張り憑く

神崎マコト

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張り憑く

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 早朝ランニングをしていた僕はその日、落とし物を見つけた。
 公園の入り口付近にある桜並木の根本に、漆黒に赤のラインが入った綺麗なファンデーションケースが落ちていた。独身恋人無しサラリーマンの僕にはよく分からないが、とても高価そうな印象だ。大事なメイク道具をなくした落とし主はさぞ困っているだろう。拾って交番に届けようと、僕はそれを拾い上げた。
「ちょっと」
 驚いて声の方へ振り向くと、視線の先に若い女性が立っていた。派手な化粧に香水の匂い、酒とタバコの匂いもする。朝帰りのキャバ嬢さんだろうか。女性は僕が拾ったファンデーションケースを指差し、見下すような目を向けてきた。
「それ、アタシんだから」
「え」
 今急に現れたばかりのように見えるが、本当に落とし主なんだろうか。僕の疑問をよそに、女性はハイヒールを鳴らして僕に近づき、朝露に濡れたファンデーションケースを無言でひったくった。目を丸くする僕に構わず、女性は踵を返してさっさと歩き去っていってしまった。
 ネコババしようとしたわけじゃないのに、何て態度だろう。僕はむかむかしながらハイヒールの足音に背を向け、ランニングを再開しようとした。が、すぐにまた立ち止まってしまう。
 桜並木の影に、女性が一人棒立ちになっているのを見た。
 一見普通の出で立ちだが、血の気のない青い顔で、じっと遠くを見ている。あの失礼な態度の女性が歩き去った方角だ。瞬きもなく彼方を見据える様子がどうにも異様で、僕は急いでその場を駆け去った。関わってはいけない、そんな予感がした。

 学生時代に陸上部で朝練三昧だったおかげで、社会人になった今でも早朝ランニングは習慣になっている。数日後には件の腹立たしい出来事をすっかり忘れて、僕は早朝の冷たい空気を吸い込みながらアパートから走り出た。
 そうして桜並木の公園に差しかかると、遠くの方に人影が見えた。すぐに、あの時の失礼な女性だと分かる。僕は何となくいやな気持ちになって、彼女とすれ違うのを避けて公園の中を走ろうと考えた。
 足を公園の中へ向けると同時に、僕はふとあの女性に目をやった――すると。
 女性の顔に黒いもやがかかっていた。
 正しくは、黒く渦巻くもやのような「何か」が、顔にだけ張り付いていた。でも女性はそれにまったく気づかない様子で、スマホをいじりながら無言で歩いてくる。
 驚きで声が出なかったのが幸いだった。女性に不審に思われる前に、僕は急いでその場を離れた。黒いもやの渦に、違う女性の顔が見えたのは気のせいだろうか。

 それ以降、早朝ランニングの最中に桜並木の公園で、あの女性を何度か見かけた。
 見かけるたびに、顔に張り付く黒いもやのような「何か」は濃くなっていき、ぼやけていた輪郭が徐々にはっきりしてきてようやく、僕はそれが何なのか分かった。

 黒い、胎児。

 いや、胎児なのは体だけで、顔は成人女性のそれだ――あの時、桜並木の下で立ち尽くしていた青い顔の女だ。頭でっかちの異様な状態の黒い胎児が、小さな手で女性の顔中を搔きむしりながら、黒い目を見開き大口を開けて声なき声を上げているのだ。その姿にはきっと、他人の僕には計り知れない意味があるのだろう。
 顔中を引っ掻く行為を見て僕は、女性の顔面をメイクごとむしり取ろうとしているように思えた。もしかしたらあの黒いファンデーションは、青い顔の女性のものだったんじゃないだろうか。彼女がファンデーションケースを拾うように仕向け、呪いの触媒として利用したのでは、と思うのは、勘繰りすぎだろうか。
 件の女性は相変わらず何も気付いていないようだが、最初に見た時よりも、かなりやつれているように見えた。

 案の定その日以降、女性を見かけなくなった。
 彼女がどうなったのかは、僕にはわからない。ただ一つ言えるのは、怪異がはっきり見えるようになった時は、大概が手遅れの時だということだ。
 それでも僕は相変わらず、早朝ランニングを続けている。
 次に落とし物を見つけたら今度こそ速やかに交番へ届けようと、ぼんやり考えながら。
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