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最終章 孵化

5・理想と現実をその澄んだ瞳に映した。

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 律歌と北寺で膝を突き合わせて考えても考えても、脱出の方法は思い浮かばなかった。たとえ北寺がどんな技術を持っているとしても、仮想世界の中と外で通信を遮断されてしまっていては、付け入る隙がない。
 この世界を支配しているのは、やはり電卓なのだと痛感する。
 結果を勝ち取るためなら容赦なく戦える人。
 その電卓が結論づけたのは、「律歌はここで北寺と暮らすのが一番良い」ということで、律歌の理想も、北寺の技術も、それを覆すには至っていない。
 やはりそれが最適解なのだろうか。
 心を守るために、自分で自分の記憶さえ消してしまうほど脆い、弱い自分には、最上の未来を切り開くなんてこと不可能で、甘いだけの絵空事で、現実的に実現可能な範囲内で実現させてみせている電卓の方がずっと立派なのかもしれない。
 それに従うべきかもしれない。
 じゃあ、ここで北寺と二人で暮らそうか?
 そんな風に考えが揺らいできたとき、律歌のことをじっと見ていた緑色がかった瞳が尋ねてきた。
「りっか、おれと一緒に暮らしていたがっていたよね」
「……うん。でも」
 いや、でも、そういえば北寺は一緒に住んでくれなかった。
「おれが拒んでいた」
 そう。
 そうだ。ここにいたって、北寺はこちらを向いてはくれない。きっと、ずっと。
 私には、何もない。
 外にも出られないのに、中にいたままでも幸せになれない。
 律歌は、こんなことなら、何もかも忘れてしまったままの方が幸せだったのではないだろうかとまで思えてきた。
 もう一度、全てのことを忘れて、この日々を初めからやり直して、こうして思い出してしまうまで、繰り返すのはどうだろう。何度でも。そうすれば希望だけを延々と追い続けられるじゃないか――! ……絶望的な発想。今の自分は、そんな不毛に過ぎる人生を本当に実行してしまいそうで、恐ろしい。
「でも、本当は違ったんだ」
「え?」
 北寺は、律歌の目を射貫くように見ていた。全てをぶつけるかのように、
「おれだって、りっかと暮らしたかった」
 そう言った。律歌は驚いていた。
「でもりっかは添田さんじゃなきゃだめだから」
 北寺の澄んだ瞳には律歌だけが映っている。
「北寺さん……」
「ほら外に出るんでしょう? 諦めるなんて、りっからしくないよ。さ、一緒に考えて」
 最大限の尊重と、理解と、愛情。
「大丈夫。りっかは強いよ。りっかのその意志は、一度だって折れたことがない。泣こうが吐こうが、記憶を無くそうが、そして再び思い出そうが、こうしてまた、夢の道に戻ろうとする」
「……ええ」
「大丈夫。きっと何か方法はある」
 北寺は優しく微笑みを添えて言う。
「たとえ、時間がかかったとしてもさ、そもそも世界は、りっかの想像するよりずっと無意味なものばかりだよ。そして、なんにだって価値がある。マイナススタートなんかじゃない」
 現実を前に立ちすくみ、孤独に、無力さに震える自分のちっぽけな両手を握ってくれている人。心躍る広々とした野っ原をマウンテンバイクで走って、疲れたらラジコンを魔改造して乗り込んで、どんな世界の果てまでも、天高く次元さえ超えていけるのは、そんな人が傍にいて支えていてくれたから。
「だから、りっかは性懲りもなく、理想を見つめていればいいんだよ。目の前の成果に囚われすぎないで」
 大局を見誤るな。北の果てに何もなくたって、それで全て徒労だと否定されるわけじゃない。
「……そうよね。忘れるところだったわ」
 たった一つだけを、脇目もふらず追い続けられる強さだけが、正解を導くわけじゃない。産まれてから死に向かっていく中で、歌い、踊り、何かを見つけ、何かを創り、人と関わり、人と交わり、生きているという中にだけ隠されている答えだって、ある。
「わかったわ。少しだけ、休憩するわ。五分だけ」
 頭を使って糖分を消費したのを感じていた律歌は、気分転換に何か食べることにした。「チョコ食べよう」ここで摂取したものが実際の体に反映されているのかは微妙なところだが、現実世界で残業前に意識的にチョコレートを取っていた癖が蘇って、欲求に変わっていく。北寺は頷くと、
「はい、どれがいい? きのこの谷? たけのこの園?」
 各種菓子の銘柄のロゴが塗装された色とりどりのボタンをテーブルの上に並べてくれた。ワンタッチで注文可能なダッシュボタンを――
「じゃあ、きのこの谷」
 ポチっ。
 押せばものの一分で家のチャイムが鳴った。「こんにちはー。アマト運輸です」
 北寺が玄関まで受け取りに行ってくれる。
「お届け物です」
 いちいちスマートフォンを起動しなくていいので、ボタンをその商品の横に置いておけば、使い切る前など必要に感じたときに忘れずに注文しておけるシロモノ。よく使う消耗品を中心に用意されているので、水や食器洗い洗剤などうっかり切らしてしまっていざというときも焦らずに済む便利なボタン。だがそもそも、切らしてしまってからでもいい。スマートフォンから注文すると半日かかるが、ワンタッチボタン注文ならものの五分ほどで届けてくれた。倉庫に大量に保管してあるのだろうか。
(いや、倉庫なんてものはないはず。ここは仮想空間よ。ん? 仮想空間?)
 通常注文が半日ほど時間がかかるのは、ここの住民に外にあるメインコンピューターへ万一にもアクセスされないよう最大級のセキュリティとして、注文内容を記録したサーバーを外へ繋げておらず、中にログインした「外」の人間が書き写すもしくは記憶することで外にあるメインコンピューターに反映されていると北寺はいう。それなら、このボタンによる注文がこんなに早く反映されるのはなぜ?
 ロボット少女の血が騒いだ。小さなプラスドライバーを引き出しから取り出して、ネジを外してカバーを開けた。そこにはちゃんと原子スキャンに従って、現実世界の通販で使われているのであろうダッシュボタンの中身とおそらく同じ、単純な回路の基板が入っていた。
「これ……これは」
 律歌は電子工作の経験を活かして、それをパソコンの基板にはんだ付けしていく。
 瞬時にNPCが商品を運んできてくれる理由、それは――
「りっか……お手柄だ」
「うん……」律歌は、チョコレート菓子を手にして戻ってきた北寺に頷いた。
「この世界を構成するメインコンピューターに……これは直接アクセスしているわ」
 手に持ったダッシュボタンをそっと掲げる。
「これを介せば――この世界を、ここから直接改竄が可能か。もちろんログアウト実行も!」
 盗聴を警戒して直接の単語を避けて北寺は頷く。そうして椅子に座る間も惜しみ、立ったままプログラムをさらに書きつけていく。慣れた手つきで「このレジスタの値をこっちにコピーして……」ぶつぶつと独り言を漏らしながら、時折不気味な笑い声を上げながら、手がから回ってミスタイプしたときはバックスペースキーを強打、連打して壊してしまうかと思うほど。律歌も手元が狂わないよう細心の注意を払ってはんだごてを操作する。
「ツール、もうすぐできるよ! りっか、行ける!?」
「ええ! 繋がった!」
 配線が完了し、接続準備が整ったことを告げる。
 現実世界の「鍵穴」に通じる抜け道が開く。
「送り込むよ!」
 ダッシュボタンを介し、現実世界のメインコンピューターに侵入する。できる限り気付かれるのを遅らせるために、代理サーバープロキシをいくつも通していく。天蔵の通販システムサーバーや、商品倉庫のサーバー、記憶処理システムサーバーなど――。そして管理者権限のパスワード解析が進んでいく。北寺のピッキング技術で、鍵をこじ開けているのだ。
 だが、途中でビープ音が鳴った。
「まずい! 通販システムサーバーが落とされている……! 何か察知したか。次は商品倉庫サーバーも落とされた」
 北寺の表情が固まる。律歌も画面を覗き込んだ。
「サーバーが、落とされてる……?」
「おそらく添田さんが気付き始めた! 阻止しようとしてるんだ」
「そんな!?」
 さすが電卓、学生時代から隠れギーク男子だっただけのことはある。その実力で抵抗してきた。
 だが、北寺は次の手を打つ。
「俺達が何からどうやってハックしているかがバレたら一巻の終わりだ。目くらましに、この世界を全てオンラインにする!」
「??!」
「これで俺やりっかだけじゃなく、ここに住む全員のスマホやPCから、外部世界のオンライン情報にアクセスできるようになる」
 言うや否や、律歌のスマートフォンが通知で鳴りやまなくなった。今まで溜まっていたデータが一斉に送られてきたのだろう。
「時間との勝負だ。バレるまでにこっちが管理者権限を奪取できれば勝ち」
 その瞬間、大きな揺れが律歌と北寺を襲った。そして急に窓の外が真っ黒い雲に覆われ始め、雷が鳴り響き出した。神の息吹を感じる勢いで、落雷はどんどんこちらに近づいてくる。揺れも激しくなり、立っていられない。北寺はノートパソコンの充電コードを引き抜いた。
「くっ……何から攻撃しているか判明するか、もしくは物理的に壊されたら、俺達の負けだ」
 変化はそれだけではなかった。リビングにあるテレビが突然点いた。テレビと言っても、普段は天蔵のCMしか流れないし、ゲームのための液晶画面としてしか使えないものだが、そこにはニュースキャスターが原稿を読み上げる映像が流れていた。――次のニュースです。本日、一日の自殺者数が最高記録を更新しました。厚生労働省は、事態を重く見て――勝手にチャンネルが切り替わる。――全自動化お手伝いロボットが、お値段なんと二九万九八〇円。充実したアフターサービスももちろんついて――また切り替わる。今度はブロックノイズだ。ブロックノイズになったかと思ったらテレビが消えた。テレビ自体が。そして律歌の手元にあるパソコンも、突然消えた。
「消えちゃった!」
 添田が管理者権限でデリートしているのだ。慌てて北寺の方を見た。彼は相変わらずパソコンを操作している。
「北寺さんは大丈夫なの……?」
「しー」
 と北寺は人さし指を口に当てる。そしてその指で、カバーをとんとんと叩く。そこにはなにやら自作したらしきシールが貼ってあった。どうやら組み合わせて作ったオリジナルPCらしい。これは消すのに手間取りそうだ。
「でも時間の問題だ……!」
 急に視界が開けて辺り一面草原に囲まれた。家が消えた? 二階のベッドや箪笥が宙に浮いている。消えたというより家が透明化したのか。
「もう、電卓! 無駄な抵抗はよしなさいよ!!」
 それから家具という家具がどんどん消えていく。二階から。ベッドが消えて、棚が消えて、ライトが消えて――
「あと少しだ! よしDoS攻撃で凌ごう……!」
「どういうこと!?」
「添田さんが阻止できないように道をふさげばいい! すぐツール作る! 間に合うか――!?」
 道をふさぐ?
 つまり、アクセス過多にして、渋滞を引き起こせばいい。手元には、いくつもの銘柄のお菓子注文ボタン。
「えーい!!」
 律歌はそれを、両手指十本で押しまくった。
 ポチポチポチポチポチポチポチポチ――……
 ダッシュボタン連打。連打に次ぐ連打。何十個何百個と、菓子、消耗品、その他注文を連続で無限に……。押している最中にも配達に来たアマトによるチャイムがどんどん鳴りびいている。玄関だったところにものすごい数の人だかりができていた。そんなに持ってこられてもさすがに食べきれない、使い切れないと思う。
 連打し続けた甲斐あって消去の手が止まった、それでもゆっくりと一つ一つ消えていく。二階の家具が消えたと思ったら、びゅうっと風が吹き込み、冷たい雨に打たれた。ついに家が消えた。
「北寺さーん! は、早く――っ」
 律歌は北寺の方を見る。彼は端末に向かって超高速でタイプしていた。集中しすぎて声も届いていないのだろうか。北寺はふいに手を止め、音を立ててエンターキーを叩いた。その小気味良い音と共に、画面のパーセントがようやくまた進み出す。
「で、できた……DoSアタックツール……完成」
 律歌はそれを聞いて、盛大にため息をつきながらダッシュボタンを放り投げた。あとの連打は機械がやってくれる。疲れた。北寺はもう涼しい顔で、高速に処理をしているCPUの冷却ファンの音を聞いている。雨を避けるために腕で覆いながら。
 それにしても、よくそんなの作れるものねと律歌が言うと、北寺は「昔ネットオークションでどうしても落札したいものがあって、終了間際に他の入札者のアクセスを封じるためにアタックツールを作ってみたことがあるんだ」ということを教えてくれた。
「本当、面白い生き方してるわよね……北寺さんって。無駄の塊みたいな人だわ」
「あれ、それ褒めてる?」
「尊敬はしている」
「おれのこんな経験まで活用するの、りっかの無駄な才能だと思うよ」
 北寺は画面を見つめたまま、
「よし。勝てるね」
 ついににやりと口角を吊り上げる。
「添田さんはまだまだ、人生浅いな、世界が狭い――。って、こんなこと言ったら左遷されちゃうか、おれ。敗因は、ま、りっかが教えてあげてね。あっちの世界で」
「そうね……外に出たら、教えとく。あ、左遷だってさせるもんですか!」
 現実世界で、北寺がまずい立ち位置に追いやられないように、自分が守れたらいいな。また一つ、向こうの世界でのやりたいことが増えた。
 その時だった。
「っ! い、痛い……!? いたたた……」
 激痛が頭に走った。
「っ……。あはは……さすがにメインコンピュータに負荷が、かかりすぎる、か……」
 北寺も同じように耐えているらしい。途切れ途切れになりながら、そう説明をくれる。でも、もうすぐピッキングは完了する。そして、律歌と北寺を囲んでいた物々はもうほとんど消えてなくなっていた。配達員達も消えている。
「でも、りっか、本当にいいんだね? 外に出たって――後悔しないね!?」
「しない――っ、ここに、だらだらといる方が、後悔するわ、きっと!」
「……そうだね。そろそろ、っ、温泉から上がる時間だ……っ。温泉治療みたいなもんだったんだよ」
「そうね、まあ、いい湯だったわ……!」
「うん。極楽だったなあ……」
 あと数秒。
「北寺さん、外に出たら、私の夢に協力してくれる?」
「……働きたくないでござる」
「はあ!?」
「絶対絶対、働きたくないでござる!!」
「何言ってんのよばか!」
 まさか、この期に及んで、北寺は一緒に来ないつもりだろうか。律歌は焦った。
「来てくれなくちゃ、だめよ……っ! いやよ、私、北寺さんと離れてなんて、そんなの――」
 北寺の困ったように笑みを浮かべる横顔からは、真意が読み取れない。
 律歌には、北寺に、一緒に来てくれなどと言えるだけの権利がない。
 電卓と、三人で夢を追いかけるというのは、虫のいい話だ。
 それでも。
「――そんなの、嫌。さみしい……」
 電卓と共に歩んでいくと心に決めてここまで来させてもらったのに、北寺も離したくないだなんて、都合のいいことを望んでいるのはわかっている。
 でも、それでも律歌は欲張りだった。
「一緒に来てよ……!」
「だめ。おれは、まだ横には立てない」
 だが、北寺の拒否の訳は、律歌が思っていたこととは違っていた。
「横に立ちたい。おれも、りっかと添田さんの、横に立って一緒に歩きたい。これからも、ずっと、その権利がほしい」
 むしろ、律歌の望みを、はるかに超えていて。
「だから、おれ、N大に再入学してくる。そして、ちゃんと卒業して、入社試験を受けて、正式にI通に入る。ちゃんと向き合ってみるよ。おれも、おれ自身と」
 前を向いて、少し強くなったその姿。照れくさそうに「……なん、て、ね。はは……」と笑うけれど、
「りっかの傍にいたら、なーんか、夢見がちになっちゃったかな……、おれ……。でも、おれも頑張ろうって、思えたんだ」
 未来に向かう、輝きに満ちていた。
「で、できる……! できるわよ!! 北寺さんなら、きっとできるわ!」
「ありがと、りっか」
「待ってるわね」
「うん。だからりっかも、何年かかってもいいからさ、どんなに叶わなくったって、そのうちおれが、追いついて、また支えるし、だから、前だけを向くんだ。自信もって」
「わかった」
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