともしなくて、骨が軋んで痛かった。私の頭を優しく撫でてくれた腕と同じ物とは思えない力強さで、あっという間に自分の頭の上で両手を一纏めにされた。
これが、大人の男の人の力?
それにこれは、明らかに確信犯。
「また私をからかってるんですか?」
セキレイさんは私の事なんか相手にしない、そう思い込んでいた。
そう、それは思い込みだった。
なんだかんだ言って、セキレイさんは私に手を出してこないと思っていたのに、その日に限って、彼は迷わず私にキスしてきた。
一瞬、何が起こったのか理解出来ず、私はしばし目を見開いていた。
「目は直前で閉じるのがスマート」
セキレイさんはそれだけ呟くと、今度は噛みつくみたいに強引に私の唇を奪い、舌でその隙間を抉じ開けて強引に侵入してくる。
セキレイさんはどんなキスをするのだろうと想像を膨らませていた何倍も濃厚なキスをされ、私はギュッと目を閉じて嵐が過ぎ去るのを耐えた。
息が苦しい!
ユリとは全然違う!ユリとは全っ然違う!!
荒々しくて、それでいて脳髄を溶かす様に快感のポイントを押さえてくるセキレイの舌、時折セキレイさんの方に私の舌が持っていかれて、煙草っぽい彼の味がした。
これが大人の男の人のキス!?
それともセキレイさん特有のもの!?
キスでセキレイさんから自分を求められているようでとても感動的だった。でも──

こんな激しいキスを、瑪瑙さんにもしたんだ……

その事実をいざ知ってしまうと、セキレイさんにキスされて嬉しかったのに、それよりもずっと悲しくなった。
「やっぱりな」
セキレイさんはひととおり私の口の中を荒らすと、顔を上げてそんな風に言った。
「ハァ……え?」
セキレイさんは息ひとつ乱していないのに、私は熱い吐息を漏らす。悔しいけど、ここら辺もやはり、セキレイさんは大人だ。
「なあ、翡翠、いかに指南としても、こんな事をして虚しくならないか?」
「え?」
私は、さっき頭に浮かんだ瑪瑙さんの事が思い当たる。
「愛情も込められない人間相手にキスしたって虚しいだけだし、何より、お前が俺とのキスが平気でも、今したのと同じ事を王とやると思ったら辛くないか?少なくとも俺は、お前にキスしながらそんな事を考えて、スゲー嫌な気持ちになった」
そうか、そういう事もあって、セキレイさんは私に指南するのに後ろ向きだったんだ。
確かに私も、キスされながらセキレイさんと瑪瑙さんが具体的にどんなキスをしていたのか想像出来た時はとても辛かった。
「いずれはちゃんと全部指南しないといけないとは思うけど、それは直前でいいんじゃないかなって思う。キスはいいかもしれないけど、後に続くハードな事を指南したら、お前は俺を軽蔑するかもしれないし」
「セキレイさんは自分の気持ちを確かめる為に私にキスしたんですか?」
それにしたって激しかった。セキレイさんはあれで通常運行なのだろうか?
だとしたら、後に続くハードな行為がとても気になる。
「お前が献上の適齢期に入るまでやるつもりはなかったが、お前がユリにちょっかいを出されて頭にきた。だからもうユリには会わせない」
「え!セキレイさん、そんな横暴な!」
セキレイさんの横柄に抗議したが、彼は頑なにそれを突っぱねる。
「嘘ついた罰な」
それを言われると弱いけど、ユリは友達なのに、会わせないなんて酷い!
「ヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダーーーーーー!」
私は小さい子供がする様に脚をばたつかせて駄々を捏ねた。
「いい加減にしろ、凄く恥ずかしい事をするぞ?」
「凄く恥ずかしい事?」
セキレイさんが変な脅し方をするものだから、私はピタリと動きを止めて彼を見上げる。
なんか怖いな……
「お前、俺のスマホにあった動画の履歴を見ただろう?」
私はコクリと頷いた。
「あれの鬼畜シリーズは見たか?」
「タイトルくらいしか見てませんけど……」
タイトルだけ見て、それに怖じけづいて内容は見なかった。
「命拾いしたな」
フッとセキレイさんが鼻で笑い、私は逆にその鬼畜シリーズとやらが気になった。

あれからセキレイさんは私を抱いたまま眠りに落ち、私は眠れぬ一夜を過ごし、朝を迎えた。
セキレイさんは私の朝食を作ると言ったのに、無意識にスマホの目覚ましを止めて眠りこけている。
セキレイさんは、昨夜、私にあんな激しいキスをした事、覚えているのだろうか?
何となく彼と顔を合わせるのが気まずかった。どんな顔をして会えばいいのやら、他の献上品の子達は、よくあんな平気な顔をしていられるなと感心する。私はこうしてセキレイさんに抱かれているだけでも顔が火照って恥ずかしいのに……
「あの、セキレイさん」
私はそっとセキレイさんの肩を揺する。
今日は朝からマナー教室がある、朝食は諦めても、これには参加しないといけない。
「セキレイさん、セキレイさん」
なかなか起きないセキレイさんを私がぐらぐら揺すると、彼は顔をしかめて低く唸る。
セキレイさんてやっぱりかっこいいななんて、寝ているうちに彼の顔を吟味していると、いきなり彼にキスをされ、あろうことかなけなしの胸をまさぐられた。
私はびっくり仰天して全力でセキレイさんの胸板を押し返したがびくともせず、逆に脚を絡められて彼の下半身が密着し、カァッと耳まで熱くなった。
「セキレイさん!セキレイさん!」
私がセキレイさんにそのまま力強く押さえ込まれ、焦燥としてじたばたしていると、セキレイさんは微かに、でも確かに──

「瑪瑙……」

──と言った。
「セキレイさんっ!!」
私がカッとなってセキレイさんの頬を全力で殴り付けると、彼はようやく目覚め、殴られた頬を押さえてくしゃりと片目を閉じた。
「ってぇ~」
私はセキレイさんが怯んだ隙にベッドを抜け出し『ヤリチン!ロリコン!変態!鬼畜!獣!インキンタムシ!』と思い付く限りの罵詈雑言を彼にぶつけ、子供部屋に飛び込んだ。
「おい、翡翠、どうした?」
すぐにセキレイさんは鍵のかからない子供部屋のドアを開けて入って来たが、私は布団にくるまって全力で彼を拒絶する。
「出てって下さい!」
「夕べの事、怒ってるのか?」
セキレイさんは酔っていたはずなのに、昨夜の事をちゃんと覚えているようだった。
セキレイさんにピラッと布団を捲られ、私はハッとして更に身を隠す。
「セキレイさん、今さっきの事は覚えてないんですか?」
私がそう尋ねると、セキレイさんは本当に心当たりがないのか面食らった様子だった。
「え?ええと……」
無意識だったんだ。
無意識に、私を瑪瑙さんと勘違いしてあんな不埒でいやらしい事をしたんだ。セキレイさんは瑪瑙さんの事を性の対象として見ていて、実際にあんないやらしい事をしてたんだ。セキレイさんは夕べ私とキスした時も、本当は心の何処かで瑪瑙さんとのキスを思い出して、瑪瑙さんとするみたいにしてたんだ。
凄く凄くショックだった。
セキレイさんには『瑪瑙さんの身代わりでいい』と言ったけれど、こんな事になって初めて、私は自分の言葉を後悔した。

瑪瑙さんの身代わりは嫌だ。

「もういいです、今日は具合が悪いのでそっとしといて下さい」
私はそれから数日間、自分の殻に閉じこもり、塞ぎ込んだ。

私が暫く習い事を休み、日中1人で留守番をしていると、ユリから心配のメールが届く。
『何かあったの?もしかして、私のせい?』
タイミング的にユリにそう思われても仕方がない。
私はすぐにフォローのメールを返す。
『違うよ。ちょっと気分が優れなくて』
するとすぐにユリから返信がくる。
『セキレイさんと何かあった?』
私はこれに何と返事をしていいか解らず、しばしスマホの画面とにらめっこをしていると、インターホンが鳴った。
私は子供部屋から出て玄関のドアを開けると、そこにユリの姿があった。
「翡翠、心配だから来ちゃった。入れてくれる?」
ユリは笑顔で首を傾げる。
「あ、あの、うん……」
私は一瞬セキレイさんの言い付けを思い出したが、未だに彼に対する反抗心が捨てきれず、半ば当て付けでユリを室内に招き入れた。
セキレイさんはさっき外出したばかりだから、午前のうちには戻らないだろう。
「思ったより全然元気そうで良かった」
「今、お茶を淹れるね」
私がキッチンに行こうとすると『いーのいーの』とユリに腕を掴まれた。
「あの、ええと……」
キスの一件以来、ユリの事を意識してしまって、私は自然と身構える。
「翡翠は可愛いな。そんなだから、私はつい悪戯したくなっちゃうんだよ?」
「う、うん……」
私はユリに腕を引き寄せられ、彼女から見つめらるのがこっぱずかしくて視線を下に落とした。
「翡翠、イヤ?」
ユリから唐突に聞かれ、私が顔を上げると、彼女と目が合ってしまい、視線が外せなくなる。
「イヤじゃない」
ユリは綺麗だし、優しくて、親切で、親友で、大好きだから、こうして彼女がまた私にキスしても、私はそれを受け入れる事が出来た。
別に違和感はない。セキレイさん程激しいキスではないけれど、私の様子を見ながらくすぐる様に舌を入れてきて、私は思い切ってそれに応えてみる。
相手がセキレイさんじゃなくたって、私にだって大人のキスくらい出来る。
「翡翠、ヤケになってるでしょう?」
ユリが口を離し、私の痛いところをついてきた。
「またセキレイさんに子供扱いでもされた?」
「……そうじゃあないんだけど」
どうなんだろう?セキレイさんに瑪瑙さんと間違えられてエッチな事をされたけど、私本人は子供扱いされていると思う。
「じゃあ、セキレイさんに何かイヤな事でもされた?」
ユリは少しムッとした様な顔で尋ねる。
私の方は、セキレイさんにされたいかがわしい行為を思い出し、耳まで真っ赤に染めた。
「翡翠、セキレイさんに何かされたんでしょう?だから、ずっと習い事休んでたんでしょう?」
いきなりユリに両肩をがっしり掴まれ、 間近で問い詰められた。
ユリはいつも明るくて優しいのに、今は珍しくイライラしている様に見える。
ユリ、どうしたんだろう? 
私は当惑して、黙ってユリの動向を窺っていると、彼女にベッドまで腕を引かれ、そこに突き飛ばされた。
「え、ユリ?」
私が体勢を崩し、ベッドに尻を着くと、ユリは間髪入れずに私に馬乗りになる。
ユリがおかしい。
私が異変を察知して逃げ出そうとすると、ユリに両肩を力任せに押さえ込まれた。ユリの力は私よりもずっとずっと全然強くて、私は完全にホールドされる。
「ユリ、どうしたの?」
ユリの、私を見る眼差しがあまりに険しくて、思わず声が震えた。
ユリがセキレイさんにヤキモチを妬いているのは何となく解ったが、彼女が今、私に何をしようとしているのか、想像もつかなくて凄く怖かった。
「翡翠、私ね、また戦場に行くんだけど、運が悪ければ2度と帰って来られなくなるかもしれないじゃない?だから、どうせ戦場で死ぬなら、セキレイさんや王に先をこされる前に、今ここで翡翠を抱いて、処断された方がいいって思うの」
ユリに見下ろされ、私は彼女が何を言っているのか理解に苦しむ。
「な、何が?」
抱くって、どうやって?
「女の子同士なのに、そんなの無理だよ」
そうして冗談ぽく笑い飛ばしたかったのに、ユリがあまりにも真剣にこちらを見つめてくるものだから、私は全く笑えなかった。
「翡翠は試してみたの?」
ユリがおもむろに自分のシャツのボタンを上からゆっくり外していく。
「え?それは……」
ユリの首もとが露になり、私はその美しい鎖骨の隆起を見て胸が熱くなった。
凄くエッチだ……
「じゃあ、本当に無理か、試してみようよ?」
「試すったって……」
どうやって?
私が疑問に思っていると、ユリは私の首から順に舌を這わせていき、手際よく私のシャツのボタンを上から全て外すと、その下に着ていたシャツを胸までたくし上げた。
「ユリ!?」
よもやここまでされると思っていなくて、私は驚いて身を捩る。
「翡翠、まだブラジャーしてないんだ」
ユリの吐息が鎖骨に当たって、私はそれだけで腰が砕けそうだった。
怖いけど、別に嫌な訳じゃない。ユリとこんな事をしていても全く嫌悪感はないし、ドキドキもする。それにこういう事に対しての好奇心だってある。
でもユリには、セキレイさんに感じる様な嫉妬心はまるで感じない。彼女は色んな人と関係を持っているようだけれど、私はその誰にもジェラシーを感じない。
「翡翠、綺麗」
私はユリに胸を撫でられ、以前、セキレイさんにされた事を思い出し、目を閉じる。こうして目を閉じ、セキレイさんにされていると思うと、私の腰が甘く疼いた。
でも──
私は最低だ。セキレイさんに、瑪瑙さんの身代わりにされて傷付いていたのに、私はユリをセキレイさんの身代わりにしてる。
こんなの善くない。
私は体を蠕動させ、枕側に上体を逃がそうとしたが、ユリに上からのし掛かられ、今度は両手を押さえ込まれた。
「痛……」
ユリに強く握られた手首が痛い。
セキレイさんにもこんな風に押さえ付けられた事があったが、その時に匹敵する力強さだと思った。
何でこんなに……
「翡翠、逃げないで。翡翠は初めてなのに、あまり痛くしたくない」
そんな風に息を乱すユリは、いつもの温和な彼女とは違って獣みたいだった。
「翡翠……」
私はユリに苦しそうに名前を呼ばれ、体を密着されると、太腿にセキレイさんの時と同じ様な熱と質感を感じる。
これは……

「ユ、ユリ?ユリーーーーーーーッ!!」

私はそれが何か理解すると、目をむいて絶叫していた。
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