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第一章
犯人ってこと……?
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食事が終わり、使用人たちがテーブルを片付け始める。
私はそっとナプキンを畳みながら、テーブルの向こう側に座るニコリの様子をうかがった。
彼女はいつも通り落ち着いた表情を浮かべているものの、食事中ほとんど口をつけていなかった。フォークを持つ指が時折震えていたのも気になる。
「……ニコリ?」
声をかけると、ニコリは一瞬、肩を揺らした。だが、すぐに柔らかい微笑みを作る。
「なんでしょう、メアリーさん?」
「少し、話がしたいの」
ニコリの微笑みがわずかに引きつる。
「えっと……今ですか?」
「ええ。少しだけでいいから、部屋で話せない?」
ニコリは戸惑ったように視線を彷徨わせたが、やがて観念したように小さく頷いた。
「……わかりました。では、私の部屋で」
そうして、私たちは席を立つ。
ニゲラとクレスが食堂の片付けをしている横を通り抜けながら、私はふとニゲラの横顔を見た。
彼は手際よく皿を重ねながら、どこか落ち着きのない様子だった。
──何かを気にしている。
そう感じたものの、今はまずニコリの話を聞く方が先決だ。
私達は食堂を出て、ニコリの部屋へと向かった。
「どうぞ、お掛けください」
部屋に入ると、ニコリは私に椅子を勧め、ティーカップを用意し始めた。私は勧められるままに腰を下ろし、彼女の手元を眺める。
カップを持つ手が、やはりかすかに震えている。
私はカップに口をつける前に、静かに切り出した。
「ねえ、ニコリ。あなた、警察には『鍵の閉め忘れはなかった』って証言したわよね?」
部屋に、緊張が走った。
テーブルの上には、ニコリが用意してくれたティーカップと皿が並んでいる。
ニコリは視線をそらし、小さく頷いた。
「……はい、そう言いました」
「でも、私に話したときは違ったわよね?」
私は椅子に身を乗り出し、ニコリの目をまっすぐに見つめる。
「あなた、こう言ったわよね。『ウィルさんの部屋には行ってない』って。そして、『ウィルさんは就寝前に自分で鍵を閉める』って……」
部屋が静まり返る。ニコリの指先が小さく震えた。
「どうして、そのことを警察に言わなかったの?」
「……」
「何か隠しているのね?」
ニコリの瞳が揺れる。
「私は──」
「あなたの発言には矛盾がある。でも、嘘をついた理由があるはずよ。人は、理由なしに嘘はつかないもの……」
ニコリが喉を鳴らし、息を詰まらせる。
「教えて。ニコリ。本当は何があったの?」
長い沈黙。ニコリの指が膝の上でぎゅっと握られる。その場から消え去りたいとでも言うように。
でも、私は待った。逃がさないという意志を込めて、じっとニコリを見つめ続ける。
そして──
「わかりました……」
ニコリは小さく息を吐き、真実を語り始めた。
「昨日の深夜零時過ぎ、私が鍵閉めをしようと使用人室で鍵を取り出していた時、ニゲラくんが来ました。私の姿を見たニゲラくんは……」
「──ニゲラは、どうしたの……?」
言葉を詰まらせるニコリに、私は問いかける。
「ニゲラくんは……ウィルさんを……殺してしまった……と、私に言いました……」
「えっ……?」
私は耳を疑った。
ニゲラが、ウィルさんを殺した……?
なんのために……?これも嘘……?でも……
ニコリの震える声が、この証言は嘘ではないことを物語っているように感じる……。
「そして、ニゲラくんは続けました。『このことは誰にも言わないでほしい。信じられるのは姉さんだけだ』って……」
話を続けるニコリには申し訳ないけれど、頭が追いつかない。
本当にニゲラがこの事件の犯人だとしても、証拠がない。
ニコリの証言は証拠になり得る……? いや、彼女の思い込みと言われればそれまで。
何か、物的証拠が必要……。
「えっと……ニコリ……?」
「なんでしょう……?」
ニコリが話をやめ、私の方を向く。
「つまり、ニゲラが犯人ってこと……?」
「──私も信じたくないですが、そうです……」
「……一旦、そう受け取っておくわ。話を続けてちょうだい」
私は促した。
「は、はい……その後、ニゲラくんはクレスさんの手伝いに戻ると言い、私は鍵閉めに向かいました。でも、その前にウィルさんの部屋へ行ったんです……ニゲラくんの言ったことが信じられなくて……そしたら……」
ニコリは一度言葉を切り、震える声で続ける。
「ウィルさんが、胸にナイフが刺さったまま倒れていました……」
──本当の第一発見者はニコリだったのね。
……って、あれ?
「ねえ、ニコリ? そのナイフって、どうしたの……?」
アンゼリカは確か、『凶器は未発見』 って言ってた。
でも、今ニコリはナイフが刺さっていたって……。
「そのナイフは……暖炉に投げました……。ニゲラくんを庇おうとして……」
なるほど……
ニコリとニゲラは、同じ孤児院出身だったっけ……。
考えるより先に、体が動いてしまったのね……。
「あなた達が同じ孤児院出身なのは知ってるわ。でも、証拠を隠滅しようとするのはダメよ」
「──ごめんなさい……」
ニコリは素直に謝った。そして、ためらいながらも続ける。
「──ワインとワイングラスを持っていったのも、私です……」
「……それもあなたなのね。それで、今それはどこに?」
「この部屋にあります……」
そう言うと、ニコリは椅子から立ち上がり、部屋の片隅からワインボトルとワイングラスを持ってきた。
「こちらが、私が持ってきたワインとグラスです……」
見た感じ、特に何もない。ただのワインとグラス。
……でも、フグ毒が含まれているはず。
けれど、クレスさんとフグ肝を見た時、切られた形跡はおろか、傷すら見当たらなかった……。
なら、毒はどこから……?
「……どうしました?」
じっとワインを見つめていた私に、ニコリが困惑した声をかける。
「ねえ、ニコリ。使用人室での私とクレスさんの会話、覚えてる?」
「えっと……確か、テトロ……なんとかの話でしたよね?」
「そう、テトロドトキシン。フグ肝に含まれる毒のことよ。警察の調べでは、カーペットにこぼれたワインからその毒が検出されたって」
私はワインをグラスに注ぎながら続ける。
「クレスさんも言ってた。『フグ毒は危険だから、鍵付きの箱に保管している』って」
「確かに言ってましたね……」
「……ニコリ、私がどうなっても、一時間は誰も呼ばないでね」
「それってどういう……」
ニコリが言い終える前に私はワインを入れたグラスを持ち上げ、口へ運ぶ。
心臓が早鐘を打つ。もし、私の推理が外れていたら……?
でも、私は迷わなかった────答えを知るために、グラスを傾け、ワインを一口飲んだ。
「メアリーさん!?」
ニコリが驚くのも無理はない。
だって、さっきまで毒の危険性を話していたのに、その毒が入ったワインを私が飲んだのだから。
沈黙が流れる。
ニコリが不安げに私を見つめる中、私はじっと自分の体の変化を待った。
……十……二十……三十分……。
「────やっぱり……」
「えっ?」
ワインを飲んだ私の体には、何の変化もない。
テトロドトキシンは通常、二十分から三十分で中毒症状が出るはず。
でも、私は何も感じない。
「──やっぱり、毒は入っていなかった……」
──じゃあ、どうしてカーペットのワインから毒が?
また、新たな謎が生まれた……。
「なるほど……よかったです……」
私の無事を確認し、ニコリはほっと息をつく。
「とりあえず、ワインの件は後で考えましょう。ニコリ、一緒にウィルさんの部屋へ行かない? ナイフの話を詳しく聞きたいの」
「わ、わかりました……」
こうして私たちは、ニコリの部屋を出て、ウィルさんの部屋へと向かった。
長い廊下を歩いていると、ニコリの足取りは徐々に重くなっていく。
私はそんなニコリを気にかけながら、そっと声をかける。
「大丈夫?」
「……はい」
彼女はぎゅっと両手を握りしめ、かすかに震えている。
「無理はしないで。でも、あなたの証言が必要なの」
「……わかっています」
小さく息を吐き、覚悟を決めたように頷く。
ウィルさんの部屋の扉の前に立つ。
一度振り返り、ニコリの表情を確かめると、ノブに手をかけた。
扉を開けると、そこにはあの夜の名残がまだ残っていた。
ワインの染みの残るカーペット、倒れた椅子、そしてまだ微かに感じる鉄の匂い。
私の宿泊場所だが、現場の状況はそのままにしている。
ここでウィルさんが殺された。
そして、ニコリはその現場を目にした。
ニコリは息を詰まらせる。
「……ニコリ、ゆっくりでいいから、思い出してみて。あなたはここで何を見て、何をしたの?」
彼女はおそるおそる部屋の奥へと目を向ける。
「……私は、このあたりまで来て……それから……」
ニコリは部屋の中央、ちょうど血の染みの近くで立ち止まった。
「ウィルさんは、ここに倒れていました……。そして、胸にはナイフが……」
「そのナイフを、あなたは暖炉に投げたのよね?」
「……はい」
ニコリの手が、そっと自分の指先をなぞる。まるで、あの時の感触を思い出すかのように。
「でも、今思えば……少しだけ変な感じがしました」
「変な感じ?」
「……持った瞬間、すごく冷たかったんです」
「冷たかった?」
私は眉をひそめる。
「それって、金属の冷たさとは違うってこと?」
「……はい。なんて言えばいいのか……。でも、その時は気にしていませんでした。とにかく、ナイフを処分しなきゃって思っていたので……」
私は少し考え込む。
冷たいナイフ。
血に濡れた状態で、冷たく感じるほどのもの……?
「……それで、ナイフを暖炉に投げたとき、何か気になることはあった?」
「……あまり覚えていません」
ニコリは不安そうに私を見る。
私は暖炉へと歩み寄り、中を覗き込んだ。
すでに火は消えており、灰が少し残っているだけ。
「ナイフの残骸は……ないわね」
私は暖炉の灰を指で軽くすくってみた。
──金属の破片も、焼け焦げた柄も、何一つない。
私は立ち上がり、部屋をゆっくりと見渡す。
「……ニコリ、もう一度聞くけれど、ウィルさんを殺したのは、ニゲラなのよね?」
「……はい。ニゲラくんが『自分がやった』と言っていました」
私は考えを巡らせる。
ニゲラがウィルさんを殺した。
ニコリはそのナイフを暖炉に投げた。
でも、ナイフは完全に消えている。
私はポケットから、一枚の写真を取り出した。
警察から受け取った、ウィルさんの遺体写真。
そこには、血だまりの中に倒れたウィルさんの姿が写っていた。
──胸にはナイフが刺さっていない。
当然だ。
ニコリがそれを抜き、暖炉に投げ入れたのだから。
私は写真をしまい、静かに息を吐く。
「……ニゲラに、話を聞いてみるわ」
「メアリーさん、一緒に行きます」
「……いいえ」
私はニコリの目をまっすぐに見つめる。
「ニゲラには、一人で話を聞く」
「でも……!」
「大丈夫よ。私は刑事みたいなものだから」
わずかに冗談めかして言うが、ニコリの不安げな表情は変わらない。
それでも、私は一人で行くべきだと思っていた。
ニゲラの本音を引き出すためには。
私はウィルさんの部屋を後にし、まっすぐにニゲラの部屋へと向かった。
私はそっとナプキンを畳みながら、テーブルの向こう側に座るニコリの様子をうかがった。
彼女はいつも通り落ち着いた表情を浮かべているものの、食事中ほとんど口をつけていなかった。フォークを持つ指が時折震えていたのも気になる。
「……ニコリ?」
声をかけると、ニコリは一瞬、肩を揺らした。だが、すぐに柔らかい微笑みを作る。
「なんでしょう、メアリーさん?」
「少し、話がしたいの」
ニコリの微笑みがわずかに引きつる。
「えっと……今ですか?」
「ええ。少しだけでいいから、部屋で話せない?」
ニコリは戸惑ったように視線を彷徨わせたが、やがて観念したように小さく頷いた。
「……わかりました。では、私の部屋で」
そうして、私たちは席を立つ。
ニゲラとクレスが食堂の片付けをしている横を通り抜けながら、私はふとニゲラの横顔を見た。
彼は手際よく皿を重ねながら、どこか落ち着きのない様子だった。
──何かを気にしている。
そう感じたものの、今はまずニコリの話を聞く方が先決だ。
私達は食堂を出て、ニコリの部屋へと向かった。
「どうぞ、お掛けください」
部屋に入ると、ニコリは私に椅子を勧め、ティーカップを用意し始めた。私は勧められるままに腰を下ろし、彼女の手元を眺める。
カップを持つ手が、やはりかすかに震えている。
私はカップに口をつける前に、静かに切り出した。
「ねえ、ニコリ。あなた、警察には『鍵の閉め忘れはなかった』って証言したわよね?」
部屋に、緊張が走った。
テーブルの上には、ニコリが用意してくれたティーカップと皿が並んでいる。
ニコリは視線をそらし、小さく頷いた。
「……はい、そう言いました」
「でも、私に話したときは違ったわよね?」
私は椅子に身を乗り出し、ニコリの目をまっすぐに見つめる。
「あなた、こう言ったわよね。『ウィルさんの部屋には行ってない』って。そして、『ウィルさんは就寝前に自分で鍵を閉める』って……」
部屋が静まり返る。ニコリの指先が小さく震えた。
「どうして、そのことを警察に言わなかったの?」
「……」
「何か隠しているのね?」
ニコリの瞳が揺れる。
「私は──」
「あなたの発言には矛盾がある。でも、嘘をついた理由があるはずよ。人は、理由なしに嘘はつかないもの……」
ニコリが喉を鳴らし、息を詰まらせる。
「教えて。ニコリ。本当は何があったの?」
長い沈黙。ニコリの指が膝の上でぎゅっと握られる。その場から消え去りたいとでも言うように。
でも、私は待った。逃がさないという意志を込めて、じっとニコリを見つめ続ける。
そして──
「わかりました……」
ニコリは小さく息を吐き、真実を語り始めた。
「昨日の深夜零時過ぎ、私が鍵閉めをしようと使用人室で鍵を取り出していた時、ニゲラくんが来ました。私の姿を見たニゲラくんは……」
「──ニゲラは、どうしたの……?」
言葉を詰まらせるニコリに、私は問いかける。
「ニゲラくんは……ウィルさんを……殺してしまった……と、私に言いました……」
「えっ……?」
私は耳を疑った。
ニゲラが、ウィルさんを殺した……?
なんのために……?これも嘘……?でも……
ニコリの震える声が、この証言は嘘ではないことを物語っているように感じる……。
「そして、ニゲラくんは続けました。『このことは誰にも言わないでほしい。信じられるのは姉さんだけだ』って……」
話を続けるニコリには申し訳ないけれど、頭が追いつかない。
本当にニゲラがこの事件の犯人だとしても、証拠がない。
ニコリの証言は証拠になり得る……? いや、彼女の思い込みと言われればそれまで。
何か、物的証拠が必要……。
「えっと……ニコリ……?」
「なんでしょう……?」
ニコリが話をやめ、私の方を向く。
「つまり、ニゲラが犯人ってこと……?」
「──私も信じたくないですが、そうです……」
「……一旦、そう受け取っておくわ。話を続けてちょうだい」
私は促した。
「は、はい……その後、ニゲラくんはクレスさんの手伝いに戻ると言い、私は鍵閉めに向かいました。でも、その前にウィルさんの部屋へ行ったんです……ニゲラくんの言ったことが信じられなくて……そしたら……」
ニコリは一度言葉を切り、震える声で続ける。
「ウィルさんが、胸にナイフが刺さったまま倒れていました……」
──本当の第一発見者はニコリだったのね。
……って、あれ?
「ねえ、ニコリ? そのナイフって、どうしたの……?」
アンゼリカは確か、『凶器は未発見』 って言ってた。
でも、今ニコリはナイフが刺さっていたって……。
「そのナイフは……暖炉に投げました……。ニゲラくんを庇おうとして……」
なるほど……
ニコリとニゲラは、同じ孤児院出身だったっけ……。
考えるより先に、体が動いてしまったのね……。
「あなた達が同じ孤児院出身なのは知ってるわ。でも、証拠を隠滅しようとするのはダメよ」
「──ごめんなさい……」
ニコリは素直に謝った。そして、ためらいながらも続ける。
「──ワインとワイングラスを持っていったのも、私です……」
「……それもあなたなのね。それで、今それはどこに?」
「この部屋にあります……」
そう言うと、ニコリは椅子から立ち上がり、部屋の片隅からワインボトルとワイングラスを持ってきた。
「こちらが、私が持ってきたワインとグラスです……」
見た感じ、特に何もない。ただのワインとグラス。
……でも、フグ毒が含まれているはず。
けれど、クレスさんとフグ肝を見た時、切られた形跡はおろか、傷すら見当たらなかった……。
なら、毒はどこから……?
「……どうしました?」
じっとワインを見つめていた私に、ニコリが困惑した声をかける。
「ねえ、ニコリ。使用人室での私とクレスさんの会話、覚えてる?」
「えっと……確か、テトロ……なんとかの話でしたよね?」
「そう、テトロドトキシン。フグ肝に含まれる毒のことよ。警察の調べでは、カーペットにこぼれたワインからその毒が検出されたって」
私はワインをグラスに注ぎながら続ける。
「クレスさんも言ってた。『フグ毒は危険だから、鍵付きの箱に保管している』って」
「確かに言ってましたね……」
「……ニコリ、私がどうなっても、一時間は誰も呼ばないでね」
「それってどういう……」
ニコリが言い終える前に私はワインを入れたグラスを持ち上げ、口へ運ぶ。
心臓が早鐘を打つ。もし、私の推理が外れていたら……?
でも、私は迷わなかった────答えを知るために、グラスを傾け、ワインを一口飲んだ。
「メアリーさん!?」
ニコリが驚くのも無理はない。
だって、さっきまで毒の危険性を話していたのに、その毒が入ったワインを私が飲んだのだから。
沈黙が流れる。
ニコリが不安げに私を見つめる中、私はじっと自分の体の変化を待った。
……十……二十……三十分……。
「────やっぱり……」
「えっ?」
ワインを飲んだ私の体には、何の変化もない。
テトロドトキシンは通常、二十分から三十分で中毒症状が出るはず。
でも、私は何も感じない。
「──やっぱり、毒は入っていなかった……」
──じゃあ、どうしてカーペットのワインから毒が?
また、新たな謎が生まれた……。
「なるほど……よかったです……」
私の無事を確認し、ニコリはほっと息をつく。
「とりあえず、ワインの件は後で考えましょう。ニコリ、一緒にウィルさんの部屋へ行かない? ナイフの話を詳しく聞きたいの」
「わ、わかりました……」
こうして私たちは、ニコリの部屋を出て、ウィルさんの部屋へと向かった。
長い廊下を歩いていると、ニコリの足取りは徐々に重くなっていく。
私はそんなニコリを気にかけながら、そっと声をかける。
「大丈夫?」
「……はい」
彼女はぎゅっと両手を握りしめ、かすかに震えている。
「無理はしないで。でも、あなたの証言が必要なの」
「……わかっています」
小さく息を吐き、覚悟を決めたように頷く。
ウィルさんの部屋の扉の前に立つ。
一度振り返り、ニコリの表情を確かめると、ノブに手をかけた。
扉を開けると、そこにはあの夜の名残がまだ残っていた。
ワインの染みの残るカーペット、倒れた椅子、そしてまだ微かに感じる鉄の匂い。
私の宿泊場所だが、現場の状況はそのままにしている。
ここでウィルさんが殺された。
そして、ニコリはその現場を目にした。
ニコリは息を詰まらせる。
「……ニコリ、ゆっくりでいいから、思い出してみて。あなたはここで何を見て、何をしたの?」
彼女はおそるおそる部屋の奥へと目を向ける。
「……私は、このあたりまで来て……それから……」
ニコリは部屋の中央、ちょうど血の染みの近くで立ち止まった。
「ウィルさんは、ここに倒れていました……。そして、胸にはナイフが……」
「そのナイフを、あなたは暖炉に投げたのよね?」
「……はい」
ニコリの手が、そっと自分の指先をなぞる。まるで、あの時の感触を思い出すかのように。
「でも、今思えば……少しだけ変な感じがしました」
「変な感じ?」
「……持った瞬間、すごく冷たかったんです」
「冷たかった?」
私は眉をひそめる。
「それって、金属の冷たさとは違うってこと?」
「……はい。なんて言えばいいのか……。でも、その時は気にしていませんでした。とにかく、ナイフを処分しなきゃって思っていたので……」
私は少し考え込む。
冷たいナイフ。
血に濡れた状態で、冷たく感じるほどのもの……?
「……それで、ナイフを暖炉に投げたとき、何か気になることはあった?」
「……あまり覚えていません」
ニコリは不安そうに私を見る。
私は暖炉へと歩み寄り、中を覗き込んだ。
すでに火は消えており、灰が少し残っているだけ。
「ナイフの残骸は……ないわね」
私は暖炉の灰を指で軽くすくってみた。
──金属の破片も、焼け焦げた柄も、何一つない。
私は立ち上がり、部屋をゆっくりと見渡す。
「……ニコリ、もう一度聞くけれど、ウィルさんを殺したのは、ニゲラなのよね?」
「……はい。ニゲラくんが『自分がやった』と言っていました」
私は考えを巡らせる。
ニゲラがウィルさんを殺した。
ニコリはそのナイフを暖炉に投げた。
でも、ナイフは完全に消えている。
私はポケットから、一枚の写真を取り出した。
警察から受け取った、ウィルさんの遺体写真。
そこには、血だまりの中に倒れたウィルさんの姿が写っていた。
──胸にはナイフが刺さっていない。
当然だ。
ニコリがそれを抜き、暖炉に投げ入れたのだから。
私は写真をしまい、静かに息を吐く。
「……ニゲラに、話を聞いてみるわ」
「メアリーさん、一緒に行きます」
「……いいえ」
私はニコリの目をまっすぐに見つめる。
「ニゲラには、一人で話を聞く」
「でも……!」
「大丈夫よ。私は刑事みたいなものだから」
わずかに冗談めかして言うが、ニコリの不安げな表情は変わらない。
それでも、私は一人で行くべきだと思っていた。
ニゲラの本音を引き出すためには。
私はウィルさんの部屋を後にし、まっすぐにニゲラの部屋へと向かった。
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