25 / 28
第3章:彼女の浮気を疑いたくない
2. きみの悩む理由がわからない
しおりを挟む「こんにちは! はじめまして。俺、マブチソウタです。今日はよろしくお願いします!」
セラピールームに足を踏み入れた花束さんは、デスクの向こうで立ち上がった葦仁先生と目が合うなり挨拶した。
あぁ……本名言っちゃってるでしょ、『花束』さん。
もちろん、本名を名乗るのに何も問題はない。名前だけだし、たとえもっと詳細かつ重要な情報を得たとしても、クライアントの個人情報を『ドロック』が悪用することはない。
氏名すら不要にしているのは、あくまでもクライアントの心理的負担を軽減するためだ。
セラピストに悩みと本音を打ち明ける際に、自分が見ず知らずの他人のままでいられるように。
そんなちょっとした距離感を、この花束さんみたいに全く気にしない人もいる。
「こんにちは。梓葦仁です」
「うわぁ。すごい部屋ですね、ここ。赤青黄って色の3原色でしたっけ? あれ、光かな?」
中央のテーブルで足を止めた花束さん……もう『ソウタ』さんでいいか。ソウタさんが、四方をぐるりと見回して聞いた。
「色で合ってるよ。絵具やインクなど色材で光を遮って色を作るのがこの3原色。発光体で色を作るのが光の3原色で、赤青緑だ」
「そうそう。パソコンで色作る時に使うやつですよね、RGBって。何で3原色の壁に? あ! これ全部絵なんですか? もしかして、先生が描いたのか?」
葦仁先生の答えを聞きながら、左側の青い壁に寄るソウタさん。
「カラーセラピーだからね。どの色が見える位置に座るかでも、心理状態が少しはわかる。ここにある絵は僕が描いたものだよ」
「すげー! 小さいのがいっぱい貼ってある」
ソウタさんが、すっかりラフな口調で感嘆の声を漏らす。
「何描いてあるかわかんないのが多いけど、キレイな色合いだな…」
「写実画はあまり描かないんだ」
「どうしてですか?」
「好きで描いてるだけで上手く描けないのもあるけど、現実そっくりな絵なら写真でいい。頭の中の世界を描くほうが楽しいからかな」
振り向いたソウタさんは、ちょっと考えるような顔をして葦仁先生を見つめた。
「セラピーを始めようか。ソウタくん、好きな席にどうぞ」
「あ、はい」
自分が何をするために今この部屋にいるのかを思い出させるように、ソウタさんが両頬をペチペチと叩いて返事をする。
「じゃあ……ここで」
ソウタさんが座ったのは、青い壁が見える席だ。対面に葦仁先生、窓側に私が腰を落ち着ける。
時計の針が指すのは午後4時19分。
セラピーの開始時間を、ノートパッドの新しいページに記入した。
受付表に目を通した葦仁先生はテーブルに両肘を立て、組んだ手の甲に顎を乗せている。視線はソウタさんに固定したまま、1分程経過。
「あの……先生?」
ジッと無言で見られるプレッシャーからか、先に口を開いたのはソウタさんだ。
「何か、待ってます?」
「いや。今始める」
「はい。お願いします!」
ホッとしたのか、ソウタさんが笑顔を見せる……と、葦仁先生も口元だけに笑みを浮かべる。
「最初に聞きたいんだけど。きみ、セラピーは口実で本当は偵察か何かなの?」
「え……!? 違いますよ! どうしてそう思うんですか?」
「これ。きみの悩む理由がわからない」
顎から手を外し、葦仁先生が目の前に置いた受付表をトントンと指先で弾いた。
「彼女が浮気してる可能性があるんだよね?」
「そうです」
「でも、真相は知りたくない」
「はい」
「浮気の可能性を残したまま、疑うことだけやめたい」
「はい、そうです」
真顔で答えるソウタさんに、葦仁先生が思い切り方眉を上げる。
「ソウタくん、あぁ。呼び名は『hanataba』って書いてあるけど、すでに呼んじゃってるからソウタくんでいい?」
「呼び捨てでいいです。ソウタで。そのほうが話しやすいし」
「わかった。僕に対してもくだけた口調でかまわない」
「はい」
「で、ソウタ。きみの悩みだけど、矛盾してるよね。自分でもわかってるだろう?」
「はい。だから、来たんです。矛盾してないなら自分でどうにか解決します。俺、こう見えても数学得意なんですよ」
「そうだな。何事も論理的に片づくなら、人の悩みも減るかもしれない」
葦仁先生の瞳が楽し気に笑う。
「じゃあ、順番にいこう。まず、彼女の浮気を疑う根拠は?」
「街で、彼女が男と一緒に歩いてるところを見かけました」
「それで?」
「二人は古くからの知り合いみたいに親し気で、深刻そうな顔で話をしてたんです。気になって後をつけた……後悔しました」
「二人はどこに?」
「住宅街に入ってすぐ、一軒家の中に。表札は彼女の名字じゃなかった。ちょっと待って、俺はそこから離れました」
「そのあとも、彼女とは今まで通り?」
「はい」
淡々と答えるソウタさん。
何だろう? この違和感……あ、そうか。
この人、全然つらそうじゃないんだ。
恋人の浮気に疑心暗鬼になってる悲壮感とか怒りみたいなものが、まるでない。
「その男のこと、本人に聞かなかったの?」
「はい。俺が見てたの、気づかれてないし」
「何故、聞かない?」
「自分から言わないこと、聞く必要ないかなって」
「疑ってるのに?」
「それは俺の問題だから。彼女を追い詰めたくないんです」
少しの間が空いた。
「確認するけど、きみとその彼女はつき合ってるんだよね? 恋人同士として」
先生がズバリ聞いてくれたことに安堵する。
浮気を暴いたら、彼女にアッサリ別れるって言われそうだから真相を知りたくないのか?
彼女にとって、ソウタさんは本当に彼氏なのか?
ソウタさんのほうが浮気相手ってことはないのか?
失礼なのは百も承知で、私もそこのところが気になったから。
0
あなたにおすすめの小説
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました
桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。
言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。
しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。
──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
毎日19時に更新予定です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる