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第一章 純愛メランコリー
第2話
しおりを挟む────4月29日。
アラームの時間通りに目を覚まし、はたと昨晩のことを思い出した。
眠気など飛んでいき、心臓が重たい拍動を繰り返す。
(……向坂くん)
さすがにもういないよね?
起き上がった私は、そっとカーテンの隙間から外を覗いた。
「…………」
家の前、電柱の陰、見回せる範囲に彼の姿はない。
ほっと安堵の息をつく。ひとまず、よかった。
強張っていた身体から力が抜けていく。
朝の支度を済ませると、いつものように理人と登校した。
その道中でも学校に着いてからも、向坂くんと遭遇することはなかった。
昼休みになり、理人と昼食をとる。
いつも彼は教室まで来てくれて、主が立って空いた私の前の席に座る。
「もしかしたら、幻だったのかも」
「ん?」
「向坂くんのこと」
箸を止め、ぽつりと言った。
昨晩見た向坂くんは、私の不安や夢のせいで現れた妄想だったのかもしれない。
朝から何度も彼のことを考え、その結論に至った。
一番、合点がいく。
「……ああ、そうかもね」
そう呟いた理人の眼差しは、どこか冷たく見えた。
「理人……?」
「あ、ごめんごめん」
思わず戸惑っていると、彼は苦く笑った。
「言ったでしょ、気にしなくて大丈夫だって。もう彼のことは考えなくていいよ」
励ましてくれているというよりは、どこか圧を感じるような言い方だった。
最初は確かに案じてくれていたのに。
考えるな、と言われても、気にしないなんて無理だ。
それでも、これ以上向坂くんの話を出来るような雰囲気でもなくなり、私は思わず席を立った。
「あ、えと……ちょっとお手洗い」
突き放されたようでショックだった。
私には理人しか頼れる人がいないのに……。
「…………」
鏡の前でため息をつく。
いつまでも気にしている方がおかしいのかな?
気にし過ぎなのかな?
昨日の向坂くんに気圧されて、少し過敏になっていたのかもしれない。
もやもやとしながら、女子トイレを出る。
「!」
教室へ戻る途中、廊下の先に彼を見つけた。
人が行き交う中、じっと私を見据えた向坂くんが迫り来るように歩いてくる。
反射的に後ずさるも、すぐに捕まってしまった。
「来い」
昨日のように手を引かれ、教室から遠ざかるように階段の方へ連れて行かれる。
「ちょっと待ってよ……。やだ!」
渾身の力を込め、振り払った。
恐怖からか心臓がばくばくと早鐘を打つ。
精一杯彼を睨みつけた。
「何で私に構うの? 何がしたいの?」
怯えているのを必死で隠したが、情けなくも声が震えてしまう。
「……今、三澄は?」
彼は私の問いを完全に無視して尋ねてきた。
「そんなこと、向坂くんには関係な────」
思わず言葉が途切れる。はっと息を呑む。
向坂くんが手を掲げたのだ。
そこには、割れた鏡の破片があった。
驚いたように目を見張る私の顔が映っている。
「なに……」
「これに見覚えは?」
真剣な表情で問われるが、私にはそれが何なのかまったく分からない。
鏡の破片が何なのだろう。
私は首を左右に振る。
「お前が────」
向坂くんが一歩踏み込むと、鏡が窓からの光を反射した。
ぎら、と閃いた鋭い光に怯み、思わず瞑目する。自分自身を庇うように手を構える。
怖い。
夢で見た映像が、不意に脳裏を過ぎったのだ。
向坂くんに殺される。
あの夢はもしかしたら、そんな未来を予知したものだったのかもしれない。
「おい……」
「何してるの?」
唐突にそんな声がした。
はっと目を開け、振り向いた。
「理人……」
みるみる安心感が広がり、身体の強張りがほどけていく。
理人は向坂くんと私の間に立った。
昨日と同じような構図だ。
向坂くんは咄嗟に鏡の欠片を背に隠した。
「菜乃に近づかないで、って言ったよね」
「お前に従う義理はねぇよ」
彼は堂々と言い返すも、理人の余裕は崩れない。
「その方が身のためだと思うけどな、ストーカーくん」
「……あ?」
「昨日の帰り、僕たちをつけてたんでしょ。それで菜乃の家を特定して、近くにずっと潜んでた」
向坂くんは是とも否とも答えなかったが、その沈黙が肯定を意味していることは明白だった。
昨晩、窓から見た人影を思い出す。
あれは、幻でも妄想でもなかった。本当に向坂くんがいたんだ。
「……だったら?」
「ストーカーだって認めるんだ?」
「違ぇよ」
「じゃあ誤解されるような行動は控えた方がいいんじゃないかな。これ以上エスカレートするようなら、本当に警察に通報する」
さっと向坂くんの顔色が変わった。
とはいえ、普通であれば青ざめるのだろうが、彼は逆だった。
憤ったのだ。
「ふざけんな。どの口が言ってんだよ」
「どうもこうも、君の方が圧倒的に分が悪いよ。……“それ”も」
理人が向坂くんを指した。もとい、彼が隠し持っている鏡の欠片を。
「…………」
彼はそれを見下ろし、舌打ちした。
苛立ったように欠片を床に叩き付ける。パリン、と粉々に割れてしまった。
突然の行動に驚いて肩を跳ねさせながら、私はおののいて向坂くんを見やる。
「俺は諦めねぇからな。花宮がどう思おうと」
そう言い残し、彼は行ってしまった。
鏡の割れた音は思ったよりも大きく響いていたらしく、廊下は水を打ったように静まり返っていた。
「…………」
彼らの好奇の目が次第に逸れ、徐々にざわめきが戻ると、止まっていた時間が動き出す。
「どういう……」
呟いた声は掠れた。何だか喉がからからだ。
向坂くんの言葉は、どういう意味なの?
あの鏡の欠片が何だって言うの?
“諦めない”って、何を……?
「……大丈夫? 何があったの?」
理人はいつもの優しい表情で尋ねる。
私は思考を止め、小さく首を横に振った。
「よく、分かんない……。廊下で向坂くんに見つかって、無理矢理連れてかれて」
言いながら思い至る。
もしや、私が一人になるのを見計らっていたのだろうか。
「そっか。何もされてない? 怪我とかもしてない?」
「それは大丈夫」
理人が来てくれたお陰で事なきを得た。
床に散らばる欠片に目をやる。
不機嫌そうな向坂くんの表情が、彼に掴まれた手首の感触が、何度も蘇ってくる。
そのたびに強い不安感に苛まれた。
放課後になると、向坂くんを避けるように急いで学校を出た。
しかし、どうせ家は知られている。道を変えても無駄だ。
校門を潜るときはかなり急いだが、今は逆にゆっくり歩いていた。
なるべく長く、理人といられるように。
今は一人になりたくない。
「あ、そういえば知ってる? 駅前に新しいお店が出来てたよ」
「そうなんだ……」
「ケーキ屋だったかな。菜乃が好きそうな感じ。今度寄って行こっか」
「……うん」
なるべく普段通りの話題を振ってくれているのだろう。
しかし、私には余裕がなかった。
彼の気遣いを無にしてしまうような生返事しか出来ない。
「菜乃」
不意に理人が足を止める。
「……また彼のこと考えてるの?」
「だって────」
他ごとを考えようとすればするほど、頭の中を侵食してくるのだ。
向坂くんの言葉や態度は、明らかに普通ではないから。
私は一旦口を噤み、俯く。
「……予知夢って、あると思う?」
呟くように問い、理人を見上げた。
「予知夢?」
「実は私、夢を見たの。誰かに殺される夢」
これほど彼のことを気にしてしまうのは、それも原因の一つだった。
「夢なんだけど、すっごくリアルで。絞められた首が痛くて苦しくて」
そっと首に触れる。
その感覚が残っているようで、ひりついた気がした。
「……誰に殺されたの?」
「それは覚えてないの。でも、もしかしたら向坂くんなんじゃないかなって」
理人は即座に笑い飛ばしたりすることもなく、突飛な私の話を真面目に聞いてくれていた。
ややあって、彼が口を開く。
「……そっか。確かにそうかもしれないね」
謹厳な面持ちで眉を下げる。
少し意外な反応だった。
彼なら“気にすることないよ”と微笑んだりするかと思った。
「タイミング的にも妙にしっくり来るし、関係あってもおかしくないよね」
「信じてくれるの……?」
自分でも瞳が揺れているのが分かる。
こんな非現実的な話、いくら理人でも取り合ってくれないと思った。
「当たり前でしょ。信じるよ、菜乃の言うことならすべて」
理人は優しく私の手を取った。
心から慈しむような眼差しと微笑みを向けられ、ついたじろいでしまう。
本当に童話の中の王子様みたいだ。
でも、私は彼に釣り合うお姫様なんかじゃない。
────そう分かっているからこそ、いつからか理人の隣が少し窮屈になった。
それでも、私には理人しかいない。
私の話を聞いてくれるのも、私をひとりぼっちにしないでくれるのも、私を大事にしてくれるのも、理人だけなのだ。
「……ありがとう」
だけど、ちゃんと分かっている。
私の理人に対する気持ちは、彼に向ける“好き”は、決して恋心ではない。
兄のように慕っている、と言った方が正確だ。
幼い頃からずっとそう────気が弱く大人しい私を、理人はそばで見守ってくれていた。
私にとって彼が指標のような存在である一方、彼にとっての私は足枷でしかないかもしれない。
ちゃんとしなきゃ、と思いながらも、理人の優しさにはとことん甘えてしまう……。
不意に彼が、ぎゅ、と手に力を込めた。
「だから、菜乃も僕を信じて。僕の言うことを聞いてれば大丈夫だから」
「理人……」
「あいつのことなんて考えなくていい。どうせ何も出来やしないんだから……」
何だか様子がおかしい。
微笑んでいるのに、氷のように冷たい表情だった。
ぎゅうう、と嘘みたいに強い力で手を握り締められる。
「い、痛いよ……。どうしたの、理人」
初めて見る彼の様子に、戸惑いを隠せない。
怖い。
痛い。
こんな理人、知らない。
「……あ、ごめん」
はたと我に返った理人が、慌てて私を離した。
手の甲を見れば、赤い痕が残っている。
それに気付いた彼は慌てたように言う。
「本当にごめん、菜乃。傷つけるつもりはなくて」
「だ、大丈夫。ちょっとびっくりしたけど……」
心臓が早鐘を打っていた。
動揺を抑えられない。
理人に対して“怖い”なんて感情を抱いたのは初めてだ。
彼自身も戸惑っているようだった。
何かに焦っていたようにも見えた。
そんな様子を見ていると、先ほどの姿は気のせいだったのではないかとすら思えてくる。
理人は私を心配してくれただけ。それが少し高じただけ……。
(……だよね?)
「でも、菜乃。彼のことは本当に無視してればいいから」
一拍置いて理人が言う。
「だから、もう気にするのはやめよう。彼の話はこれでおしまい」
いつもと同じ優しい表情。優しい声色。
それなのに、もう二度と向坂くんの名を出すな、というような圧を感じる。
先ほど垣間見えた冷たい一面から、理人に対する違和感のようなものが急速に膨らんでいく。
────でも、何も聞けない。何も言えない。
また先ほどのようになったら、と思うと何だか怖い。
違和感も恐怖も、気のせいだと思いたかった。
しかし、植え付けられた強烈な印象がそうさせてくれない。
「……分かった」
小さく笑んで頷いた。
上手く笑えてたかな……?
理人は満足そうに微笑み、私の頭を撫でる。
なぜか、いつもの温もりを感じることは出来なかった。
「…………」
カーテンを見つめ、部屋の真ん中で立ち尽くす。
窓から覗いて、また向坂くんがいたらどうしよう。
想像しただけで、背筋がぞくりとする。
素早く脈打つ鼓動を感じながら、私は緊張気味に窓辺へ歩み寄る。
恐る恐る窓の外を見下ろした。
「!」
……いた。
向坂くんが、昨日と同じところに。
「……っ」
目が合いそうになって、私は慌ててカーテンを閉めた。
呼吸が、指先が、震える。
(なんで……。何で? 何で?)
何でいるの?
何で執着するの?
向坂くんの目的は何……?
心臓が重たい拍動を繰り返す。手足の先がどんどん冷えていく。
息が苦しくなった。
まるで、首を絞められているみたいに────。
「理人……」
思わずスマホを手に取って、はたと思い出す。
『だから、もう気にするのはやめよう。彼の話はこれでおしまい』
彼には拒絶されたのだ。
理人にはもう、向坂くんの話をすることは出来ない。
そのことでは頼れない。
「どうしよう……」
どうしたらいいんだろう。
誰か、助けて……。
底の見えない恐怖で不安定になった心が揺れる。
真っ青な顔で泣きそうな自分が、スマホの液晶に反射していた。
私は部屋の電気を消し、ベッドに潜った。
布団を頭から被り、震えながら目を閉じる。
(お願い、もう……。早くどこかへ行って)
近くに潜む向坂くんの気配に怯えながら眠りについた。
応援ありがとうございます!
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