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最終章 孵化

6・抱きしめたまま歩いていこう。

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 重いまぶたを開けようとすると、抵抗がある。全身をぬるい液体が包み込んでいて、体が浮いているのがわかった。目をこじ開けると、ぼんやりとして暗い中に、いくつか光が見えた。並んだ緑の中に、赤いランプが点滅している。ここはどこだろう。液体を泳ぐようにして上へ向かおうとすると、両手が壁のようなものにぶつかった。ここは狭い空間のようだ。その手に力を入れ、勢いつけて上へあがろうとすると、おなかを中心からひっぱられる感触があった。広げた手を戻して腹を探ると、何に隔てられることなく自分の肌に触れた。どうやら自分は服を着ていないことがわかる。もっと先を指でなぞると、普段意識することのない場所――へそに、太いホースのような何かが繋がっている。
 まるで母親のおなかの中、羊水に浮かんでいる胎児のようだと律歌は思った。ここで息ができるのも、このへその緒のようなものがあるからだろう。だとすれば、生まれようとする胎児はどんな行動をとるべきか?
(産まれてしまえばいい)
 ホースに触れると、ぐいっとへそが動く感覚があった。ホース自体は感覚がないが、自分の腹にあるへそはどうやら前とは違う形に発達して、このホースを受け入れているようだ。自分の体とこの緒は半一体化しているらしい。こわごわ引っ張ると、わずかにのびる感覚。しっぽが引っ張られるような、そんな感覚があった。両手で、へその緒をもって、ねじ切ってみようと試してみた。だがこれは物理的に無理そうだ。へそに触れると、ホースとの繋目がなく、水の中で癒着したように柔らかな感触が途中まであった。ここからなら、力尽くですっぽ抜くことならできそうだ。
(痛いかな……でも、腹の中にいるなんてごめんだわ)
 手に力を込める。引きちぎるのだ。
 本気の力を出すと、やはり激しい痛みが襲った。痛い。吐きそう。へそ周辺の皮膚、繋がっている内臓から、何かがめりめりと剥がれかけるような感触。腹の中が荒れ狂い、腸がちぎれるかと思うほど。
(ぐっ……ぐう……っ!)
 それでも律歌はやめなかった。また眠りにつくのか? やめてどうする。息ができない。全身の力が抜けていくような気がする。このままだと水を飲んでしまいそう。
 突如ざっぱーんと、濁流に押し流されていく感覚が襲った。痛い痛い、引っ張られる。が、そこに、手が差し伸べられた。視界がクリアになる。
「はあっ、はあっ」
 息が吸える。吐けた。また吸える。
「びっくりした……。律歌死んじゃうかと思った」
 目の前には、
「ばか。遅いわよ」
 透明なぬめり気のある液体でずぶ濡れになった電卓の姿があった。
「ちゃんと手順があったんだよ。どうして出てきちゃったんだ……勝手に……」
 彼はため息をつく。
「電卓が、ぜんぜん、出してくれないから……」
 電卓は、スーツがべちょべちょになっちゃったよとぼやきながら、「とりあえず、新しい服を持ってきてもらうか。律歌のも」
 そういえば。律歌は大慌てで両手で前を隠した。
「……きゃあっ! み、見ないでよ!」
「そんなこと気にしてる場合じゃないだろう……」
 スーツの上着を脱いで、前から覆うように肩にかけてくれる。
 電卓は内線電話を取ると、着替えを持ってくるよう指示を出す。それから、同じくログアウトを試みた北寺のことも世話してくれているようだった。
「どうして、戻ってきたりしたんだ」
 理解できないというように、電卓は嘆いた。
「だって、つまらないでしょう?」
「また死ぬつもりなのか君は」
 暗い顔で、電卓はうめく。もうしばらく、表情を動かしてこなかったように、頬の肉さえ重たそうに。
「そういう電卓は、生きてる?」
 律歌はそんな電卓のことが心配になってきた。電卓は言葉にならない何かを無理に言葉にするように、
「あのさ、律歌……。あのさ、ああ、そうだよ。でもさ」
 駄々をこねるように、
「君は――ロボット活動の時にはあんなにも笑っていたじゃないか。俺は律歌の笑顔が見たいんだよ」
 そんな風に、何を言い出すのだろうと、律歌が首をかしげるのも気に留めずに、電卓は言葉を零す。
「俺はね、律歌。ロボットを作ったあの日々が本当に本当に楽しかったんだ。高校生活があんなに楽しいものになるだなんて、俺は想像もできなかった。かけがえのない青春だった。君がくれたんだよ律歌。君は忘れてしまったけど、俺は忘れない」
 宝箱の蓋を大切に閉めるように、電卓はきらめく瞳を閉じる。
「君が病気になった時、俺は重大な案件を任されていたんだ。上司からは、もう十分よくやってくれた、休んでもいいとまで言われた。でも次のポストに就くには、この案件をやり遂げることが条件だったんだ。律歌は医師から療養が必要と言われていた。君は俺を求めていた。俺と、恋人と過ごすことを。弱った今だけは、応えてほしいと、望んでいた。俺は、律歌の恋人で、記憶を失ってほしくはないのに、それなのに、それなのに俺は、こんな時でさえ仕事を棄てることができなかった。ひどい恋人だ。ひどい人間だ。このままじゃ律歌が死んでしまう。だから、離れなきゃと思ったんだ。派遣でI通によこされていた北寺智春と仲が良かったから、君は彼の隣にいるのがといいと思った。彼にはそれで休暇を取らせた。彼も相当疲れが蓄積していた。倒れるのは秒読みで、健康な派遣と近々入れ替えられると言われていたから」
 その目がもう一度開いたときはもう虚無が広がっていた。その中央に、数式が置かれていた。何度解いても、答えが変わらない数式が。
「だからどうして……戻ってきたりしたんだよ、律歌……っ」
 目を背けたりしない、目を背けたりできない、そんな苦悩が涙となって溢れていた。
「ごめんね」
 律歌は謝っていた。
「記憶をなくしたりして」
 自然と詫びの言葉が出てきた。そうであってはいけなかったのだ。
「ありがとう。私のために、どうにかしようとしてくれて」
 許しの言葉に、はっとしたように電卓は顔を上げる。
「それでも仕事を優先したって聞いて、さすがだわって思った。私も、あなたのようになれたらいいのに。それくらいじゃなきゃ、私の夢は叶わない……」
「これはそんないいものじゃ、ないだろ」
「そうなの……かな?」
「君にはわからないのか。わからないかもな」
 電卓は諦め交じりに呻いた。
「だから、ね? 電卓も、一緒に、夢を見てよ」
「夢を、見る……?」
 律歌の強い視線、爛とした視線に、電卓は、
「俺は、君がここにこうしていることが、いまだに夢みたいに信じられないよ」
 呆けたような顔で、そんなことをつむぐ。夢と現実の狭間にいる。律歌は言った。
「私と生きて」
 電卓は、じっと考え込むように、佇みながら、迷いを口にする。
「でも、君は記憶をまたなくすかもしれない。記憶をなくす君とは一緒にはいられない」
「もうなくさないと約束するわ。私はいつまでもあなたの隣に立ち続ける。何度心挫けそうになったとしても、その度にあなたの強さを見習って、立ち上がってみせるわ。そして、夢を叶えたいの。だから、お願い。あなたの横に、私も立たせてよ……!」
 真剣に、決意を込めて。
 それでも電卓は首を縦に振らない。
 その瞳に映る数字を変えない限り、電卓は行動を変えることはない。
「私だって記憶をなくしたくないわ。そんなことしていたら夢も叶わない。記憶をなくしたのは私のミスよ。次からは記憶をなくす前に病院行くわ。反省してる。高速睡眠システムを国が悪いことに使うことを想定できなかった。そして、使われるとわかったなら、もっと早急に対処に当たらなければいけなかった」
 強い自分で言えた。
 向かい合わなければならない問題点を、口にできている。
「今回は記憶をなくしてしまったけど、次はうまくやるわ」
 律歌はまっすぐ添田を見つめた。添田も同じように真剣なまなざしで言う。
「だけど……仮想空間の中にいてほしい」
「いやよ。私がほしいのはその先にあるの」
「でも!」
「この世から過労を消し去るのよ。二十三時間五十五分労働? そんなのいけないわ。一家団欒を実現させてみせる。寂しかった私が中学生の頃からずっと抱いて突き進んできた野望よ。世界だって変えてやるわ」
 電卓は切なそうに唇を嚙む。
「そんな顔しないで。あなたと出会っていなかったら、私は今でもロボット研究会の顧問でもやっていたかもしれない。ここまで夢を実現してこられたのは、あなたが隣にいたから。あなたが隣にいたから、N大に合格できたし、I通に就職もできた。そして、国を挙げたプロジェクトも達成することができたわ。あなたの隣に立ち続けたから。一つ間違えたけど、また次に進むためには、あなたが隣にいなくちゃ」
「だけど……」
 彼のその、欲しいものに対して計算尽くで取りに行く強さは、まるで本物の電卓が脳に埋め込まれているみたいだ。
「世界中に家族団欒をもたらすの。私は高校時代はロボットを作ることで叶えようとしたし、大学時代は研究でもたらそうとしたわ。知ってるでしょう? そして社会人になって、あと一息まできた。失敗したけど、世界は変えてみせたわ。ほらあと一息まできてるのよ。できるのよ。叶えられるの。この世界は私に変えられるのを待っている。それを感じるの。私はもっと力をつける。ロボット制作でクラスのみんなを巻き込んだ時みたいに。そうして望んだ世界を実現させていくわ。それは最高なことじゃない? あなたも見たいでしょ?」
 限界なのは、律歌だけではなかったのだろう。
 雪山で温かいスープを飲むとき、こんな表情になるのかというような顔で、電卓はとうとうこくりと頷いてくれたのだった。
 律歌はいつか電卓にされたのと同じように、畳みかけて問う。
「じゃあ、今、すべきことは?」
 電卓は少し考えて答える。
「君に、服を着せる?」
「ばか」
 律歌は両腕で電卓を押し倒した。予想外のことに固まったままコテンと仰向けに転がる電卓の視界を、自分の視界で埋め尽くすように迫ると、一糸まとわぬまま隠しもせずにたっぷり時間をかけながら、吐息を重ね、唇と唇で愛を交わした。
「ば、ばかなのは、ど、どっち……だよ」
 乙女のように、ようやく恥じらう電卓の胸に、律歌は体を預ける。
「私……会いたかった、触れたかったのよ。目の前にこんな格好の私がいて、いつまで平然として会話してるのよばか」
 観念したようにおずおずと、電卓は抱きしめてくれた。律歌の体を隠すように、両腕の震えを止めるように、そして、次第に強く。
「……俺も触れたかったに決まってる」
「うん」
 乾いた心が満たされていく。
「モニター越しに、見せつけられるのは、もうまっぴらだ」
 彼のそんなぼやきに、笑いながら。
 こんなやり取りに、なんの意味があるだろう。でも、いまの、ここにあるこの単純な感情を守るためなら、これから先どんな難しい問題だって解いてみせよう。複雑な仕組みさえ、ゼロからだって作り上げてみせよう。全てを力に変えて。
 究極の理想主義者というのは現実主義者で、究極の現実主義者は理想主義者だ。
 現実に悲観して理想を理想のままにするくらいなら、そんな現実を直視する力を貸してほしい。代わりに理想をあげるから。
「……わかった。君と生きる」
 電卓が頷いて、そして、律歌をもう一度強く抱きしめた。ひとしきりそうしたあと、体を離し、立ち上がると、何かの端末機を取り出して操作する。その端末で天蔵世界の操作を行っているのだろうか。高速睡眠システムは今どうなっている? 世界と日本の現状は? 最新の情報を、いろいろと教えてもらわなくては。原理原則を見つめて、ブラックボックスをこじ開けていけば、現実なんていくらでも変えられる。
「あなたの作った世界も、まあまあ良かったわ。私、こんなに元気になったもの」
「ふーん」
「ま、一生そこにいるのは、私には物足りなかったけど!」
 偉そうに上から評価する律歌を、電卓はため息混じりに聞き流す。
 たとえいくら外で死の灰が舞おうと、一生、シェルターの中に引きこもる選択を律歌はしたくなかった。それこそ灰色の人生だ。でも、刹那の快楽に任せて外に無闇とふらふら出たいわけでもない。そうではない。そもそもそんなシェルターを使わなくてもいい世界を作ることを望むのだ。
「私ならもっと幸福な世界に出来るわ! 私も、あなたも、北寺さんも、労働者も、主婦も、精神科医も、偉い人も、そうでない人も、おじさんも、おばさんも、老若男女、みんな残らず、幸福な! 幸福ランキングぶっちぎり一位の、日本にしてみせる! 世界が羨むような……! いいえ、世界だってそう変えてやるわ!」
 そう宣言した時、ふと気がつく。
「そうよ……。考え方がそもそも浅かったのよ。みんなどーしてわざわざ苦しむ方向に頑張っちゃうのかしら? ブラック企業ばっかりできるのって、国民性の問題? だったら私が総理大臣になって、国民の意識を改革して……。いや、経済戦争に負けないために止む無く戦ったの? それなら敵は、世界……? もっと視野を広げて考えてみましょ……。敵というのは、最大の味方にもなるわ。そもそも自滅を招くような経済戦争なんて不毛なのよ、だったら、止められるはず……!」
 ぶつぶつと独り演説を開始する律歌に、電卓は呆れたように、白旗掲げたように笑った。その声に、律歌は背筋を伸ばし、
「あっ、でもでも、まずは着実な一歩を踏み出さなくちゃよね?」
「そうだね」
 ……大事なことを思い出す。
「なら、まずは服を着ることにするわ!」

 私なら、きっとできる。
 荷物は全部抱えたままでいい。
 目を開けてそのまま、夢に向かって歩いていく。
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