18 / 28
第一部 《鬼手》と《影虎》
《鬼手》の過去(六)
しおりを挟む
随分と役に立つと誉められていた鍛えた脚力で、隆二は寝る間も惜しんで走った。
その道のりで、隆二は己の目耳を塞いでしまいたかった。
行軍の道中、あれほど沸き立った民衆が、赤報隊の名前を耳にする度、憎悪の表情で『偽官軍』だと罵った。
ある農村では、働き盛りの男衆を騙し取られたと、藩主へ隊の討伐を嘆願していた。
ある町では、掌を返した商人たちが躍起になって、掠奪された、と自ら差し出したはずの金穀を取り戻そうとしていた。
——ただ、世を良くしようと
その想いは確かにあったはずなのに、どこで違えたのだろう。
志は変わらないはずなのに、どうしてこんなことになったのだろう。
陽の落ちた山道で焚き火を眺めながら、隆二は膝を抱えた。
ゆらゆらと揺れる炎がちりちりと頰を熱して、その暖かさと対照的に、その向こう側の森の闇が一層深まって見える。
あの漆黒に手を伸ばして、もう一度彼の心を見つけなければならない。
ただ、あの日背を向けてしまった彼の声音に、答えなければならない。
たとえ空恐ろしい物の怪が転び出るかもしれなくても。
——俺は、相楽さんの心を知りたい
その中には、未だ揺るがない志があるはずだから。
己が触れることで、せめて思い出して欲しい。
あの頃の、初めて隆二に見せた優しい微笑み。
小友理や河次郎に向けた破顔。
志を胸に蜂起した浪士隊を、あの穏やかな団欒を、犠牲にして得た成果は、果たしてその志を満たしてくれるのか。
未熟な隆二の言葉など価値などないかもしれぬ。
けれど、隆二の中の志が、戦えと叫んでいる。
刀を交える戦は無理だとしても、あの家族を守るためには、為損うことを恐れずやらなければならない。
ぎゅっと目を瞑って、眠ろうとする。
ぱちぱちと焚き火の爆ぜる音だけが、鬱蒼とした闇に響いている。
うとうととし始めた隆二は、わずかな違和感をもって身じろぎした。寝苦しさは、硬い地面と渦巻く感情だけではないようだった。
ゆっくりと目を開く。小さくなった炎の向こうで、がさりと木々が揺れた。そして、鼻を突く異臭。
隆二は舌打ちする。野犬か何かが獲物を捕らえたのだろうか。血生臭さが、辺りに充満していた。
焚き火があると言っても、眠っていては襲われかねない。懐の短刀に手をかけて、そろりと立ち上がる。
慎重に足を運んで、茂みをゆっくりと搔きわける。
「……っ」
人が、木の幹に身を預けていた。暗くてよく見えないが、漂う臭いから、相当の出血量だとわかる。
駆け寄って、ゆっくりと顔を上げたその人物に、隆二は息を呑んだ。
「油川さん!」
先日まで、頑張って俺のところまで上がってこい、と笑っていた顔。赤報隊三番隊の隊長である油川その人が、血濡れでそこにいた。
「……りゅ……じ? おまえ……どうして……」
「油川さん! しっかりしてください! 何があったんですか!?」
「新政府が……裏切った……」
「え?」
「相楽隊長が……出頭したのを……見計らって……あいつが」
ごほごほと咳き込むと同時に、大量の血反吐を吐いて、油川は隆二に縋りつかんばかりに言い募る。
「あの、御影……赤報隊を……殲滅に……」
「殲滅……!?」
「《影虎》が……人斬りが……」
どくん、と鼓動が跳ねた。
御伽噺。勧善懲悪。
『味方の窮地に現れ、敵を倒し、颯爽と去っていく』
偽官軍、逆賊と称された赤報隊は、新政府軍にとっては敵で。
完全無欠の暗殺部隊が成敗すべきは。
油川の手が、隆二の着物を掴んで、震える。
「江戸に……助けを……呼び……」
そこで大きく咳き込むと、その身体はぐらりと地面へと傾く。受け止めた隆二の手に、ぬるりとした感覚があり、慌てて手を離すと、油川はそのまま動かなくなった。
しばらく呆然とそれを眺めて、隆二はハッとする。
転げるようにして茂みを飛び出し、荷物をかき集めて、松明を片手に森を駆け抜けた。肺が潰れそうになっても、足が悲鳴を上げても、隆二は一心不乱にその場所を目指した。
数刻ほども走り続けただろうか。
次第に例の臭いがきつくなってくるのがわかった。
汗を拭うことも忘れて、隆二は眼前の光景にただ立ち竦んでいた。
——夥しい数の、骸。
たった数日前に設営した陣が、今や地獄と化している。
たった数日前に言葉を交わした隊士たちが、血濡れで地面に伏している。
震える手で、天幕の中から見覚えのある黒羽織を拾い上げた。
ぼたぼたと落ちる雫は、汗なのか、涙なのか。
口から溢れるのは、悲鳴なのか、慟哭なのか。
***
明治の元号が布告されてしばらく。
峠に悪鬼が出る。
そんな噂が立っていた。
地を駆け、無手で獣を狩り、肉を喰らい、血を啜る。
黒羽織を引きずりながら、夜な夜な峠を渡り歩いているその鬼は、まるでこの世の全てを拒絶するような暗い目をしているという。
その道のりで、隆二は己の目耳を塞いでしまいたかった。
行軍の道中、あれほど沸き立った民衆が、赤報隊の名前を耳にする度、憎悪の表情で『偽官軍』だと罵った。
ある農村では、働き盛りの男衆を騙し取られたと、藩主へ隊の討伐を嘆願していた。
ある町では、掌を返した商人たちが躍起になって、掠奪された、と自ら差し出したはずの金穀を取り戻そうとしていた。
——ただ、世を良くしようと
その想いは確かにあったはずなのに、どこで違えたのだろう。
志は変わらないはずなのに、どうしてこんなことになったのだろう。
陽の落ちた山道で焚き火を眺めながら、隆二は膝を抱えた。
ゆらゆらと揺れる炎がちりちりと頰を熱して、その暖かさと対照的に、その向こう側の森の闇が一層深まって見える。
あの漆黒に手を伸ばして、もう一度彼の心を見つけなければならない。
ただ、あの日背を向けてしまった彼の声音に、答えなければならない。
たとえ空恐ろしい物の怪が転び出るかもしれなくても。
——俺は、相楽さんの心を知りたい
その中には、未だ揺るがない志があるはずだから。
己が触れることで、せめて思い出して欲しい。
あの頃の、初めて隆二に見せた優しい微笑み。
小友理や河次郎に向けた破顔。
志を胸に蜂起した浪士隊を、あの穏やかな団欒を、犠牲にして得た成果は、果たしてその志を満たしてくれるのか。
未熟な隆二の言葉など価値などないかもしれぬ。
けれど、隆二の中の志が、戦えと叫んでいる。
刀を交える戦は無理だとしても、あの家族を守るためには、為損うことを恐れずやらなければならない。
ぎゅっと目を瞑って、眠ろうとする。
ぱちぱちと焚き火の爆ぜる音だけが、鬱蒼とした闇に響いている。
うとうととし始めた隆二は、わずかな違和感をもって身じろぎした。寝苦しさは、硬い地面と渦巻く感情だけではないようだった。
ゆっくりと目を開く。小さくなった炎の向こうで、がさりと木々が揺れた。そして、鼻を突く異臭。
隆二は舌打ちする。野犬か何かが獲物を捕らえたのだろうか。血生臭さが、辺りに充満していた。
焚き火があると言っても、眠っていては襲われかねない。懐の短刀に手をかけて、そろりと立ち上がる。
慎重に足を運んで、茂みをゆっくりと搔きわける。
「……っ」
人が、木の幹に身を預けていた。暗くてよく見えないが、漂う臭いから、相当の出血量だとわかる。
駆け寄って、ゆっくりと顔を上げたその人物に、隆二は息を呑んだ。
「油川さん!」
先日まで、頑張って俺のところまで上がってこい、と笑っていた顔。赤報隊三番隊の隊長である油川その人が、血濡れでそこにいた。
「……りゅ……じ? おまえ……どうして……」
「油川さん! しっかりしてください! 何があったんですか!?」
「新政府が……裏切った……」
「え?」
「相楽隊長が……出頭したのを……見計らって……あいつが」
ごほごほと咳き込むと同時に、大量の血反吐を吐いて、油川は隆二に縋りつかんばかりに言い募る。
「あの、御影……赤報隊を……殲滅に……」
「殲滅……!?」
「《影虎》が……人斬りが……」
どくん、と鼓動が跳ねた。
御伽噺。勧善懲悪。
『味方の窮地に現れ、敵を倒し、颯爽と去っていく』
偽官軍、逆賊と称された赤報隊は、新政府軍にとっては敵で。
完全無欠の暗殺部隊が成敗すべきは。
油川の手が、隆二の着物を掴んで、震える。
「江戸に……助けを……呼び……」
そこで大きく咳き込むと、その身体はぐらりと地面へと傾く。受け止めた隆二の手に、ぬるりとした感覚があり、慌てて手を離すと、油川はそのまま動かなくなった。
しばらく呆然とそれを眺めて、隆二はハッとする。
転げるようにして茂みを飛び出し、荷物をかき集めて、松明を片手に森を駆け抜けた。肺が潰れそうになっても、足が悲鳴を上げても、隆二は一心不乱にその場所を目指した。
数刻ほども走り続けただろうか。
次第に例の臭いがきつくなってくるのがわかった。
汗を拭うことも忘れて、隆二は眼前の光景にただ立ち竦んでいた。
——夥しい数の、骸。
たった数日前に設営した陣が、今や地獄と化している。
たった数日前に言葉を交わした隊士たちが、血濡れで地面に伏している。
震える手で、天幕の中から見覚えのある黒羽織を拾い上げた。
ぼたぼたと落ちる雫は、汗なのか、涙なのか。
口から溢れるのは、悲鳴なのか、慟哭なのか。
***
明治の元号が布告されてしばらく。
峠に悪鬼が出る。
そんな噂が立っていた。
地を駆け、無手で獣を狩り、肉を喰らい、血を啜る。
黒羽織を引きずりながら、夜な夜な峠を渡り歩いているその鬼は、まるでこの世の全てを拒絶するような暗い目をしているという。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
戦国ニート~さくは弥三郎の天下一統の志を信じるか~
ちんぽまんこのお年頃
歴史・時代
戦国時代にもニートがいた!駄目人間・甲斐性無しの若殿・弥三郎の教育係に抜擢されたさく。ところが弥三郎は性的な欲求をさくにぶつけ・・・・。叱咤激励しながら弥三郎を鍛え上げるさく。廃嫡の話が持ち上がる中、迎える初陣。敵はこちらの2倍の大軍勢。絶体絶命の危機をさくと弥三郎は如何に乗り越えるのか。実在した戦国ニートのサクセスストーリー開幕。
令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました
フルーツパフェ
大衆娯楽
とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。
曰く、全校生徒はパンツを履くこと。
生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?
史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。
蘭癖高家
八島唯
歴史・時代
一八世紀末、日本では浅間山が大噴火をおこし天明の大飢饉が発生する。当時の権力者田沼意次は一〇代将軍家治の急死とともに失脚し、その後松平定信が老中首座に就任する。
遠く離れたフランスでは革命の意気が揚がる。ロシアは積極的に蝦夷地への進出を進めており、遠くない未来ヨーロッパの船が日本にやってくることが予想された。
時ここに至り、老中松平定信は消極的であるとはいえ、外国への備えを画策する。
大権現家康公の秘中の秘、後に『蘭癖高家』と呼ばれる旗本を登用することを――
※挿絵はAI作成です。
新撰組のものがたり
琉莉派
歴史・時代
近藤・土方ら試衛館一門は、もともと尊王攘夷の志を胸に京へ上った。
ところが京の政治状況に巻き込まれ、翻弄され、いつしか尊王攘夷派から敵対視される立場に追いやられる。
近藤は弱気に陥り、何度も「新撰組をやめたい」とお上に申し出るが、聞き入れてもらえない――。
町田市小野路町の小島邸に残る近藤勇が出した手紙の数々には、一般に鬼の局長として知られる近藤の姿とは真逆の、弱々しい一面が克明にあらわれている。
近藤はずっと、新撰組を解散して多摩に帰りたいと思っていたのだ。
最新の歴史研究で明らかになった新撰組の実相を、真正面から描きます。
主人公は土方歳三。
彼の恋と戦いの日々がメインとなります。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
鬼媛烈風伝
坂崎文明
歴史・時代
大和朝廷の<吉備津彦>による吉備討伐軍 VS 鬼ノ城の鬼神<温羅>の「鬼ノ城の戦い」から数年後、讃岐の「鬼無しの里」からひとりの少女が吉備に訪れる。大和朝廷の<吉備津彦>による吉備討伐軍 VS 鬼ノ城の鬼神<温羅>の「鬼ノ城の戦い」から数年後、讃岐の「鬼無しの里」からひとりの少女が吉備に訪れる。
鬼媛と呼ばれた少女<百瀬媛>は、兄の風羅(ふうら)との出会いによって吉備の反乱に巻き込まれていく。
騒乱のるつぼと化した吉備。
再び、戦乱の最前線に立つ吉備津彦と姉の大和朝廷最強の巫女<百襲媛>たち、混乱の中で死んだはずのあの男が帰ってくる!
鬼媛と稚猿彦の出会い、「鬼ノ城戦記」、若い世代の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる