明治仕舞屋顛末記

祐*

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第一部 《鬼手》と《影虎》

《鬼手》の過去(五)

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 掟では、隊から逃げ出すことは、切腹ものの御法度だった。
 しかし、隆二には追っ手がかからなかった。
 それが意味するところは、やはり、四番隊などと称して子供のお遊びに付き合ってくれていただけなのかもしれない。
 皆、幼いならがも奮起する隆二を受け入れてくれていたことを知っているはずなのに、そんな卑屈な考えが浮かんでくる自分が、嫌になってくる。

 人目を避けるように山中を進んで、ようやく江戸の北に着いた頃には、あの晩から既に三日程経っていた。
 皮肉にも、教えられた剣術や体術、仕込まれた生きる術の数々は、食糧を狩るのにも役に立ち、以前のように飢えて行き倒れることもなかった。
 今まで信じていたものが足元から崩れて、心は打ちのめされたのに腹は減るんだな、などと知りたくもなかった発見を嗤いながら、獣のように獣を狩り、食した。

 ——生きてやる

 隆二に芽生えた、諦め切った以前とは異なるその力強い意志は、確かにあの男からもたらされたもので。
 生き永らえ、そんな命でも役に立つのならと付き従った男が見せた、狂気の片鱗に触れても、最後に隆二に向けて放った言葉は、どこか己を嘲るようなもので。
 混乱した思考で無意識に逃げ出したものの、どうすれば良かったのか、隆二はわからない。

 ただ、自分にも誓った志があった。しかなかった。
 だから、ただひたすらに江戸を目指したのだ。
 ずっと己の居場所だと思っていた場所から逃げ出して、志を持って他に行く処と行ったら、一つしか思い浮かばなかった。
 三田の藩邸は焼けてしまったが、たまたま外出していた相楽の家族は、未だ江戸の知人宅で世話になっている。
 隆二は、その屋敷を前にして、苦悩した。
 まだ、彼らの日常を守ることが出来るのなら。
 夫を信じ、父を信じた彼らから、それを奪ってしまわぬように。
 けれど、どう伝えれば良いのか、どうやってこの弱い腕で守ればいいのか。

 もしかしたら、もう彼らは知ってしまって、ここにはいないかもしれない。

 ありもしない捻くれた期待をしながら、隆二は裏口からこっそりと忍び込み、屋敷の縁側が見渡せる茂みに腰を下ろす。
 さて、どうするか。
 ぐっと握った拳を額に当て、眉間に皺を寄せながら、隆二は半刻ばかりそうしていた。

「りゅう……?」

 どきりとする。
 茂みに身を隠していた筈なのに、幼い瞳が覗き込むようにして、隆二を見ている。

「小友理、おまえ……なんで」
「かあさまが」

 幼子が指し示す方向に、息子を抱えながら背筋を伸ばして、凛と見据える人影がある。
 ごくりと喉が鳴った。
 彼女は知っているのか。それで自分を探したのか。
 
——否

 河次郎を抱える照の手元が震えていた。
 隆二は、意を決して茂みから歩み出た。

「隆二……良い知らせでは、ないのでしょう」

 覚悟を決めたように、真っ直ぐと射る視線に、隆二は目を逸らす。

 ——言えるわけが、あるか

 この人の夫が、信じていたあの人が、全て偽りだったなんて。
 江戸の町を斬り捨てて、家族をも焼き捨てることを厭わず、民衆を騙してまで、己の欲を通そうとしていたなんて。
 何もかもから逃げ出して、ここへやってきた隆二が、到底言えるはずがなかった。
 まだ九つだと言っても、男子なりの矜持がある。

「違うんだ、照さん。相楽さんから、伝言を預かってきた」

 ならば、今出来ることといったら、隆二にはこれくらいしか思いつかない。

「京で、戦が始まったのは知ってるかい」
「聞いております」
「なら、話が早ぇ。江戸も安全じゃねぇから、子供を連れて、小島を頼れって」
義姉あねを……?」

 その名前は、以前相楽から聞き及んでいた。だから、咄嗟に口から出た。
 無力すぎる自分の腕で守れないならば、せめて争いの中心から、戦さ場となるやも知れぬこの地から、遠ざけたい。
 何も知らないこの人たちを守るには、こうするのが一番いい。

 一瞬訝しんだ照を、隆二は懇願するように見つめる。
 その真剣な眼差しに、照はほぅと息を吐くと、隆二の頭に手を置いた。

「よう、知らせてくれました。直ぐに支度をして、発ちます」

 照の言葉に、ほっと胸をなで下ろす。照はそのまま、娘の手を引いて、屋敷の中へ入っていった。
 だが、その背が消える寸前に、ちらりと隆二を見る瞳が揺らいだように見えて、隆二は胸が痛んだ。

 けれど、それでも、守りたかった。
 己の志とやらを貫くのなら、どうやっても守るのだ。
 母の温もりを知らぬ自分に、優しくしてくれたこの女性だけは、悲しませてはならない。
 隆二の後をついて回っては、世話の焼ける妹弟に、あんな父親の姿だけは、見せてはならない。

 ——そして

 父の面影を重ねたあの人を、止めなければならない。

 あの人がここ、江戸で行ってきたこと。
 そして、今まさに、行おうとしていること。
 唯一それを知る自分が逃げ出すべきではなかったのだ。
 彼が未だ志士として闘う心が残っているのなら、隆二にもまだ、出来ることはあるはずだ。

 見えなくなった親子を確認すると、隆二は今来た道を全速力で駆けていった。
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