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埋葬蟲.11
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「本当の名前や、生まれ育ったところを思い出す気はねえ。そこに帰れない以上は、思い出しても虚しいだけだ。俺は、空から俺を見下す羽虫が大嫌いだが、それでもお前は、海を渡れないんだろう?おまけに、俺が拾ってやらなきゃ、冬の寒さの中で野垂れ死んでた。…実際、俺は強いからな。こんなひ弱な生き物を嫌ったって、何の得にも自慢にもならねえよ。だから、嫌うのは止めたんだ。それに、若くもねえ蝶の雄なんざ、きっと不味くて喰えたもんじゃねえ。死骸喰らいの蟲以下だ、そうに決まってる。」
片腕でムラサキの背を抱いて、もう片腕を伸ばして指先で溢れる涙を掬いながら、シノノメは一息に捲し立てて、ふと照れたように視線を逸らした。
そして、年甲斐もなく迸る感情の侭に涙を流す雄の蝶を抱えてごろりと寝返りを打つと、横臥の姿勢で近く見つめ合い、牙を見せて微かに笑う。
「シケた面してんじゃねえよ、見てるだけで頭が痛くなるだろうが。──俺は、『シノノメ』だ。それ以上でも、それ以下でもねえ。…解ったら、もう寝かせろ。起きたら、まず最初にたっぷり可愛がってやるから…。」
「…うん──。」
東雲。それはムラサキが彼に与えた名前だった。朝ぼらけ、木立の間から覗く東の雲はその髪のような色をして、遠い空はその瞳のような色をして。
ムラサキがそう呼びかけるまで、彼には自分の『名』がなかった。本当の名前ではないからこそ受け容れた名前を、蜘蛛は自ら口にして、啜り泣く蝶を抱き締めながら寝かしつけようとする。春の陽射しのように暖かな体温にすっぽりと包まれ、一瞬見開いた焦茶の眸に、ふわりと泣き笑いの表情を浮かべてムラサキは頷いた。向かい合ったシノノメが、一瞬軽く目を瞠るのが眼に飛び込んでくる。
「どうかしたかい?」
「…いや。──お前が笑った顔なんか、今まで見たことがなかったからな。…少し、驚いただけだ。」
「おや、そうだったかな──。」
未だ泣き腫らしたままの目尻を下げて、今度こそ穏やかにムラサキは微笑う。もう随分と長い間、笑顔というものの浮かべ方を忘れていたような気がした。
そのまま長い睫毛を伏せると、どちらからともなく求めるように唇を重ねる。舌と舌を絡ませて淡く擦ると、蜘蛛の接吻はいつも鉄錆のような味がした。重ねてはまた離す、穏やかなくちづけを交わし合いながら、ムラサキは指先に渾身の慈愛を込めて桃色の髪や、銀色の輪が幾つも連なって穿たれた耳の後ろに触れてやった。ムラサキに胡蝶の愛撫を施されれば、シノノメの瞼にはいつも、重い眠気が緞帳の如くに垂れ込めるのだ。
「──あまり、遠くへ行くなよ…。」
眠りに落ちる間際に、シノノメが回らない舌で重ったるく呟いた言葉に応えるように、ムラサキは片側の翅をゆっくりと広げてシノノメの身体に覆い被せた。激しい嵐の日、巣穴に吹き込む防ぎきれない風雨からこのようにして雌や仔を護ってきた翅は隅が裂け、あちこち傷んではいたが、今は、この雄蜘蛛の身にどうしてもそうしてやりたくてならなかったのだ。
じきに、埋葬蟲に酷い狼藉を働かれて疲れ切った瞼の上にも、甘い眠りの帳が落ちてくる。温かく心地のいい若い蜘蛛の腕に抱かれ、寝息を絡めて眠ることに、もう恐れや戸惑いはなかった。
片腕でムラサキの背を抱いて、もう片腕を伸ばして指先で溢れる涙を掬いながら、シノノメは一息に捲し立てて、ふと照れたように視線を逸らした。
そして、年甲斐もなく迸る感情の侭に涙を流す雄の蝶を抱えてごろりと寝返りを打つと、横臥の姿勢で近く見つめ合い、牙を見せて微かに笑う。
「シケた面してんじゃねえよ、見てるだけで頭が痛くなるだろうが。──俺は、『シノノメ』だ。それ以上でも、それ以下でもねえ。…解ったら、もう寝かせろ。起きたら、まず最初にたっぷり可愛がってやるから…。」
「…うん──。」
東雲。それはムラサキが彼に与えた名前だった。朝ぼらけ、木立の間から覗く東の雲はその髪のような色をして、遠い空はその瞳のような色をして。
ムラサキがそう呼びかけるまで、彼には自分の『名』がなかった。本当の名前ではないからこそ受け容れた名前を、蜘蛛は自ら口にして、啜り泣く蝶を抱き締めながら寝かしつけようとする。春の陽射しのように暖かな体温にすっぽりと包まれ、一瞬見開いた焦茶の眸に、ふわりと泣き笑いの表情を浮かべてムラサキは頷いた。向かい合ったシノノメが、一瞬軽く目を瞠るのが眼に飛び込んでくる。
「どうかしたかい?」
「…いや。──お前が笑った顔なんか、今まで見たことがなかったからな。…少し、驚いただけだ。」
「おや、そうだったかな──。」
未だ泣き腫らしたままの目尻を下げて、今度こそ穏やかにムラサキは微笑う。もう随分と長い間、笑顔というものの浮かべ方を忘れていたような気がした。
そのまま長い睫毛を伏せると、どちらからともなく求めるように唇を重ねる。舌と舌を絡ませて淡く擦ると、蜘蛛の接吻はいつも鉄錆のような味がした。重ねてはまた離す、穏やかなくちづけを交わし合いながら、ムラサキは指先に渾身の慈愛を込めて桃色の髪や、銀色の輪が幾つも連なって穿たれた耳の後ろに触れてやった。ムラサキに胡蝶の愛撫を施されれば、シノノメの瞼にはいつも、重い眠気が緞帳の如くに垂れ込めるのだ。
「──あまり、遠くへ行くなよ…。」
眠りに落ちる間際に、シノノメが回らない舌で重ったるく呟いた言葉に応えるように、ムラサキは片側の翅をゆっくりと広げてシノノメの身体に覆い被せた。激しい嵐の日、巣穴に吹き込む防ぎきれない風雨からこのようにして雌や仔を護ってきた翅は隅が裂け、あちこち傷んではいたが、今は、この雄蜘蛛の身にどうしてもそうしてやりたくてならなかったのだ。
じきに、埋葬蟲に酷い狼藉を働かれて疲れ切った瞼の上にも、甘い眠りの帳が落ちてくる。温かく心地のいい若い蜘蛛の腕に抱かれ、寝息を絡めて眠ることに、もう恐れや戸惑いはなかった。
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