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第7話『夜の追跡者』
しおりを挟む「幸くん、どこにいるの?」
逸喜の声が、夜の静けさの中で吸い込まれていく。普段と変わらない、幼い口調。それが不気味なほど静寂に溶け込んでいた。
彼は街の薄暗い路地を歩いていた。裸足のまま。病院服の裾が風に揺れる。行き交う人々がその姿に一瞬だけ驚き、すぐに目をそらす。それでも、逸喜は気にする様子もなく、ゆっくりと前に進むだけだった。
逸喜は足を止め、辺りを見回した。目の前にある小さな公園の入り口に、誰かが落とした缶コーヒーが転がっている。彼はそれを拾い上げて少し眺めた後、そっと地面に戻した。
「……こっちじゃないのかな。」
呟いた声は、まるで子供が迷子になったときのようだった。しかし、その瞳の奥には奇妙な冷静さがあった。
しばらく歩いた先で、逸喜はコンビニの前に座り込む若者たちに声をかけた。
「ねえ、ここで高校生みたいな子、見なかった?」
若者たちは一瞬面食らったような顔をしたが、逸喜の問いに答える。
「ああ、昨日だったか、そういう奴を見たかもな。あっちの方に行ったんじゃねえか?」
逸喜は静かに頷き、「ありがとう」と笑顔を見せた。その無邪気さに、若者たちは目を見張った。だが、彼が去ると同時に「あれ、変な奴だったな」と囁き合う声が背後で響いた。
逸喜は再び歩き出す。彼の視線はどこか遠くを見据えているようだった。その中には焦りや不安の影は見えない。ただ、一歩ずつ確実に幸のいる場所へと向かっているような確信だけが滲んでいた。
「幸くん、見つけるからね。」
誰にも届かないその言葉が、夜の空気に溶けていった。
幸は小さな路地の奥に座り込んでいた。疲労と寒さで体が思うように動かない。ポケットの中で指先を動かしながら、彼はうつむいたまま、吐く息が白く立ち上るのを眺めていた。
「……もう、どうでもいい。」
そう呟いて、目を閉じた。けれど、その瞼の裏に浮かぶのは逸喜の顔だった。
「俺なんか、いなくても――。」
その言葉が終わる前に、幸は背後に人の気配を感じた。ゆっくりと顔を上げると、薄暗い光の中に立つ人影が目に入る。
「……見つけた。」
幼い声が静かに響いた。冷たい夜風にのって届くその声に、幸はぞっとした。
「……お前、どうしてここに……。」
幸は声を震わせながら問いかけた。逸喜はその言葉に答えるでもなく、一歩ずつ幸に近づく。
「幸くん、探したんだよ。」
いつもの幼い口調。けれど、その瞳には普段の無邪気さとは異なる鋭い光が宿っていた。
幸は立ち上がろうとしたが、足がすくんで動けなかった。その間にも逸喜はさらに近づく。
「逃げちゃったら、僕、どうすればいいか分からなくなっちゃうよ。」
その言葉があまりにも穏やかで、それが逆に恐ろしかった。逸喜の手が、幸の腕を軽く掴む。その力は決して強くはなかったけれど、幸にはそれが逃げられない鎖のように思えた。
幸は反射的に腕を振り払おうとした。けれど、逸喜の動きは予想以上に早かった。次の瞬間、幸は壁際に追い詰められていた。
「お前……何してんだよ!」
幸は怒鳴るように言ったが、その声には怯えが混じっていた。
逸喜は顔を少し傾けた。薄暗い街灯の下で、その表情は妙に楽しげに見えた。
「ねぇ、僕を捨てて逃げるの、楽しい?」
その一言が、すべてを凍りつかせた。逸喜の無邪気な声の中に、何か別の感情――執着と呼ぶべきものが滲んでいる。幸は目を逸らし、どうすればいいのか分からないまま硬直していた。
逸喜は壁際に立つ幸を見つめたまま、静かに微笑んでいた。その笑顔は、普段の無邪気さとまったく同じ形をしているのに、何かが違って見える。
幸は逸喜の目を見つめ返せなかった。彼の瞳に映る自分が、どんなふうに見えているのか分かりたくなかったからだ。
「……お前、本気で言ってんのかよ。」
ようやく絞り出した声が、ひどく掠れていた。
逸喜は首を傾けた。そして、幼い声で答える。
「もちろん、本気だよ。」
その言葉があまりにも純粋で、それが逆に幸を追い詰める。
「お前、そんな顔してさ……どうして笑ってられるんだよ。」
幸は壁を背にして、逸喜から少しでも距離を取ろうとした。けれど、彼の手が再び幸の腕を掴む。
「だって、幸くんが逃げようとするのが悪いんだよ。」
逸喜の声は静かで穏やかだった。その穏やかさが、幸の心にじわりと広がる恐怖を加速させる。
「……俺が逃げたら、お前はもっと自由になれるだろ。」
幸は視線を地面に落とした。自分の言葉が正しいものだと信じたかった。
けれど、逸喜は少しだけ身を屈め、顔を幸に近づけた。そして、囁くように言った。
「幸くんがいないと、僕はダメなんだよ。」
幸は逸喜の手を振り払おうとしたが、力が入らなかった。まるで彼の言葉が、見えない枷になったようだった。
逸喜はさらに近づき、壁に手をついて幸を囲い込むような体勢になった。
「ねぇ、逃げるの楽しかった?僕のこと置いて、どんな気分だったの?」
その声は静かで、優しく、けれどどこか狂気を孕んでいる。それが、普段の幼い逸喜と決定的に異なる部分だった。
幸は答えられなかった。ただ、視線をそらし、震える拳を握りしめることしかできなかった。
逸喜はしばらく黙ったまま、幸を見つめていた。その瞳には焦りも怒りも浮かんでいない。ただ、じっと幸の反応を待っているようだった。
「……お前、本当に俺がいなくなったら困るのかよ。」
幸はようやく口を開いた。けれど、その声には自信がなかった。
逸喜は軽く首を傾げると、小さく笑った。その笑顔が、あまりにも幼く見えた。
「困るよ、もちろん。幸くんがいなくなったら、僕は……。」
そこで彼は言葉を切り、幸に顔をさらに近づけた。
「僕は何もできなくなっちゃう。」
その一言が、幸の心を深く抉った。逸喜がどこまで本気で言っているのか分からない。ただ、彼の声には揺るぎない何かがあった。
「お前……バカだな。」
幸は小さく呟いた。その言葉に逸喜は「うん」と頷いた。
「バカでもいいよ。でも、僕には幸くんしかいないから。」
幸はその言葉を受け止めきれなかった。ただ、背中の壁に寄りかかり、冷たい感触を感じながら小さく息を吐いた。
「……俺だって、お前がいない方が楽なんじゃないかって思うこと、あるんだよ。」
「そんなの嘘だよ。」
逸喜は即座に否定した。その声には、普段の幼さとは別の大人びた確信が滲んでいた。
夜風が二人の間を吹き抜けた。幸は逸喜の視線から逃げるように、そっと目を閉じた。
「……俺、どうすればいいんだよ。」
掠れた声で、誰にも届かない問いかけを口にした。
逸喜は壁から手を離し、そっと幸の肩に触れた。その手の冷たさが、夜の寒さを際立たせる。
「大丈夫だよ、幸くん。」
逸喜は優しく言った。その声には、幼さと何か恐ろしいほどの執着が同居していた。
幸はその場に立ち尽くし、何も言えなかった。ただ、逸喜の言葉が胸の中でぐるぐると回り続けた。
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