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54. もう一度

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 息を切らしながら、俺は闇の中を駆ける。ここは都市部のようにしっかりと足場が改装されていないため、早く走れば走るほど転倒や怪我をするリスクは高い。でも、でもそれでも。今の俺にはそれほどの速度で走らなきゃいけない理由がある。
「…雫っ!」
 頼ることのできぬぼやけた視界の中、俺は彼女の名を呼ぶ。ここにきて視力が悪いのが悪い影響を及ぼしてきた。今日に限って何で度の悪いコンタクトをしてきたんだ…。
 ピントの合わない視界の中、少し先の木の側に、立ち尽くす淡い水色の何かが見えた。それは、視力の悪い俺でもしっかりと的確に分かるもので…。
「──雫」
 まるで卓球の公式戦を2試合ほど終えたようなそんな疲労感と共に俺は足を止め、目の前の少女の名を呼ぶ。
「来ないで」
 そんな彼女から飛んできた言葉は、ふと最初の方の彼女と面影が重なるような、拒絶の意を含むものだった。汗が背中を流れ落ちる。俺の嫌な予感は現在進行形で続いてしまっていた。
「………」
 来ないでほしいならどうしてさらに逃げなかったのか。その疑問は、ふと視線を下げた彼女の下駄を見て解消される。
「…おい、その下駄の鼻緒。切れてるじゃねぇか。無駄に走るからだよ…」
「…うるさい。ほっといて」
 そんな俺の言葉にそっぽを向く雫。今の彼女には花火を見た後に笑顔で笑っていたあの姿はどこにもなく、ただ単にどこかに行ってほしい。という蔑みの目のように思えた。
 でもここで食い下がると、本当に取り返しのつかない事に…。そう考える俺は、そんな彼女に言葉を紡ぐ。
「…うるさいじゃねぇよ。せっかく先輩も雫に会いたがってたんだから、せめて挨拶だけでも──」

「──うるさいって言ってるでしょっ!?」

 刹那、その言葉とともに何かを憎むような目でこちらを凝視した雫。でも、その瞬間に俺に訪れた感情は恐怖、ではなく…。
「雫…。なんでさっきから、泣い─」
「あんたは、佑は。何も分かってない!茜から過去の話を聞いて、分かった気でいるだけ!」
「えっ」
「私の…。この深すぎる傷なんて…。分かるわけないでしょ!?」
 ぽろぽろと目尻から涙をこぼす雫。それは俺に何かを訴えるような、そんな視線で…。
「…5年前、私たちは親を失った。その時の気持ちはもう、悲しすぎて仕方がないくらいに…。でも、そんな私たちに手をかけてくれたのがあの人たち…」
「雫…」
「そんな人たちを…。結衣を、私はっ…!」
 両手で胸を抑えながら、叫ぶようにそう言う雫。知ってる、知ってるんだ。君のその当時の気持ちも。その悲しみも…。俺は、知ってるんだ…!
「…周りの人たちは"気にしないで"とか、"しょうがない"とか…。色々言ってくれてたけど、当時小6の私には…、その言葉を素直に受け取れるほど、安易な心境じゃなかった…」
「…………」
「…私は」
 すると、雫は胸に添えた手を力なく下ろしながら言葉を紡ぐ。だけど、目元から零れる涙は止まるところを知らない。
「私は、そこで。自分自身が呪われてると思った。自分が関わる人はみんな不幸になるんだって。よくないことになるんだって」
「──それは!」
「…実際に、私と佑がよく喋ったあのキャンプファイヤーの後に、佑のお母さんが事故にあったじゃないの!」
 自分を恨むように、そんな表情で俺にそう言う雫。不思議と、背中を流れる汗が冷たく感じた。
「…今回も、あの人と合わせた理由は分からないけど。私自身、あの人に蔑まれたり、罵倒されると感じた…。あの人は昔から笑顔が得意だったから、会う時だけポーカーフェイスのように笑顔を貼って、私と2人になった時に、その時の怨念を──」
「…違う」
「えっ…」
 それは違う。それだけはキッパリと違うと言える。そう考える俺の心中の言葉がそのまま口から出た。
「それは違う、雫。先輩は、雫のことを決して恨んだり、蔑んだり、罵倒しようとはしていない」
「…だって、私は結衣を──!」
「星本先輩は!」
「…っ」
「…先輩は、雫を恨んでなんかない。あれは事故だったんだって、運命がそうしたんだって。あの人自身がそうやって…」
 自暴自棄になりがちな雫に必死に説明を施す。まずは、彼女のその意志を無くしてもらわないと…。で、でも。この俺だけの説得じゃ…。彼女の心は…。
「う、嘘よ。だってあんなに酷いことを私──」
「嘘じゃない、本当だ。俺は、先輩からそう聞いた」
 だけど、俺はこの事実を押し続けるしかない…!
「違う、そんなわけがない。私が、許されるわけが──」

「…許してるよ」

 刹那、この場に響く鶴の一声。その声音は、いつも部活中に聞く、あの人の…?
「…えっ」
「ほ、星本先輩…」
「ビックリしちゃたよ…?急に雫ちゃん逃げちゃうんだから…。でも、佐野くんの後追っててよかった…」
 そして先輩は軽く息を整えて、続ける。
「5年前の惨事…。私だって覚えてる。だって、妹を亡くしちゃったから…」
 雫の目をじっと見据えながら先輩は雫に近づいていく。なぜだろうか、ふいに俺はそんな2人から距離をとった。
「違うって、そんなに否定するなら。私の口から言うね。私は雫ちゃんのことを恨んだり、蔑んだり。罵倒したり、そんなことをするためにここに呼んだわけじゃないよ」
「星本…さん」
「佐野くんも言ってたけど、私は茜ちゃんと雫ちゃんにただ純粋に会いたかったから佐野くんに協力してもらって、こんな場を設けてくれたんだよ。まあ、設けてくれたって言うとちょっと変だけど…。あはは」
 さっきまでこの場は涙と焦りの修羅な場と化していたが、先輩はどこか、心の余裕とでもいうのだろうか。そんなものが垣間見える笑みを小さく漏らした。
「…う、嘘だ。だって、私はあなたの妹を…!」
「そりゃ私だって。妹が死んじゃった時はものすごく悲しかったし、お母さんとかお父さんも泣いてたよ?でも、あの事故は決して雫ちゃんのせいじゃない」
 先輩は先程の俺の焦燥した言葉とは真逆の落ち着いた口調で、ゆっくりと語りかける。
「…当時、親を亡くした雫ちゃん、茜ちゃんの双子は本当に心細かったと思うんだ。まだ小学生だったし、当時中学生になりたてだった私が、もし同じ境遇に置かれたらきっと…。もう、自分が自分でいる気がしないと思う」
「星本さん…」
「だから私たちはせめてもの少しでも君たちに元気になってほしくて、関わりはじめた。今だから言うけど、以前から気になってたんだよ?可愛い双子がいるなーって」
「可愛いって…。そんな…」
 雫はその言葉に少し顔を曇らせた。そんなことよりも、申し訳なさがゆえの今の感情なのだろうか。
「…それで、あの日。事故は起こった。地面が滑りやすかったが故に起きてしまった事故が…」
「…………」
「あれからだったよね…。私たちが喋らなくなったのは。というよりは…、なんか避けられてるように感じたんだよね…」
「…は、はい」
「やっぱり…。そう?」
「だって、私が結衣を死なせちゃったのに…。のうのうとまた前までの関係を戻すなんて流石に強情すぎます…」
 今にも崩れそうなそんな表情で、訴えかけるように雫は先輩に言う。彼女自身の責任の重さも、相当なものだったんだろう。
「…気を使われてたか。やっぱり」
「…え?」
「あからさまにおかしいと思ったんだよ。あの事故のあとから君たち双子が全く関わってくれなくなったから…。やっぱり雫ちゃんは、あの事故の責任を感じてるのかなって。だから、そのことについて話して、また一緒にいたいなって。そう思ってたんだけど…」
「責任は…。さっきも言いましたが、感じてます。だって、私がこけて結衣がそれを庇って死んじゃったんだし…。星本さんは私の心の負担を軽くするためにそう言ってくれてるでしょうけど…。この責任の重さは、もう……」
「雫ちゃん」
 目を逸らして申し訳なさを語る雫に、先輩は一つそんな彼女の名を呼んだ。
「…?」
「私は、責任とか、申し訳なさとか。その面に関しては全部雫ちゃんに押し付けるつもりはない、はっきり言うよ。強いてあげるなら、あの事故で悪かったのは当時降ってた雨と、その日に水族館に誘った私たち。雫ちゃんに責任を押し付けるそんな卑劣なことはしない」
「…でも」
「そもそもあの日に誘ったのは私だし、それで責任を押し付けるなら、もう言語道断だよ。クズの他例える言葉が見つからない。…だから雫ちゃん、もう1人で抱え込まないで?あの時の事故は本当にしょうがなかった。もちろん、結衣の死をパーにするんじゃなくて、あの子の死を乗り越えて、また関係を深められたらなって私は思う」
「…乗り越えてって」
 さっきの先輩の言葉に響くものがあったんだろうか。雫はゆっくりと目の焦点を先輩に合わせ、そんな先輩の言葉を確かに反芻する。
「…もう一度言うね。私は、雫ちゃんを許してる。許してるというか…、最初からその次元にはいない。もともとそんなつもりはなかった。結衣の死を乗り越えて、私はもう一度君たち双子と関わっていきたいんだ」
「…ダメ、です」
 雫は力なく先輩にそう言った。
「…えっ?」
「ダメです。私たち、特に私は…。私に関わると、周りで不幸なことが起きるんです…。言わば疫病神みたいな…。だから、星本さんがまた私と関わっちゃったら、きっとあなたにも──」
 その瞬間、先輩の身体が前に動く。そして、彼女は雫の身体をゆっくりと優しく抱きしめた。雫は突然の出来事に目を見開いて言葉を失い、先輩は雫の顔の向こう側で、まるで今のそのままの気持ちを吐露するかのように告げる。
「…私今、すっごく幸せ!」
 顔は見えないが、きっと笑顔なのだろうと安易に予想できる嬉しそうなその言葉を…。
「……っ」
「…全然、大丈夫じゃん?私が関わりたいと思う人がそんな人なわけがないでしょ。雫ちゃんは、私を不幸にする存在とは真逆の、笑顔に、幸せにするような存在だよ!」
「でも…。でもっ…」
 目尻を再び震わせながら何かを紡ごうとする雫。先輩はそんな彼女の言葉を急かすわけでもなく、ただゆっくりと待っている。
「私はっ…。星本さんを──」
「ねぇ、雫ちゃん」
 目に何か光るものが見える雫に、そう呼びかける先輩。
「そのさ、"星本さん"っていうの、そろそろやめない?それと敬語混じりなその言葉遣いも」
「…えっ」
「むず痒いよー、ずっと。ほら、昔みたいにさ、茜ちゃんも言ってたけどさ。あおちゃんって…。呼んでよ」
「それは…」
 半泣き状態の雫はわずかにたじろいだ後、小さな声で言った。
「それをしちゃうと…。星本さんは私とまた関わったことになっちゃう…。取り返しつかなくなりますよ…?」
「取り返しつかなくさせてよ。私はこれから君たち双子と関わっていきたい。いっぱい話して、いっぱいいろんなとこ行こうよ!雫ちゃんはもう1人じゃないんだよっ!」
「──いいん、ですか」
 涙のたまるその瞳の表面には、きっと笑顔の先輩が映ってるんだろうか。ましてや、その笑顔が雫の心を動かしたのか。いづれにせよ、雫は初めて先輩の言葉にこの瞬間、甘えた。震える口元が、確かにそう言った。
「…うんっ!いいよ。だって雫ちゃんは私の言わば大切な"家族"だもんっ!」
「──あ、あおちゃんっ…!ありがとうっ…!」
 刹那、何かの糸が切れたかのように溜めていた涙が一気に溢れ出す雫。そして、力強く先輩の身体をぎゅっと抱きしめた。そんな先輩は、彼女の胸で泣きじゃくる雫を見て、この暗い暗い場を照らしてくれるような明るい笑顔で、雫の頭をまるで赤ん坊をあやすように優しく撫でるのだった。
 雫は本当にずっとずっと。ずっと1人で5年前の事故について抱え込んでいたんだろう。その思いが今、とめどなく流れる涙の量と比例しているように感じた。やっぱり俺は…。しっかりと雫のことを知れてなかったんだなと、そんな思いと共に。
 きっと、先輩と関わるのを許可するのも勇気がいる判断だったと思う。俺が雫の立場なら、さっきの彼女みたいに葛藤に葛藤を重ねるだろう。そんな中、雫は1つの決断を示した。その瞬間、俺は感じたんだ。

 こんな決断ができる子が、疫病神なわけがない。
 
 心の中で、俺は1人そう呟いた。それはいつもどこか冷たかった雫に対する、人間としての尊敬を認めるような、そんな呟きだったと思う。俺も見習わないと…、まだまだだな。
「…はあっ、はあっ…」
「ん?お、茜」
 俺がそう考えふけっていると、ものすごく息を切らしながら走ってきた様子の茜がやってきた。なんでこんなに遅かったんだろう、トイレにでも行ってたのだろうか…?そう考える俺に茜は開口一番尋ねた。
「お、お姉ちゃんは…」
「あれを見れば分かるだろ、ほら」
 そう言いながら俺は、手で身元を覆う雫を笑顔でなだめる先輩の方をゆっくりと指差した。
「あっ…。よかった、お姉ちゃんっ…」
 茜はどこか安心したような表情でポツリとそう呟いた。
「あれ?茜。なんか目元赤くないか?」
「え、ええいや違うぞ?僕は決して泣いてなんか!」
「いや俺別に泣いてるかなんて聞いてないが…」
「うぐっ…。な、こっち見るなー!」
「いや世界一の理不尽っ!」
 肩に飛んできたパンチを受けながら俺は思わずそうツッコむのだった。
 でも本当によかった。最初は先輩と佐伯姉妹を合わせたことを後悔したけど、今となっては最高の結末となったじゃないか。透き通った風が背中を通った気がした。さっきまで気持ち悪く感じた汗は、もう何処かへといってしまっていた。
 やがて、感情が落ち着いた雫と、笑顔の絶えない先輩がこちらにやってきた。そんな先輩は俺と向き合って言う。
「…佐野くん、今日は本当にありがとね」
 ありがとうはこっちのセリフですよ、と。俺は先輩のポテンシャルの凄さを改めて感じながら心の中で言った。
 そうなのだ、雫を呼び止めたのは俺だが、説得したのは先輩。本当にありがたい存在に、俺は感謝しても感謝しきれないな…。
「いえいえ、今回雫が先輩と関わることを認めたのは全て先輩のおかげですよ。俺は何もしてませんし、実際に先輩が来るまでは声荒げてたばっかりだったし…」
「ほんとよ、うるさいっちゃありゃしなかったんだから」
「でも、あれがなかったら私たちの今はないよ?雫ちゃん」
「そ、それはそうだけどさ。あおちゃん…」
「だから雫ちゃんから佐野くんに、何か言うことがあるんじゃないの?」
 その先輩の言葉に雫は一度口をぎゅっと閉め、そっぽを向き、どこか落ち着きのない表情で言った。
「あ、ありがとぅ…?」
「え、最後聞こえなかったよ?もう一度もう一度雫ちゃん!」
「だーもういいのあおちゃん!こいつにはこれくらいの方が!もう!」
「なんで私怒られてるの…?」
 顔を赤くしてムキになる雫と、苦笑いしながら困惑する先輩。普通はこんな反応になるべきじゃないけど、俺は思わず笑ってしまった。それはきっと、安心とか。そういった類のものだと思う。
「…そういえば、もう俺たち以外誰もいないな…」
「確かに、そうだね」
 感慨にふける俺がふと周りを見ると、もうただの広場と化した元花火会場には俺たち4人しか残っていなかった。
「せっかくだからさ」
 不意に後ろから声が。その声はオレンジ色の浴衣を身に纏う、茜だった。
「あおちゃんとお姉ちゃんは一緒に帰ったらどうだ?」
「え?私たちが?2人で?」
「うん。せっかく今日で仲良くなったんだしさ」
「いやでも、帰るなら私と茜、それにあおちゃんの3人でよくないかしら?」
「おーいしれっと俺を省くのやめてもらえません…?」
 真顔でそう言う雫に俺は思わずツッコミを入れた。
「で…。でも」
「……そうだね!雫ちゃんとは仲直りというかもう一度関わる時間としては長くなっちゃったし、せっかくだから2人で帰ろうよ!」
「え?まあ、あおちゃんがそういうならいいけど…」
「?」
 気のせいだろうか、今先輩雫と帰路を辿る前に、振り向いた際に口角を上げてた気が…?いや、やっぱり気のせいか。第一こんな視界悪いのに…。
「じゃ、私たちは先に帰ってるから茜も早く帰って来なさいよ?」
「う、うん!じゃあなお姉ちゃん、あおちゃんも本当に今日はありがとう!」
「うん、また喋ろうね!」
 いや、また喋ろうねでグットサインはどこか違う気が…?ま、まあいいか。先輩も雫と久しぶりに喋れてテンションが上がってるんだろう。
「…さ、じゃあ俺たちも帰ろうぜ。茜」
「…ちょ、ちょっといいかなっ」
 踵を返そうとした俺に茜はやや焦り気味に聞こえるそんな声で俺を呼び止めた。
「ん、どうした」
「ちょっとは勘づけよ…。お姉ちゃんとあおちゃんが2人で帰ったのに、そのあとすぐついていったら結局は4人で帰ることになるだろ?」
「…つまり?」
「…今日、僕。佑と喋ってないもん」
 浴衣の裾を軽く握って、いじけるように茜はそう言った。不意に今日雫と回っていて感じた、心の中の滑車が再び動いたように感じる。
「…ま、まあ。そうだな」
 その華奢な動きがどこか可愛らしく、思わず動揺した声質になってしまった…。気を紛らわそうと、軽く息を飲み込んだそんな俺に、茜は一言、人差し指をくっつけながら、小さくそっぽを向いて告げた。
「だから、ちょっと喋ってこうよ。色々と話したいこともあるしっ…」
 と、見間違えでなければ顔を少し染まらせて──
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