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第一部 《鬼手》と《影虎》
《鬼手》の過去(六)
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随分と役に立つと誉められていた鍛えた脚力で、隆二は寝る間も惜しんで走った。
その道のりで、隆二は己の目耳を塞いでしまいたかった。
行軍の道中、あれほど沸き立った民衆が、赤報隊の名前を耳にする度、憎悪の表情で『偽官軍』だと罵った。
ある農村では、働き盛りの男衆を騙し取られたと、藩主へ隊の討伐を嘆願していた。
ある町では、掌を返した商人たちが躍起になって、掠奪された、と自ら差し出したはずの金穀を取り戻そうとしていた。
——ただ、世を良くしようと
その想いは確かにあったはずなのに、どこで違えたのだろう。
志は変わらないはずなのに、どうしてこんなことになったのだろう。
陽の落ちた山道で焚き火を眺めながら、隆二は膝を抱えた。
ゆらゆらと揺れる炎がちりちりと頰を熱して、その暖かさと対照的に、その向こう側の森の闇が一層深まって見える。
あの漆黒に手を伸ばして、もう一度彼の心を見つけなければならない。
ただ、あの日背を向けてしまった彼の声音に、答えなければならない。
たとえ空恐ろしい物の怪が転び出るかもしれなくても。
——俺は、相楽さんの心を知りたい
その中には、未だ揺るがない志があるはずだから。
己が触れることで、せめて思い出して欲しい。
あの頃の、初めて隆二に見せた優しい微笑み。
小友理や河次郎に向けた破顔。
志を胸に蜂起した浪士隊を、あの穏やかな団欒を、犠牲にして得た成果は、果たしてその志を満たしてくれるのか。
未熟な隆二の言葉など価値などないかもしれぬ。
けれど、隆二の中の志が、戦えと叫んでいる。
刀を交える戦は無理だとしても、あの家族を守るためには、為損うことを恐れずやらなければならない。
ぎゅっと目を瞑って、眠ろうとする。
ぱちぱちと焚き火の爆ぜる音だけが、鬱蒼とした闇に響いている。
うとうととし始めた隆二は、わずかな違和感をもって身じろぎした。寝苦しさは、硬い地面と渦巻く感情だけではないようだった。
ゆっくりと目を開く。小さくなった炎の向こうで、がさりと木々が揺れた。そして、鼻を突く異臭。
隆二は舌打ちする。野犬か何かが獲物を捕らえたのだろうか。血生臭さが、辺りに充満していた。
焚き火があると言っても、眠っていては襲われかねない。懐の短刀に手をかけて、そろりと立ち上がる。
慎重に足を運んで、茂みをゆっくりと搔きわける。
「……っ」
人が、木の幹に身を預けていた。暗くてよく見えないが、漂う臭いから、相当の出血量だとわかる。
駆け寄って、ゆっくりと顔を上げたその人物に、隆二は息を呑んだ。
「油川さん!」
先日まで、頑張って俺のところまで上がってこい、と笑っていた顔。赤報隊三番隊の隊長である油川その人が、血濡れでそこにいた。
「……りゅ……じ? おまえ……どうして……」
「油川さん! しっかりしてください! 何があったんですか!?」
「新政府が……裏切った……」
「え?」
「相楽隊長が……出頭したのを……見計らって……あいつが」
ごほごほと咳き込むと同時に、大量の血反吐を吐いて、油川は隆二に縋りつかんばかりに言い募る。
「あの、御影……赤報隊を……殲滅に……」
「殲滅……!?」
「《影虎》が……人斬りが……」
どくん、と鼓動が跳ねた。
御伽噺。勧善懲悪。
『味方の窮地に現れ、敵を倒し、颯爽と去っていく』
偽官軍、逆賊と称された赤報隊は、新政府軍にとっては敵で。
完全無欠の暗殺部隊が成敗すべきは。
油川の手が、隆二の着物を掴んで、震える。
「江戸に……助けを……呼び……」
そこで大きく咳き込むと、その身体はぐらりと地面へと傾く。受け止めた隆二の手に、ぬるりとした感覚があり、慌てて手を離すと、油川はそのまま動かなくなった。
しばらく呆然とそれを眺めて、隆二はハッとする。
転げるようにして茂みを飛び出し、荷物をかき集めて、松明を片手に森を駆け抜けた。肺が潰れそうになっても、足が悲鳴を上げても、隆二は一心不乱にその場所を目指した。
数刻ほども走り続けただろうか。
次第に例の臭いがきつくなってくるのがわかった。
汗を拭うことも忘れて、隆二は眼前の光景にただ立ち竦んでいた。
——夥しい数の、骸。
たった数日前に設営した陣が、今や地獄と化している。
たった数日前に言葉を交わした隊士たちが、血濡れで地面に伏している。
震える手で、天幕の中から見覚えのある黒羽織を拾い上げた。
ぼたぼたと落ちる雫は、汗なのか、涙なのか。
口から溢れるのは、悲鳴なのか、慟哭なのか。
***
明治の元号が布告されてしばらく。
峠に悪鬼が出る。
そんな噂が立っていた。
地を駆け、無手で獣を狩り、肉を喰らい、血を啜る。
黒羽織を引きずりながら、夜な夜な峠を渡り歩いているその鬼は、まるでこの世の全てを拒絶するような暗い目をしているという。
その道のりで、隆二は己の目耳を塞いでしまいたかった。
行軍の道中、あれほど沸き立った民衆が、赤報隊の名前を耳にする度、憎悪の表情で『偽官軍』だと罵った。
ある農村では、働き盛りの男衆を騙し取られたと、藩主へ隊の討伐を嘆願していた。
ある町では、掌を返した商人たちが躍起になって、掠奪された、と自ら差し出したはずの金穀を取り戻そうとしていた。
——ただ、世を良くしようと
その想いは確かにあったはずなのに、どこで違えたのだろう。
志は変わらないはずなのに、どうしてこんなことになったのだろう。
陽の落ちた山道で焚き火を眺めながら、隆二は膝を抱えた。
ゆらゆらと揺れる炎がちりちりと頰を熱して、その暖かさと対照的に、その向こう側の森の闇が一層深まって見える。
あの漆黒に手を伸ばして、もう一度彼の心を見つけなければならない。
ただ、あの日背を向けてしまった彼の声音に、答えなければならない。
たとえ空恐ろしい物の怪が転び出るかもしれなくても。
——俺は、相楽さんの心を知りたい
その中には、未だ揺るがない志があるはずだから。
己が触れることで、せめて思い出して欲しい。
あの頃の、初めて隆二に見せた優しい微笑み。
小友理や河次郎に向けた破顔。
志を胸に蜂起した浪士隊を、あの穏やかな団欒を、犠牲にして得た成果は、果たしてその志を満たしてくれるのか。
未熟な隆二の言葉など価値などないかもしれぬ。
けれど、隆二の中の志が、戦えと叫んでいる。
刀を交える戦は無理だとしても、あの家族を守るためには、為損うことを恐れずやらなければならない。
ぎゅっと目を瞑って、眠ろうとする。
ぱちぱちと焚き火の爆ぜる音だけが、鬱蒼とした闇に響いている。
うとうととし始めた隆二は、わずかな違和感をもって身じろぎした。寝苦しさは、硬い地面と渦巻く感情だけではないようだった。
ゆっくりと目を開く。小さくなった炎の向こうで、がさりと木々が揺れた。そして、鼻を突く異臭。
隆二は舌打ちする。野犬か何かが獲物を捕らえたのだろうか。血生臭さが、辺りに充満していた。
焚き火があると言っても、眠っていては襲われかねない。懐の短刀に手をかけて、そろりと立ち上がる。
慎重に足を運んで、茂みをゆっくりと搔きわける。
「……っ」
人が、木の幹に身を預けていた。暗くてよく見えないが、漂う臭いから、相当の出血量だとわかる。
駆け寄って、ゆっくりと顔を上げたその人物に、隆二は息を呑んだ。
「油川さん!」
先日まで、頑張って俺のところまで上がってこい、と笑っていた顔。赤報隊三番隊の隊長である油川その人が、血濡れでそこにいた。
「……りゅ……じ? おまえ……どうして……」
「油川さん! しっかりしてください! 何があったんですか!?」
「新政府が……裏切った……」
「え?」
「相楽隊長が……出頭したのを……見計らって……あいつが」
ごほごほと咳き込むと同時に、大量の血反吐を吐いて、油川は隆二に縋りつかんばかりに言い募る。
「あの、御影……赤報隊を……殲滅に……」
「殲滅……!?」
「《影虎》が……人斬りが……」
どくん、と鼓動が跳ねた。
御伽噺。勧善懲悪。
『味方の窮地に現れ、敵を倒し、颯爽と去っていく』
偽官軍、逆賊と称された赤報隊は、新政府軍にとっては敵で。
完全無欠の暗殺部隊が成敗すべきは。
油川の手が、隆二の着物を掴んで、震える。
「江戸に……助けを……呼び……」
そこで大きく咳き込むと、その身体はぐらりと地面へと傾く。受け止めた隆二の手に、ぬるりとした感覚があり、慌てて手を離すと、油川はそのまま動かなくなった。
しばらく呆然とそれを眺めて、隆二はハッとする。
転げるようにして茂みを飛び出し、荷物をかき集めて、松明を片手に森を駆け抜けた。肺が潰れそうになっても、足が悲鳴を上げても、隆二は一心不乱にその場所を目指した。
数刻ほども走り続けただろうか。
次第に例の臭いがきつくなってくるのがわかった。
汗を拭うことも忘れて、隆二は眼前の光景にただ立ち竦んでいた。
——夥しい数の、骸。
たった数日前に設営した陣が、今や地獄と化している。
たった数日前に言葉を交わした隊士たちが、血濡れで地面に伏している。
震える手で、天幕の中から見覚えのある黒羽織を拾い上げた。
ぼたぼたと落ちる雫は、汗なのか、涙なのか。
口から溢れるのは、悲鳴なのか、慟哭なのか。
***
明治の元号が布告されてしばらく。
峠に悪鬼が出る。
そんな噂が立っていた。
地を駆け、無手で獣を狩り、肉を喰らい、血を啜る。
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