雨の庭【世にも奇妙なディストピア・ミステリー】

友浦乙歌@『雨の庭』続編執筆中

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第五章 あの空の向こう

4・私は今、神に相対している。

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「え……」
 目を疑った。
 そこには何もなかった。
 皓々たる「無」のグレーの空間。
 言葉を無くした。
 あまりにも広大なのか、それとも眼前にひどくなめらかな灰色の壁がそそり立っているのか――そうどちらとも判断さえつかないほどに、光もなく影もない。凹凸もない。そもそも質量を感じない「無」の空間があった。
「これは……なに?」
 自分が動いているのか止まっているのかも、わからなくなる。
 気づいたら自分は三百六十度グレーの背景にすっぽり包まれていた。
「ここ……どこ……?」
 その時、
「こんなところまで来てはいけないよ。律歌」
 聞き覚えのあるような男の声が聞こえた。
 律歌ははっとして周囲を見回す。右、上、下。見つけられなくて視線を元に戻すと、目の前に黒いスーツの黒髪の、眼鏡をかけた男性がまっすぐ立っていた。
「え……」
 グレーの空間の中、人が浮いている? のか?
 ここは空の上のはずだ。
 いったい何が起きているんだ? 律歌は思わぬ出現に呼吸も忘れて黙り込んだ。
 細いフレームに支えられたレンズの奥、理知的な瞳が、細められて律歌をとらえている。まっすぐな佇まい、そしてこの不可解な状況から、
「あなたは……、……添田さん? カスタマーサービスの……」
 律歌はそう問いかけた。呼びかけに、無言でじっと見つめ返される。違うだろうか? 怪訝に思われた感じとはまた違う、思い詰めた表情をしている。
「そう……よね?」
 律歌には不思議と、添田だという確信があった。理性とは別の感覚で。
「……ええ、そうです。カスタマーサービスの、添田です」
 耳に聞きなれた自己紹介文。そこでふと、さっきの自分への呼びかけが敬語ではなかったことに遅れて気が付いて身構えた。
 この人は、何かの素の顔を見せてきている。得体のしれない力を持つ相手。絶対的な優位性を持っている相手。込み上がってくる恐怖を無理やり鈍麻させ、律歌は言葉を投げかける。
「やっぱりそうね。あなたは、何者なの? ここはどこ? この空間は何? ねえ、天蔵って、何?」
 上に上に上がっていったら、こんなところにたどり着いてしまった。目の前に浮いている、人智を超えた存在。記憶をなくした自分が、幻覚を見ているのでないとするならば、導き出されるのは……?
「ねえ、もしかして……ここは、天国なの?」
 自分の口から出た言葉に律歌は動揺しながらも、諦めのような感情が沸き起こる。そうかもしれない。ここ、というか、住んでいた一帯の場所は――そう、地上には存在しない場所なのではないだろうか。だって不可解な現象が多すぎた。いっそ、天国に来てしまっている方が納得できる。自分は既に、自殺していた、とか。
 彼は浮いたまま眼鏡を外して、胸ポケットにしまうと、視線を逸らした。
「ある意味、天国に一番近いかもな」
 独り言のようにつぶやく。節度を弁えた仕事人の印象が、同じくらいの年のただの青年に変わる。
「ここは楽園なんだから。アマトもそう言ってただろ」
「……うん」
 それは毎朝繰り返した押し問答だ。
 じゃあ……
「私は、死んでいるの?」
 添田は黙っている。死後の世界なの? 今までのことは、ずっと? 
「ここが天国なら、アマトは天使?」
「あ……、うん。そうだな……」
 彼は冗談を流すようにぎこちなく笑った。心ここにあらずといったような印象を受ける。
 住民に、衣食住を無料で配給する。それってまるで――
「じゃあ天蔵は――神様?」
 木陰で雨を凌がせ、木の葉で体を隠させ、林檎を食べさせるのと同じように。
「あ、だから空も飛べるの?」
「ああ、そうかもしれないね」
 今度は目をわずかに細め、これは、微笑んでいるように見えるが、気のせいだろうか。
 神。
 だとしたらなんだか見た目はとても人間のような神様だ。さっきまで眼鏡までかけていた。そうして無防備な儚い微笑を浮かべているだけの――緊張感と夢心地の只中にいるような表情。緊張? 神が緊張するのだろうか? でも目の前に立つ若い男性は、たしかに張り詰めるように震えていた。反応が、ワンテンポ遅い。なんだか律歌の方が落ち着いてくるほどに。
「じゃあ神様、質問させてください」
「なんだい」
 彼はやさしげな口調で、注意深く耳を傾ける。おどけて冗談に付き合っているようにも見えるが、まるでそうして会話すること自体に何か意味があるかのような、惚けている瞳で。
「どうしてループしているの? それにどうして、山の向こう側には何もないの?」
「そこまで辿り着く住人は出ないと想定していたからだよ。正直、侮っていたんだ」
「どういうこと?」
「ここまで来られたご褒美に、教えてあげようか」
 彼は一瞬思慮深く視線をグレーの天に彷徨わせてから、語り出す。
「ループしているのは、サービスを順次拡張していく予定だったからだよ。まだβ版だから隣町は作っていなかった。あの山は、そもそも越えるなんてことは誰も考えないくらいの高さにうまく設定したつもりだった。万一深く入り込みすぎたり何らかのはずみで山を越える人が出てもよっぽどバレないようにループに設定しておいたんだ。まさか、おもちゃのラジコンを改造して越えるとは思わなかった。それでそのあと、気球に乗って越えてくるなんて」
 サービスを順次拡張? あの無機質な電話応対の時とは打って変わって、律歌に聞いてもらいたい言葉が口からあふれ出て止められぬように。ほとんど意味はよく分からなかったが。
「そんなの……やるに決まっているわ」
「いやいやいや! わざわざ、そんな危険なことする必要なんてないのに……!?」納得がいかない様子だった。「ここで、無くてはならないものはすべて手に入るんだからさ。買い物に行く必要もない。そうだろ?」
 食料も、服も、住処も家具も、娯楽も。働かなくても、生きていくのに必要なものはすべて天蔵から提供される。
「今だって、あそこまで風が吹いたら、気球飛ばすの中断して降りるだろう? なんでさらに登ろうとするんだよ、びっくりだよ!! まったく、死ぬ気かと思ったんだよ」
 信じられない、とこちらを見つめる瞳が訴えていた。
「もう行っちゃえって思ったの」
 律歌は本音で答える。
「その先のことは、考えていなかったのかい?」
「考えていなかった。けど、ここで死ぬなら、その時はもう仕方ないって、思っていたと思う」
 添田は言葉を探すように口をぱくぱくと開け閉めしている。
 平穏無事に暮らしていこうと思えば、いくらでも暮らせただろう。けれど。
「私は、そうはなれなかった」
 律歌は断言した。
「胸が高鳴る、心が叫ぶ。だから今は、生きていることを感じているの」
 添田は言われたことを何度も反芻するように口をもごもごさせている。
 律歌は続けた。
「そうは思わない? 山の向こう、空の向こう、私は見てみたかった! 気球に乗って確認するだなんて、もうわくわくしたわ!」
「でも、だけどさ、一歩間違えたら死んでたかもしれないんだよ」
 添田は口をとがらせて言い返してきた。律歌は即答する。
「でも見たかった」
「死ぬよりも、そうしたかったの?」
「死ぬことなんて考えてなかった」
「そんなだから、死にそうになるんだよ! 結果今こうして俺が助けてるんじゃないか」
「一応北寺さんと計画した上でやったわよ。それでも死にそうになるなら、あなたがまた助けてよ」
 こちらを見つめ返す彼の呆れたような表情の中に、諦めが滲んでいくのが見えた。
「なんでこのサービスだけで満足しないんだよ。ここ、悪くないと思うんだけどなあ」
 いじけたようにどこかやけくそにぼやく神に、律歌は励ますように言った。
「いいところだと思うわ。でも、もっと面白いことがあると思ったし、外に出て私はやりたいことがあるの」
 自分には野望だってある。
「ここで叶えられる範囲で叶えたらいい」
「ダメよ!」
 律歌はまっすぐ見据えて言った。「それじゃダメ」
 頑として譲らないままいると、「どうすればいいって言うんだよ」と、添田はわしわしと頭を掻いた。
「私に力を貸して。本当の意味でみんなが心から生き生きしている世界を作ってみせるわ。ここより遥かに面白いものに溢れた世界よ。でもそれにはあなたの力もきっと必要ね」
 律歌は気球をから身を乗り出して、添田と同じく無の空間に降り立つ。そして手を差し出した。すると添田は一瞬、目を閉じた。痛ましいものから目を背けるように。律歌はその表情にチクッと不安を覚えたが、その違和感はすぐに消えた。
「ああ……俺は普通に、幸せに暮らしてくれればいいと、思ったんだけどな……」
 彼は悔しそうに口をへの字に曲げると、かすかにそう絞り出す。
「やっぱ、律歌は、律歌だなあ……」
 呆れたような、感心したようなニュアンスだった。こぼしたようにふうっと笑った。差し向ける視線は温かかった。予想外に表情豊かな人だった。律歌は、くるくると変わる彼の喜怒哀楽を、ぽかんとしたまま見つめていた。なんなのだろう。誰なのだろうこの人は。まるで昔からの知り合いかのように、自分のすべてを知っているかのような雰囲気で――、ああそうか。
「神はなんでもご存じなんですね」
 律歌がそう声をかけると、彼は差し出しかけた手をひっこめた。言葉を探すように視線を彷徨わせ、しばらく黙り込んでいた。まるでショックを受けたようなその様子に、律歌は言ってはいけないことを言ってしまったのかと口をつぐんだが、神の思考など考えてもわからなかった。彼は最終的に、神妙な顔つきで眼鏡をゆっくりとかけると、頷いた。
「ああ。そうだよ……。さあ、もう戻るんだ、律歌」
 律歌の肩を掴んで向きを変えさせる。
「あの……?」
 戸惑う律歌に、彼は返事をせず黙って背中を押す。
「……最後に……。頼むから、あんまり無理をしないでくれ。今回は、例外だ。……次は、もう助けない」
 彼が最後にそう言い切る時、とても冷徹な目をしていたのを律歌は見てしまった。さっきまでと別人、というわけではない。それは表裏一体のもので、その冷たさは、極寒の地に似ていて、その凍てつくような寒さで氷から始まるすべてを守っているかのようで、そしてそれによって生かされている自分がいるようで、畏怖の感情を持たずにはいられなかった。宗教など大して関心のない律歌であったが、自ずと心に浮かんだのは、まさしく神という言葉であった。
 ああやっぱり私は今、神に相対している、と。
「君は、そこで幸せに暮らすんだ。それじゃあね」
 同じような年齢で、同じ言葉を話しているのに、そこには人類を種族のレベルから超越した力がある。見つめ合っていても、厳然と隔てられ、見上げるほどの場所に彼はいる。
「待って! 待ってよ……」
 こんな目の前にいるのに、手を伸ばしても、届かない。ふと、それを切なく悲しく感じた。気のせいかもしれない。なぜこんな風に悲しく思うのか、律歌には自分で自分の気持ちがわからない。

 添田はひどく焦った。
 律歌が記憶を取り戻してしまったと思った。忘れているべき、あの日々を。

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