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四十二話 武田勝頼
しおりを挟む伊蔵が配下の者を使い、甲斐の国の情報を集めにかかってから半月あまりが過ぎたが、その成果はあまり順調とは言えない状況であった。
そんな苛つくような日々を重治が送っていたある日、思いがけない人物の来訪が重治屋敷にあった。
「此度の戦勝。おめでとうございます」
重治は、いつになく丁重な態度をとっていた。
「重治様、おやめくだされ。そのようにかしこまられては……」
「‥‥いや、しかし、‥‥信忠様は、今や、織田家の御当主ではありませんか……」
重治が、信忠と呼んだ男は、はにかんだ照れた笑みを見せた。
この日、重治屋敷を訪れたのは、信長の嫡子である織田信忠その人であり、信貴山での松永久秀との戦いを終え、信長への報告を済ませたところだと重治に説明していた。
「信貴山攻めなど、私でなくとも、だれが指揮をとっても勝ち戦になるものです」
「ははっ‥‥」
重治は、肯定とも否定ともとれる曖昧な笑みを漏らした。
「…………」
「……ところで、本日は、なにようでのお越しでしょうか?」
過去に遡ってみても、信忠が、重治を訪問した事実は一度としてない。
今まで家督を継いでいなかった事を差し引いても、重治と信忠とのなかがとても親密だとは言い難かった。
「……じつは、‥‥重治様に、頼みたき議が、あって参りました。‥‥何とぞ、お聞きいれくださいますよう‥‥」
信忠は、そう言うと突然、頭を下げ、重治の前で平伏の姿勢をとった。
「ちょっ、ちょっと、お待ちください。お、お手を お手を お上げください……」
焦ってしまったのは、重治の方だった。
仮にも、天下をうかがう織田家の当主である信忠に、頭を床につけさせ、土下座をされるとは、そんな状況、夢にも想ったことなどない。
「とにかく、とにかく、お手をあげて‥‥、詳しい、お話しを……」
重治が、そこまでの言葉を続けると、信忠は勢いよく頭をあげた。
重治に見せたその顔は、百万の援軍を得たかのような会心の笑みであった。
「聞いてくれるか!?」
「‥‥聞くも何も、話しが、見えてまいりません。詳しい説明をしていただけませんと、返答のしようが、ないじゃないですか‥‥」
「‥‥ははっ。そりゃ、ごもっとも。ははっははは」
信忠の表情は、重治に受け入れられたと言う思いからか、屋敷を訪れた時の緊張した面持ちが、幾分和らいだかのように見えた。
「重治様と親父の関係をわかっいて、尚、この話しだけは、親父にだけは、秘密にしておいてもらいたいのじゃ」
再び、強い緊張感を漂わせた信忠は、慎重に言葉を選びながら重治に語り始めた。
「‥‥重治様の事ならば、わしに正室が居らぬ事は、当然、承知だと思うが、今からその理由を聞いてもらいたい」
「?、では、その理由が頼み事と関係すると……」
神妙な面持ちの信忠は、黙って頷いた。
当時の信忠には、数人の側室がいたが、正室として名前を残した人物はいない。しかし、信忠自身には、正室と認める、ただ一人の女性が存在した。
織田家と武田家が同盟を結んだおり、勝頼に信長が娘(養女)を嫁がせたと同様に、信忠にも信玄の娘である松姫を正室として迎える運びとなっていた。
しかし、織田家と武田家の間の同盟が、破棄され戦闘状態となると同時に、信忠と松姫との婚姻も幻と消えたのであった。
「わしの正室は、今でも松、ただ一人。‥‥勝頼とわしは、義兄弟になるわけじゃ。偉大な父を持った苦労は、わしも同じじゃ……」
「……つまり、わたしに、勝頼殿の手助けをして欲しいと!?」
「………………」
信忠は、自分の頼みが、とんでも無い事であると、この時になって初めて冷静に見つめ直し、理解し始めていた。
「ふふふふ‥‥」
複雑な表情で悩む信忠を見て、重治は笑った。
「‥‥な、なにが、おかしい!!」
「……一度は、義息子となった縁ある男じゃ。このまま、惨めな死を迎えさせたくはないのじゃ」
「……?!!」
重治は、信長の声色を真似て、表情の険しくなった信忠に、信長の言葉をそっくりそのままに告げた。
信忠の表情は、重治の言葉の意味の理解と共に、悩み、驚き、喜びと、次々に変わっていき、百面相の如き変化を見せた。
「さすがは、親子ですね‥‥」
重治は、にっこりと微笑んだ。
「‥‥では、親父も……」
信忠の言葉に、重治は、黙って頷いた。
信忠は、無理な頼みが、偉大なる父と同じであると知ると、それまでの緊張が嘘のように、一気に柔和な笑顔へと変わっていった。
そんな信忠が重治に向かい、再び、姿勢を正した。
「‥‥では、改めて頼む。‥‥勝頼のこと、よろしく頼む」
今度も土下座とまではいかないが、信忠は、丁寧に、重治に向かって深々と頭をさげた。
そんな信忠の姿を見て、重治は、信忠の情の深さ、その思いのを心底、強く感じていた。
重治が、屋敷の外で信忠を見送る間、何度も何度も振り返り、頭を下げる信忠の姿を見て、依頼の責任の重さをひしひしと感じる重治であった。
思いがけない訪問を受けた重治は、思う情報を集められずに、その冬の最初の雪を安土の地で見る事になる。
重治が、そこまで詳細な情報にこだわったのには、ある大きな理由があった。
重治は、幼い頃より竹中家家訓として歴史に関わり続けていた。
特にご先祖の竹中半兵衛に関してのことならば、知らない事は何一つないと自慢できる。それは当然、半兵衛の仕官していた織田家の関わりある事も同様である。
ある種の歴史オタクに間違いなく分類される人間である。
上杉謙信も尊敬しているし、武田信玄もまた大好きで、いろいろな知識を有している。
しかしである。
それが上杉家全般、全ての事を知っているかと言えば、当然、答えはNOである。
もちろん武田家に関しても、特に、勝頼個人の事となると尚更の事である。
重治は、持ち得ない歴史的事実としての知識の代わりに、現状で手に入れられる精一杯の情報が、喉から手がでるほど、欲していたのである。
「やっぱり、現地に行かなきゃ、駄目か……」
重治は、この冬、初めて舞い落ちてくる白い華をみながら、独り言を呟いていた。
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