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第16章 華北決戦編

第93話 烏巣、焼き討ち

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曹操は袁紹の旗指物を使用し、味方のふりをしながら、烏巣まで近づいた。
そして、烏巣の敵陣が見えると一気に攻めたてる。

淳于瓊は、接近にまったく気づかなかったため、当初、曹操軍は少数の隠密行動だと思い込んでいたが、五千もいると知って、慌てて袁紹に救援を求めた。
食糧庫の守備に専念しようとするが、曹操が盛んに火矢を放つため、兵糧を守るための消火作業と迎撃に忙殺される。

淳于瓊の焦りから、指揮命令系統は用をなさなくなると、配下の四将、眭元進、韓莒子、呂威璜、趙叡は連携をとることができなくなった。

次第に烏巣に放たれた火は、手に負えないほど大きくなっていく。
その真っ赤な炎は、まるで悪魔が大きな口を開いたような錯覚を淳于瓊たちに起こさせるのだった。


突然、烏巣方面が明るくなったことに、曹操の襲撃があったことに気づいた袁紹陣営は、その対策を求められた。
「曹操のこと、兵糧庫という要所を攻めるに必ず精鋭を率いているはずです。淳于瓊殿へ援軍を出すべきです」
そう唱えたのは、中郎将の張郃ちょうこうだった。

「いえ、曹操が精鋭を率いているというのであれば、官渡の砦をとる好機です。本陣を抑えられれば、烏巣の兵は自然と引いていくでしょう」
すぐに郭図が反論したため、袁紹は判断に迷ってしまった。

こういう時こそ、田豊のように強い口調で方針を示してくれる人物が重宝されるのだが、当然、田豊はこの場にはいない。

「官渡をとることができれば、確かにそうなるでしょうが、現に今まで落ちていません。手こずっている間に、烏巣の兵糧、全ては焼かれてしまいます」
「張郃殿の言は、兵法の機微を知らぬ言葉。曹操が本陣におらぬ今をおいて、他に本陣をとる機会が、いつ訪れましょうか?」

議論が白熱する中、袁紹のとった方針は、両方への対応だった。
一番、中途半端な愚策だが、それを咎める者は、この場にはいない。
策を用いてもらえない沮授は、袁紹の前に姿を現すのを止めているのだ。

淳于瓊の救援には、蔣奇しょうき孟岱もうたいが向かい、官渡の攻めには張郃と高覧こうらんが指名される。
この差配に張郃は首をかしげるが、主命とあらば仕方ない。
高覧と力を合わせて、何とか官渡の砦を落とそうとするのだった。


「殿、袁紹の援軍が来ました」
「数は、どの程度だ?」
楽進の報告によると一万程度だと言う。

重要な兵糧を守る援軍にしては少なすぎる。
おそらく曹操不在の官渡の砦にも兵を割いているのだろう。
そう読んだ曹操は、思わず笑みがこぼれた。

「知者の存在がいかに重要なのか、よく分かるな」
許攸の情報通り、沮授は機能していない様子。
沮授が主導権を握っていれば、烏巣を全力で守ろうとしないわけがない。
まぁ、敵が勝手に自滅してくれるのなら、こちらとしては大助かりだ。

「敵に反撃の隙を与えるな。ここの大将、淳于瓊の首をとるぞ」
「はっ」
混乱により統制が乱れた軍と曹操の指揮のもと、淀みなく動く軍では勝負にならなかった。

眭元進、韓莒子、呂威璜、趙叡は見せ場なく討たれ、残るは淳于瓊のみとなる。
その淳于瓊には楽進が対峙した。

怒りに満ちた淳于瓊の目は血走り、燃える炎が反射するのと相まって真っ赤に染まって見える。
相手に畏怖を与える十分な形相だが、楽進は不思議と落ち着いていられた。
これなら、こないだ模擬戦を行った関羽の方が、はるかに威圧感がある。

淳于瓊もかつては、曹操と同じ西園八校尉さいえんはつこういを務めた男。
決して弱いはずはないのだが、冷静な楽進は、その動きの全てを見切ることができた。

楽進の槍を寸前で躱す淳于瓊だが、穂先に鼻を持っていかれる。
それでも怯むことがない淳于瓊は、やはり勇将だった。しかし、最後は楽進に討ち取られてしまった。

淳于瓊が討たれたことを知ると、援軍の蔣奇と孟岱も退却する。
烏巣が完全に曹操の手に落ちるのだった。

曹操は、兵糧の一部を持ち帰り、残りは全て焼き払う。
これで、明日より袁紹軍は食料の備蓄がなくなるはずだ。
曹操が初めて官渡の地で、袁紹より優位に立った瞬間である。

「それでは、官渡に凱旋だ」
食糧を手に入れた曹操軍は意気揚々と官渡の砦に戻るのだった。


淳于瓊、討たれるの報は、先の顔良、文醜が討たれたときよりも袁紹に衝撃を与えた。
「官渡をとれば逆転可能です」
自分の計略が破綻したと察した郭図は、空元気を出して、そう叫ぶが、自分の周りに流れる冷たい空気にいたたまれなくなる。

逆転ということは、今、袁紹は劣勢にあるということを宣言したようなものである。
曹操の風下に自分が立つ。
袁紹は、そう考えただけで、自制できぬほど怒りに震えるのだった。

「官渡の状況はどうなっている?」
これまで、悪い報せしかやって来ない。
そろそろいい報告が届いてもいいはずと、張郃、高覧軍の結果に一縷の望み託す。
しかし、届いたのは張郃、高覧の曹操軍への降伏の報だった。

これに袁紹は、大きく落胆する。
もちろん、張郃、高覧も初めから望んで降伏した訳ではなかった。

官渡の砦の攻撃において、相変わらず固い防壁に辟易としながらも頑張っていた最中、淳于瓊が討たれたという情報が入る。
これで、もう万事休す。

張郃は、それ見たことかと思う一方で、郭図の讒言を非常に恐れた。
恐らく郭図は、「張郃が自身の発言が正しいと証明するために、わざと手を抜いた」と吹聴するに違いない。
今の今まで、命を賭けて戦っていたのに、そのような言いがかりは、到底受け入れることができなかった。

張郃は、高覧に事情を話して相談すると、張郃の意思を汲むと言ってくれる。
こうして、張郃と高覧の二将は、曹操軍に投降するのだった。
張郃、高覧の投降に、曹洪は怪訝な表情を見せて訝しんだが、荀攸が問題ないというので受け入れることにした。

そして、烏巣から帰ってきた曹操は、二人の決断を大いに喜ぶ。
伍子胥ごししょは誤った君主に仕えたことに気がつくのが遅かったがゆえに、不幸な最期を遂げた。貴方がたが降伏したのは微子啓びしけいが殷から周へ、韓信が楚から漢に仕えたように、正しい行動である」
そう言うと、二人を偏将軍に任命するのだった。


烏巣が落とされ、官渡の砦攻略に失敗すると、袁紹軍は総崩れとなる。
もはやなす術なしと、袁紹は黄河を渡って、自分の領、冀州まで退却するのだった。
追った曹操だが、袁紹を捕らえるには至らず、捕虜と金品の類を奪うに留まる。

ここで、扱いに困ったのが捕虜となった兵士、八万の対処だった。
今は武器を取り上げ、腕を縛り、複数人で数珠つなぎにすることで無力化しているが、いつ、反抗してくるか分からない。
心より、降伏しているかなど、八万人をいちいち検証するわけにはいかないのだ。

曹操は、捕虜たちに穴を掘らせると、その穴に捕虜たちを突き落とすよう指示する。
いわゆる生き埋めを敢行した。
蛮行であることは間違いないが、この行動が曹操の怒りの大きさを表していると想像し、袁紹に与した者たちは、皆、震え上がる。

曹操陣営にあって、袁紹側に内通していた者たちは、尚更、生きた心地がしなかった。
証拠となる袁紹宛の書簡も曹操に押収されていると聞く。どう考えても、もう終わり。
ところが、その証拠なる書簡を曹操は、内容を見ることなく焼き捨てるように指示した。

「この私でさえ、本初の強大さを恐れ、一時は許都への撤退まで考えたのだ。他の者が心弱いところを見せても責められない」
実際に誰が袁紹と内通していたが、不明のままだが、曹操のこの発言により、裏切っていた者たちは、曹操への絶対的な忠誠を誓う。

曹操は許都に戻ると、献帝に戦勝報告をした後、自分の配下たちを集めて、今後の展望を語った。

「この度、官渡で勝利を得ることができたが、あくまで敵を撃退したに過ぎない。領土を切り取ったわけでも、ましてや袁紹を討ったわけでもない。驕ることなく、ここからが、正念場であることを理解してほしい」
曹操の言葉を受け止めると、皆、気を引き締め直す。

「ただし、本日だけは、大勝利に酔ってくれ」
諸将から、鬨の声が上がった。

士気は最高となり、曹操と袁紹の立場が、完全に逆転するまで秒読みの段階に入る。
中華の覇者への道が大きく開かれた。
曹操は、そう実感するのだった。
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