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第六章 境界線にて

8・もっと、先を、見てみたいから。

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 数日が過ぎた。今でもまだ、律歌は自分の過去、「起きた何か」を北寺に教えてもらっていなかった。
 北寺の方が先に、真実を律歌に告げることに対して心折れてしまったように、固く心を閉ざし、話そうとはしなくなってしまった。
「りっかがまた辛くなって、苦しくなっちゃう。そうして、また記憶を全部消してしまうかもしれない。……そんなの、いやだ。おれは、今の元気いっぱいのりっかに救われているんだよ。お願い、りっか。そんなもの、もう知ろうとしないで」
 そう言って、断るのだ。
 実際に律歌は、当時ふさぎこんだし、そして記憶も失くしてしまった。北寺には心配もかけたし世話もかけただろう。自分でも苦しみぬいた末に封じ込めた記憶を、無理に取り戻したりすれば、もしかしたらまた同じようなことになってしまうかもしれない。北寺がそんな事態を避けようとする気持ちもわかるし、記憶がないままでもいいんだよ、と現状を肯定し満足までしてくれて、そしてこの温かみをこの先も守ろうとしてくれることが、律歌にとって嬉しくないわけではなかった。
 でも、本当に知らないままでいいのだろうか。
 だって、ここの世界は限界がある。外には無限の可能性を感じる。
 ――だが、前に進もうとすると、過去の自分にぶつかった。ベッドに横たわっていた精神科医と名乗るあの患者に「末松律歌が日本を終わらせた」と言われたように。ずっと一緒にいた北寺も、律歌の過去の話は回避している。記憶をなくすほどの悪いことが自分の身に起きたのだ。ただ、一条一族の人間もあの場所に来ていて、律歌のことを何か言っていた。「一条グループを躍進させた」とか。全員何らかの関係者なのだろう。自分も何かに関わっていた。この世界を解明し、その結末を知るためには、そして、あの日胸に抱いた野望を実現するためには、自分の過去が必要だ。律歌は思う。知った上で、さらに前に進んでいきたい。ここで立ち止まり続けることを選ぶのではなく、これからの可能性の方を信じてさらに先へと歩いてみたい、と。
 そうして、いっそのこともう一度あの白い場所へ行って、話を聞いてこよう、と律歌が思うようになるのに時間はかからなかった。北寺には申し訳ないが、律歌は可能性を信じて前に進みたかった。過去の自分が何に絶望したかは知らないが、そこに何が待ち受けていようとも勇気を出してきちんと向き合えば、微かな光を見つけ出して掴めるのではないだろうか。恐れをなして蓋をしていれば何も失わない代わりに何も手に入らない。ここに来た当初空っぽだった自分のエネルギーがついに満杯になったまま持て余していると感じる毎日の暮らしがそんな結論を出し、この世界をここまで切り開いてきた冒険心がその決意を支えた。
 自分の過去を知っていそうなあの針間という精神科医に会って話を聞いてみるだけでも何かが変わる気がした。南という医師には針間には面会謝絶と言われたが、針間本人は何かを伝えたがっていた。場所はわからないこともない。とりあえず行ってみて、それから考えよう。外を知っていそうな人物の出入りのあったあの場所は、どうも普通の空間じゃないとも思えたが、おそらく物理的には行けるはずだ。鍵がかかっているかもしれないが、前のようにかかっていないかもしれないし、ここでの時間はまだまだたくさんありそうだ。まず、そこに行けばなにかが変わると思った。
「ちょっと行ってくるねー」
 と、軽い調子で北寺に断って、玄関に向かう。
「どこ行くの、りっか」
 そう簡単にはごまかしきれず、北寺に呼び止められた。
「えっ、と。ちょっと」
「すぐ帰るの?」
 律歌が過去を気にし始めてから、彼もかなり神経質になっているように見えた。今までの平穏な幸せな日常が少し変わってしまったことへ、後悔と躊躇いの念が僅かに律歌の心にも浮かんだ。
「ま、まあね」
「……ケーキ焼くよ。食べないの?」
「ん? 食べたいけど……」
「おれも行こうか?」
 何かを推し量るような目でしぶとく提案してくる。律歌はそれでも、一度決めたことをやめたりはしなかった。
「いや、北寺さんはケーキ作って待っててよ」
「ねえ、どこ行くの?」
 探るようにじっと見つめられ、律歌は視線を逸らす。どうしたものか。本当のことを言えば止められるだろうことは目に見えていた。
「ちょっと、ちょっとね、主婦三人組に、体のことで、相談事よ! 女性同士のね! あ、あはは」
 これ以上は異性には突っ込んで聞かれたくない話題なのだという空気を醸しながら、振り切るようにしてドアを閉めて言う。「じゃ、行ってきまーす!」なかなか卑怯な手を使ってしまった。
 北寺を何とかまき、道に迷いながらも森の中でマウンテンバイクを走らせた。ちなみに町の住人にもそれとなく自分の過去のことを知っているかどうか、北寺の目を盗んで聞いてはいたのだが、収穫はなにもなかった。
 森を行くこと三十分。位置さえ間違えなければ、あの特徴的な外観は見逃すことはない。とうふのような形をした建物。あった。幸い、見張り番もいないようだ。律歌は前のようにドアと思しき亀裂に振れ、回転扉を回して中へ入る。
「すいませーん。ごめんください」
 中は相変わらず薄暗く、病院のようなにおいが漂っていた。奥に置かれたベッドを見る。そこには影があり、微動だにしなかった。律歌が近寄ると、そこに横たわる針間はまた幾分やつれたような顔をゆらりとこちらに向けた。律歌は本当にここに来てしまってよかったのか、今更ながら二の足を踏む思いがした。相手は縛られているのだから自分は安全だが、もしここが病室だとすれば、勝手に入院病棟に入り込んで知らない人の部屋を開けているのと同じだ。嫌な思いをさせるかもしれない。でも、他に頼れる人もいなかったし、正当な手続きなんて知らない。知っていたとしても北寺の手前、できるわけもない。
 町の住民も、この場所のことは誰ひとりとして知らなかった。まあ、もし怒らせたら謝って逃げよう。そして何事も無かったかのように北寺と暮らそう。
「あ、あの、あなたは精神科医なんですよね?」
 律歌のその質問に彼は反射的に頷き、一拍置いて振り絞るように、「そうだ」と声を添える。
「私の記憶を復活させてほしいんです!!」
 彼はぼうっと律歌のことを見ていた。
「診察してくれませんか?」
 なにか対価を要求されるかもしれないが、その時はできる限り協力しようと思いながら。縛られている以上、不自由もあるだろう。
 律歌がそのまま少し待っていると、「そこ座れ」と言って丸椅子をちらと見た。律歌は言われたとおりにそこに腰を掛ける。今日も彼は拘束衣を着せられベッドに縛り付けられていたが、解放しろとは言われなかった。彼はなんだかぐったりとしていて沈黙の時間が長かった。かなり具合が悪いのだろうか。どんな病気なのだろう。だが、しばらくすると、律歌は小さな声で年齢や性別を(念の為だろう)を尋ねられた。さらに病状などの問診を受ける。意外にもその人は、面倒くさがったり、悪意ある言葉を向けてきたりはしなかった。きちんと診察してくれているのを律歌は感じた。
 高校時代からここに来る前までの記憶だけがすっぽり抜け落ちていることなどを律歌が話して聞かせると、針間医師は少し考えるようにまた黙って目を閉じ、そしてすぐに開いた。
「ストレスによる心因性の理由――精神的なショックで部分的な長期記憶のみをなくしているとみて間違いないね」
 と診断してくれた。その声に力はなかったが、はっきりと迷いがない。
「じゃ、薬を――」と、彼は長年染み付いた所作のように言いかけて、口を閉ざす。「抗不安薬は処方してやれん。悪いが。それでもいいと言うなら、記憶を元に戻す方法は、まあいろいろある」
「はい」
 望みが、形になっていく。律歌はここにきて正解だったと思うと同時に、込み上げる不安と、北寺に黙って一人で切り込んでしまっていることへの孤独感を覚えた。だが、前に進んでいくのが正解だと既に自分で答えを出した。それを阻むものは何であれ誰であれ邪魔でしかないのだと、覚悟をもって頷いた。
「一番手っ取り早いのが、記憶をなくすきっかけになった出来事に触れちまうことだ」
 針間医師にゆっくりとそう告げられる。記憶をなくすきっかけになった出来事? それってなんのことだろう。律歌が質問しようと時だった。
 足音が聞こえた。誰かが来る。
 あの小さな医者だろうか。もしかしたら、北寺が後をつけてきたのか? 恐る恐る律歌が振り返ると、そこには予想外の人物がいた。
「え、添田さん?」
 血相変えて、息を切らして、彼は飛び込んできた。ズレた眼鏡を指で直しながら、この前と全く変わらぬスーツ姿で。大慌てでログインしてきたのだろうか。律歌が記憶を手に入れようとするのを、止めるために?
「そういった詮索はおやめください、末松様。そんなこと聞いてどうするつもりなんですか? ここに住むのに、必要なことですかそれは?」
 必要なことですか? という質問は、天蔵カスタマーサービスに抗議の電話をした際にも言われたことだ。ここに住むのに必要か必要でないかと問われれば、必要の無いことかもしれない。でも、そんな理由で聞きたい訳でもない。律歌に構わず、彼は乱れた黒髪もスーツもそのままに矢継ぎ早にまくしたてる。
「はっきり言いましょうか。その記憶はあなたにとって不都合な、嫌なものだと思います。だからあなた自身、無意識に記憶を消したんです。しかも幸いにも、誰もあなたに思い出せと迫らない。忘れたままでいいんですよここでは。ね?」
 その通りだ。言われていることは理解できる。北寺もそれを恐れている。
 でも、それはつまり、現実から目を逸らし続けろということだ。どんなに暗くとも、その闇に向き合えば、そこに希望の光が見えるかもしれないのに。できない、不可能だと怖がって、理想の見えない人達のために、私はそんな希望からもずっと目を背け続けなくてはならないのだろうか。そんなのはお断りだと律歌は思った。
「ねえ、添田さんは私のことを知ってるの?」
「私は……」
 口ごもる添田。
 すると下から、うめくような小さな声が聞こえる。針間医師がなにかを言おうとしていることに気が付き、律歌は耳を傾けた。
「……言って、やれよ。ショック療法、だ」
 後押ししてくれている。だが添田は「思い出す必要は、ない!」と、言い放つ。しかしそれは虚勢を張ったように、どこか寂しそうだった。
「もう大丈夫だ」
 針間はそう言うと、細く長く息を吐いて、力尽きたように目を閉じた。
 添田は律歌に向き直って言う。
「律歌」
 温かいものを口に含めるように、律歌の名前を口にする。
「俺は君に笑っていてほしいんだよ。な?」
 両の人差し指で、律歌のほっぺたをつついてくる。律歌はそれで自分の顔がこわばっていることに気が付く。怖いことは怖い。自分が一体何をしたのかを知ることが。でも、それでも乗り越えてみせる。勝手に自分の限界を決めつけられることだけは嫌だと、思った。
 その時だった。何か大事なことを忘れているという焦りが胸の内に充満した。目の前のビジネス然としていた添田の顔の中には、赤く脈打つ血が通っている。隙なく着こなしているスーツの狭間には、知っている肉体がある。
「で、でん……たく」
 そんな単語が律歌の頭に浮かんだ。口が勝手にそう動いた。
「電卓? あなたのことを、そう呼んでいた気がするの。そうよね」
 はっと惚けたように無邪気に口を開ける彼。
 ああ、その顔も、なんだか懐かしい。愛おしい。
 それを感じるとともに、眠っていたシナプスが次々に活性化していくのを感じる。
 いろんなことがあったじゃないか。
 懐かしいものが、脳の中を満たしていく。
 見つけた。これは私の記憶だ。

 跳び箱をぱかっと開くと、そこには大真面目な顔であなたがいて。
――「電卓!」
――「なんだよ、そのあだ名は」
 添田卓士、略して電卓だなんて私が名付けたの。

 そう、思い出した。
 あの日の電卓も、そうやってぽかんと口を開けて、それから遅れて笑ったのよ。
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