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第五章 あの空の向こう

3・気球は売ってない! でもあきらめる気はありません!

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 そうして翌日から翌々日にかけて北寺は持てる知識と天蔵サービスをフル活用し、気球を手作りしてくれた。
「いや~、やってみると意外とできるもんだね……。ミシン三台壊したけど」
 厚手のレジャーシートを十五メートルほどになるまで繋ぎ合わせていき、さらにそれを複数面組み合わせて、膨らませば球体になるように縫う。無地のものから園児が遠足で使うようなゆるキャライラストのシートまで、パッチワークキルトのように様々な柄入りのなんだかがちゃがちゃとした球皮となったが、それはご愛敬。
「原始的な乗り物だから、人を乗せて一回浮くくらいならなんとか、うん。行けると思う。でも消耗も早いと思うし、天蔵に止められるかもしれないから、一回限りね。いい?」
「わかった! ありがとう北寺さん!」
 それから一軒に一台支給されていたプロパンガスのボンベを載せ、緊急用の消火器を積み込む。
 北寺が制作に追われている間、律歌はイメージトレーニングを欠かさなかった。北寺は下から無線機で指示を出す係であり、乗り込むのは律歌一人だけ。
 今日は天気がよく気候も穏やかな気球日和の日だった。篭に球皮を畳んでしまったまま広い場所まで運び出して、それから二人で一面に広げていく。まだこのままではぺしゃんこだ。北寺は両手で、球体の底部分にあたる口を大きくひらけるようにして、風を受けて立ってくれている。律歌は扇風機十五台を回して球皮に空気を送り込む。
「北寺さん、そろそろー!?」
 球皮が膨れて少し気球らしい見た目になってきたころ、風の圧と轟音に負けぬよう大声で確認する。
「そうだね!! よし、いいかな! はい、火出して!」
 北寺が離れてそう合図を出すと同時に、
「やーあ!」
 律歌が火炎放射。火によって空気が温められ、気球のバルーン部分が軽くなり、空中に持ち上がり始める。
「よしよしよし!!」
「北寺さん! 篭、浮いちゃわない!?」
「まだ大丈夫。おれも押さえる」
 北寺が急いで駆け寄り、体重をかけ篭を押さえる。律歌はすでに篭の中にスタンバイ。
 高い位置から見下ろせられればいいだけなので、気球の周囲四方を生えている木や軽トラックにロープで留めておくことにした。こうすれば上下のみの浮遊になる。どこか予期せぬ場所まで運ばれてしまうといったこともない。
 気球はすっかり持ち上がり、空へ向かうようにまっすぐ垂直に立った。見上げるほどの高さだ。
「心臓が口から出そう」
「おれもだよ」
 北寺はそう言うと律歌の手に無線機を握らせる。
「ちょっとずつゆっくり降りてこれば大丈夫。降りるスピードが速いなと思ったら、温めればまた浮かぶからね。多少急に落下しちゃったとしても、クッションいっぱい入れてあるから、なんとかなる。変に焦って引火して火災、とかが一番最悪だからね」
「うん」
「おれは律歌のことを見てるよ」
「うん」
「それじゃ、行っておいで」
 律歌は無線機を首から下げると、バーナーの引き金を再度引く。ほどなくして、篭が地面から離れるのがわかった。エレベーターが上昇するように、静かに浮上する。北寺はまっすぐ、律歌を見ていた。
「行くわ……!」
 律歌はまっすぐ、空を見つめる。
 ロープは三キロメートル弱用意してある。上まであがれば山の向こう側は一望できるだろう。律歌は引き金を何度も引く。キャンプ用品の家庭用バーナーを組み合わせて火力を増しているので、両手が忙しい。だが頑張って両手で引いていると気球は温められてぐんぐん上昇し、家の屋根くらいはすぐに越えた。どんどん小さくなっていく風景。その中に、無線機を手にしている北寺の小さな姿があって、自転車で一緒に走った道が伸びていて。律歌はこの胸の高鳴りを伝えたくなってきて、片手を無線機に持ち替える。
「あはっ、こちら律歌! 本日は晴天なり! CQ、CQ! オーバー」
 北寺に無線の使い方を教えてもらうときに聞いた単語を並べていると、蟻のように小さな彼が、口元に受話器を持っていくのが微かに見えた――「あんまり調子に乗ってると、落ちるよ」叱られた。しかし律歌の高揚感は留まることを知らない。
「さて、こっからが本番よね……。ループする山の向こう側、確かめてやるわ!」
 そうしてまだまだ上昇している時だった。気球日和だった空の雲行きが、なんだか怪しくなってきた。強風に煽られ始める。
「りっか大丈夫? 風はどう? どうぞ!」
「風、すごく強い! 流されるの……っ。でも、まだいけるわ! オーバー」
 無線機からは北寺の声が頻繁に聞こえてくる。
「りっか! 無理しないでもう降りてほしい。気球ならまた作れるから! どうぞ」
「まだ大丈夫!!」
 さらに風が吹いてロープが引っ張られ、高度が上がらない。目の前には山脈の壁。だが、ほぼ同じ高さだ。もうあと少しで山の向こうが見晴るかせる。
「りっかーっ!! ねえっ、本気で危ない! 降りて!」
 悲鳴にも似た北寺の声が響き渡る。
「いやだ! もう少し、このまま飛ぶわ!」
 エレベーターのように静寂だったバスケットの中は、今や暴風に煽られて無線の声も聞き取りづらいほどだ。「降りて! 降りて!」という単語だけ繰り返されて何度も耳に届く。北側のロープがぴんと張って、風に押されるたびに不安定な角度に傾きながらぐらつく。あと少し上の方向に行ってくれれば、南の山の向こう側が見える。風のせいで気球が斜めになりながら浮いているのが、乗っていても感覚でわかる。しかし、あと少しなのだ。見るだけでいい。
「……もうっ、どーして、こんなタイミングでこんな風が吹くのよ! 信じらんない……っ!」
 篭の中でぴょんぴょん跳ねようとして、あやうく落ちかけてやめる。背伸びをしても、視界が届かない。パイロットが長身の北寺だったら向こう側も見えているだろうか。風は止まず、それどころかますます強くなるばかりで、篭の傾きは急角度になる。風にあおられているせいで皮膚呼吸もままならない。さらなる突風に、篭の中で体が一瞬浮いた。
「このままじゃ……そうだ!」
 首から下げた無線機を吹き飛ばされないようにしっかり掴みながら、律歌は受話口に向かって叫んだ。
「もう、ロープ切って! オーーーバーーーーー!」
 がたん、と篭が大きく傾く。その衝撃が四回。その瞬間、風の音が消えた。風圧も一切無くなった。景色だけが一気に小さく、視界が広くなる。気球は地上から完全に切り離された。風に乗り無音。風と一体になり無風。北寺の作った気球は、律歌を一人乗せて、高く高く上がっていく。止めるものはもう何もない。律歌は自由の身になって、空をまっすぐに突っ切って、天高く昇っていく。どこまでも。どこまで行くことになるのか、律歌も、地上にいる北寺にもわからない。風次第だ。清々しい。地上にしがみついて落ちるより、風任せに空を進む方がずっといいな。その瞬間だけは、恐怖心も忘れ、悠大な心地よさに酔うしかなかった。いや恐怖さえ、それを引き立たせるスパイスのように、全部抱きしめて味わっていた。そうして、律歌は山頂を越えた。視界が、この世界が、小さく模型のように丸くまとまって、そして新たに明らかになる、その外側には――
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