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『小さな勇気と大きな成果』

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 真っ白な空間に黒い文字が羅列していく。
 不規則な速さでそれらは並び、現れては消えてを繰り返す。
 しかし、全部が全部消えていくわけではない。
 一部は残り、確実にそれは終わりへと進んでいる。
 僕は今、小説を書いている。これは菜花さんの小説ではなく、僕がネットに投稿している小説の続きだ。
 菜花さんと出かけてから明日でちょうど1週間。僕はあの日から毎日少しずつだが、自分の創る物語を書き進めていた。
 以前ほどのペースではないにしろ、1ヶ月間なに1つとして前に進むことが出来なかった僕が着実に前へ進んでいる。
 昨日にいたっては2ヶ月半ぶりに続きをネットに投稿することが出来た。
 これらは僕にとって明らかな変化だった。
 きっかけが何だったかなんて、考えるまでもない。
 ある程度キリがいいところまで書き終え、書いた内容を改めて確認していると、タイミングを見計ったようにブッーとスマホが震え、画面の上の方に【明日が楽しみ!】と菜花さんからのメッセージが表示された。
 僕はすぐに【盛り上がっているところに水を差すようで申し訳ないけど、まだ許可は取れてないんだよね】と返事を返す。
 菜花さんと夕陽を見た帰り、僕はまた彼女から遊びの誘いを受けた。今日は私の行きたい場所に行ったから、今度は四葩君の行きたい場所に行こうよ――と。
 僕は当然それを断るつもりだった。だって元々僕はこの一度だけ菜花さんと遊ぶつもりだったし、彼女を連れて行きたいところなんてどこもなかったから。
 でも、気がついた時には「うん、いいよ」と僕の口は勝手に動いていた。
 美しい景色を見た後の余韻。それと、帰りの菜花さんはやけに口数が少なく、その静かで心地のいい雰囲気にまんまと僕はほだされてしまったのかもしれない。
 了承してしまった最初こそは後悔の念に苛まれはしたものの、しかし今は誘いを受けて良かったかもしれないと思っている僕がいる。
 現にこうして僕は小説を書けるようになった訳だし、まだまだ小説を書く上で役立つ何かを得られる可能性があるかもしれないし。
 それに、菜花さんには借りがある。行きと帰りの電車賃と道中で奢ってもらった缶ジュース1本。必要なことを伝えられずに一方的に連れ出されたとはいえ、女の子に全部のお金を払わせたままなのはなんだか嫌だった。
 だから本当にこれが最後。明日一緒に遊んで、菜花さんの小説を完成させて、あの写真を消してもらって、それで僕たちの関係は終わりだ。
 そう自分を納得させる言い訳を長々と自分に言い聞かせていると、シュポッという音とともに菜花さんからスタンプが送られてきた。
 髭を蓄えたどこぞの司令官ぽいイカツイおじさんが指をこちらに差しながら「チミはいったい何をしているのだね!」と言っているスタンプ。
 普通の女の子がチョイスしなさそうなそんなスタンプに、僕はついくすりと笑ってしまいながら【たった今から許可を取って来るであります】と返事を返す。
 菜花さんからのメッセージはすぐに来た。

【頑張ってね】

 急なおふざけのない激励に僕は今度は苦笑する。
 どうやら菜花さんは明日のことを相当楽しみにしてくれているらしい。
 あれの許可が取れたとしても、彼女が期待している通りの1日になるかは分からないが……許可が取れないことには何も始まらない。
 僕は最後に【頑張ってくる】と菜花さんにメッセージを送り、1階に下った。

 



 夕飯を食べ終わり、僕はリビングで小説を読みながら、机を挟んだ対面に座っている母さんに話しかけるタイミングを伺っていた。
 母さんはスーパーのチラシに目を通している。
 ……話しかけるタイミングを伺っていると先に言ったが、話すタイミングは何一つとして重要ではない。母さんが何をしていようが機嫌がどうであろうが、僕が今から聞くことに対しての答えに大した影響は及ぼさないだろう。
 ただ……僕は勇気が持てないだけ。
 母さんは7人姉妹の1番上というのもあってか、しっかり者で決まりに厳しい人だった。
 挨拶は必ずしなさい。門限を守りなさい。遊ぶ前に宿題をやりなさい。
 思えば母さんと世間話らしい会話をした記憶はあまりなかった。
 そんな息苦しい関わりかたをしてきたせいで、僕は母さんのことが嫌いでないにしろ苦手だった。

「夕。何か伝えたいことがあるならはっきり言いなさい」

 母さんの鋭く突き刺すような冷ややかな声に、僕は読んでいた小説を閉じて恐る恐る顔を上げる。
 もう母さんはチラシに目を向けていない。僕をまっすぐにじっと見据えていた。
 ……あぁ、苦手だ。本当にこの人が苦手だ。
 親子であろうとちゃんと話し相手の顔を見る窮屈な礼儀正しさも、滅多に崩れない感情の読みとれない無表情も、この人の全部が全部苦手だ。
 だから、いつも僕はご飯を食べる時以外の家にいる時間のほとんどは自室にこもっていた。
 正直なところを言うと、今すぐにでも自室に逃げ出してしまいたい。
 しかし、それが出来ない理由が今の僕にはある。
 たかがクラスメイトとの約束。借りなんてちっぽけなもの。自分の心をすり減らしてまで頑張る必要なんてないのかもしれない。でも、それでも――。

「あ、あのさ……」

 ごちそうさまを言ってから1時間以上言葉を発していない喉は異様に渇いていてうわずった声が出た。
 暑くもないの滲んだ汗が塊となって頬を伝って流れ落ちていく。
 滅多にしない母さんへのお願い事による緊張と、無駄なことをしているのかもという虚無感が次に出そうとしている言葉を躊躇わせる。
 やっぱりやめようかな……。
 そんな弱気な考えが頭に浮かんだのと同時にポケットの中のスマホが震えた。
 誰からの連絡かは分からないけど、どうしてか菜花さんの顔が頭の中に真っ先に浮かんだ。
 その表情は彼女がよく見せる笑顔だった。
 【頑張ってね】――1階に降りる前に菜花さんが送ってくれたメッセージを僕は思い出す。
 それが、とんっ、と僕の背中を軽く押した。
 詰まっていた栓が取れたみたいにすっと僕の口から言葉が出ていく。

「明日カブに乗りたいから鍵を借りたいん――」

「ダメよ」

 ……絶対に断られることは分かりきってはいたけど、まさか全てを言い終わる前に断られるとは思っていなかった。
 僕にとってはお願い事を口にすることでさえ出来るかどうか怪しかったので、ここから先のことは何も考えていない。
 けれど、やることは決まっていた。
 口火を切ってしまった以上、もう引き下がれはしない。
 
「お願いします。明日だけでいいので」

 僕は姿勢を一度正し、両の手を床に突いて、そしてさらに額をも床に突き当てる。
 僕は出来の良い息子ではないけれど、聞き分けの良い息子ではあったと思う。そんな僕が一度断られたことを再度お願いしたのはこれが初めてであり、ましてや土下座までして頼み込んだことなんて今までになかった。 
 だからだろうか。母さんの顔は見えなくとも、母さんが驚いている様はひしひしと伝わってきた。
 長い長い沈黙。
 僕は頭を上げない。土下座の姿勢のまま母さんからの返事を待つ。

「……ダメよ」

 耳に届いた返事は先に聞いたのと何も変わらないものだった。
 しかし、声は違った。ハッキリとものを言う母さんにしては珍しく、台所にある食洗機の音だったり洗面所にある洗濯機の音だったり、そんな些細な生活音で掻き消されてしまいそうなぐらいその声は弱々しいものだった。
 僕は顔を上げて母さんの顔を見る。
 いつもの無表情にはさほどの変化はない。けれどその中には微かな動揺が確かにあった。
 これってもしかして……いけるのでは?
 一抹の希望がチラつき、僕は再び頭を下げようとした。しかし、それよりも少しだけ早く、玄関ホールとリビングを隔てているドアが開いた。
 
「ただいまー……って、これどういう状況?」

 仕事から帰ってきた父さんは向かい合って座っている僕と母さんの顔を交互に見ながら困惑した表情を浮かべていた。
 父さんは僕が母さんを避けていることを知っている。
 そんな僕が食事の時間以外で母さんと一緒にいるのでさえ珍しいのに、土下座をしようとしているところなんて目にしてしまえば、そういう顔をするのも無理はない話だった。

「おかえりなさい、あなた。これは夕が明日バイクに乗りたいから鍵が欲しいって」

「夕が? バイクに?」

 母さんからの簡潔な事情説明に対し、やけに嬉しそうな声色で父さんはそう言うと、驚きや嬉しさが入り混じった様な顔を僕に向けた。
 僕がバイクの免許を父さんに半ば無理矢理とらされてから2年ちょっと。その間に僕が自分からバイクに乗りたいと言ったことはなく、自分から乗りたいと言ったのは今日が初めてだった。だからきっと父さんは心の底から嬉しかったのだろう。

「1人でどこかに行くのか?」

「いや、友達と」

「その友達はバイクを持ってるのか?」

「持ってないよ。僕のカブに2人で」

「どこまで行くつもりだ?」

「コスモス畑が有名な上の高原まで」

「そうか」

 父さんは僕にあらかたの質問をし終えると次は母さんの方に顔を向ける。

「カブの鍵を渡してやってもいいんじゃないか? 夕は俺と何度もツーリングしてるし、行く場所だって市内だしさ」

 父さんがそう口にした直後だった。
 バンッ、と大きな音がリビング内に響き渡った。
 それは母さんが両手の平で机を強く叩いた音だった。
 あっ、マズイ……。と僕は思ったし、たぶん父さんも同じことを思っただろう。
 普段の母さんは物や人に当たる人ではなかったけど、一度だけ僕は今みたいに物に当たった母さんを見たことがある。
 父さんが母さんに内緒で僕にバイクの免許を取らせたのと僕用のカブを購入したのが発覚した日。あの日と同じで今もまた、母さんはいつもと変わらない無表情を顔に張り付けていたが、隠しきれない怒りがその行為にありありと表れていた。

「市内だからいいって話じゃない。バイクに乗ること自体が危険なの。それにこの子はまだ学生なのよ。もし事故ったらどうするの? 相手に怪我をさせたら? 同乗者の友達に怪我をさせたら? 自分で責任を取ることは出来ないわ。全ての責任は私たちが取らないといけないのよ?」

「そ、それは……」

 父さんの言葉はそれ以上続かなかった。
 母さんの言っていることは正しく、反論の余地なんてなかったからだ。
 そして父さんと同じくして、僕も母さんに対して何も言い返すことが出来なかった。
 いくら僕が気を付けて運転していたとしても、絶対に事故が起こらないとは限らない。
 母さんの言っていた、責任だったりお金だったり……学生である僕は母さんたちにそれらの全てを頼らざるを得ないのは確かだ。
 そういった類の話を持ち出されてしまえば、僕はただ黙るしかなかった。

「そもそも私は夕にバイクの免許を取らせるつもりなんてなかった。それなのにあなたが私に内緒で免許なんて取らせるから……。はぁ……今はその話はどうでもいいわね。それよりも、あなたはあの時にした約束を忘れたの? 夕が学生の内は絶対に1人で運転させないって。そう約束をしたから私はあなたを許しましたよね?」

「まぁ……うん。そういう約束をしたけどさ。でも――」

「でも?」

「あぁ、いや……。なんでもない……」

 母さんの高圧的な態度にしゅんと縮こまった父さんはやけに小さく見えた。
 父さんが帰ってくる前の動揺していた母さんなら、甘く見積もって10パーセントくらいは説得出来る可能性があったかもしれない。
 しかし、もうこうなってしまえば母さんの独壇場だった。
 もし僕の今回の願い事がバイク以外のことであったならば、母さんはこんなにも意固地になって反対はしなかっただろう。
 母さんにはどうしても僕にバイクを乗らせたくない、それだけの理由があった。
 母さんの母さん――僕のおばあちゃんの弟は若い時にバイクの事故で亡くなった。
 だからおばあちゃんは言葉通り家族の仇と言わんばかりにバイクを恨んでいた。
 それが原因でお母さんを含めた母さん姉妹はおばあちゃんからバイクは危険な乗り物と叩き込まれていて、誰1人としてバイクを所持はしていない。

「あなたにも夕にもこれだけは分かって欲しい。私はあなた達に意地悪をしたいわけじゃないの」

 誰も何も言えなくなった重苦しい雰囲気の中、母さんは静かにため息を吐き、顔を隠すように両手を額の位置に添え当てて喋り始めた。
 母さんのその声には怒りだったり、呆れだったり――そういった感情は一切感じなかった。
 ただただ伝わって欲しい。たったそれだけの想いがその声には切実に表れていた。
 
「相手や友達に怪我をさせたりとか、責任がどうとか色々と言ったけど……そんなことよりも私は夕の身に何かがあってほしくないの。バイク事故の死亡率は高くて……命が助かったとしても、指が無くなったり足が無くなったり……大きな障害が残る可能性だってある。夕がそうなってしまうかもしれないのが……何よりも怖いの……」

 母さんの体は微かに震えていた。辿々しく出される声も微かに震えていた。
 目元を覆い隠している母さんの手の影から頬を伝って流れ落ちていく雫が見えて、僕は込み上げてくる感情に耐えきれなくなって下を向いた。

「夕は私たちにとって……大切な息子だから……」

 …………そんなこと知ってるよ。
 わざわざ言われなくたって分かってるよ。
 母さんはいつでも僕のことを考えてくれている。
 何の取り柄もない出来損ないの息子を見限らずにここまで育ててくれた。
 親なのだからそれが当たり前だと、僕はそうは思わない。
 見放すことは簡単だ。暴力を振るって無理矢理従わすことも簡単だ。でも、母さんはそれらをしなかった。
 僕がまだ小学生の頃、クラスメイトに背中を押されて頭を打ちつけて怪我をした時に母さんはわざわざ相手の家にまで行って怒ってくれた。
 僕が熱を出した時、症状は軽いものであろうと重いものであろうとそれに関わらず、母さんは仕事を休んでずっと僕の側に居てくれた。
 好きだとも美味しいとも言った覚えはないのに、母さんは僕の好みの料理を把握していて、まあまあな頻度で出してくれる。
 何かとルールを決められて不自由だと思うことだってある。口煩く叱られてうんざりすることもある。
 でも僕さ、ちゃんと分かってるよ。母さんがちゃんと愛情を持って僕を育ててくれたこと。
 だから、僕は母さんが嫌いではなく苦手なんだ。
 あぁ、ほんといっそのこと、冷酷でクソみたいな親であったなら嫌いになれたのに……。

「……」

 長く続く沈黙の中、もう何を言っても無意味だろうと、僕は心の奥底では諦めがついていた。
 あぁ、いや。何を言っても無意味というよりは、何も言えなくなってしまったの方が正しい。
 母さんがこれまであえて言わなかったであろう本心を口に出させてしまった。そうまでさせてしまって……これ以上口答え出来るはずがなかった。
 さあって、これからどうするか。
 ここ1週間頭を悩ませ続けていた問題がやっと片付いたというのに、新しい問題がまた増えてしまった。
 流石の菜花さんでもこの事情を聞いて僕を責めることはしないだろう……と信じたいが、まず彼女が落ち込むことは間違いない。
 それに明日行こうと思っていた場所は徒歩や自転車で行くにはかなりの労力を要する場所なので、行き先も変えないといけない。
 遊ぶ前日になってやっと動き始めた僕が全部悪いのだが……これからのことを考えるとかなり億劫だった。
 とりあえず2階の自分の部屋に戻って菜花さんに連絡しよう。
 僕は床についた手に力を入れて立ち上がろうとする。しかし、僕が立ち上がるよりも先に行動を起こしたのは母さんの方だった。

「一緒に行こうとしている友人というのは藤君のことでしょ? 自分で断れないのなら私の方から親伝いで連絡して断っておくわ」

 まだ僕が諦めていないと思っているのか、母さんはスマホを取り出して素早い手つきで操作し、それを耳元に添えた。
 そんな母さんを見て、僕は「ま、待って!」と大声を上げながら慌てて止める。
 今日のこの件を藤にだけは絶対に知られるわけにはいかなかった。
 長年の付き合いである藤は僕の家族関係を知っている。
 次に藤と学校で会った時――いや、なんなら母さんが連絡し終えた直後に藤から連絡が来て【誰と一緒に行こうとしていたんだ?】と絶対に聞かれるハメになるのは目に見えていた。
 藤はこれまでに何度もバイクの2人乗りをしたいと散々僕にお願いしてきて、その度に僕は絶対に無理だと親に聞く前から断ってきた。
 1番親しいとも言える程の友人が何度お願いしても行動さえ移さなかった僕が一緒に行こうとした相手。その人物はいったい誰なのか? 当然それを藤が気にならないはずがない。
 本当は1人で行こうとしていたけど友達と一緒にって言えば許してもらえる可能性が上がるかもと思った、なんて言い訳も藤には通用しないだろう。
 本当のことを言うまでしつこく聞かれた挙句、菜花さんとの関係を根掘り葉掘り問いただされ、ついでに小説のこともバレて隅々まで調べられる恐れがある。
 そんなの想像するだけでもとてつもなく面倒なことなのに、現実になってしまった日には僕は発狂して死んでしまうかもしれない。
 だから、藤にだけは絶対に知られるわけにはいかなかった。

「藤じゃないんだ!」

 制止した時の勢いそのままにそう言ってから、あっ、しまった、と思った。
 自分で断っておくからいい。そう言えば済む話だったのに、馬鹿正直に僕は本当のことを口にしてしまっていた。

「藤君じゃないのなら、誰と一緒に行こうとしていたの?」

「えっと、それは……その…………」

 言い淀む僕を母さんはじっと見据える。
 下手な嘘はバレてしまうだろうし、自分で断っておくからと言ってここから逃げようものなら余計に怪しまれ、いらない心配を母さんにかけてしまうかもしれない。
 本当は言いたくないけど……こうなってしまったからには仕方ない。
 言いたくない理由は所詮しょうもないものだ。
 もう本当のことを打ち明けてしまっても構わないだろう。

「一緒に行こうとしているのは同じクラスの……あー、その……女の子と…………」

 そう言った途端、部屋にしんっとした沈黙が訪れた。
 今日は沈黙の時間が度々あったが、それのどれとも違う種類の沈黙だった。
 腹から顔にかけて熱がぐんっと上がってくるのを感じて、僕は堪らずに下を向く。
 これまでの人生、両親との会話の中で1度も異性関係の話が持ち上がったことはなかった。
 僕自身がそういったものに興味がなく、読書ばかりが趣味の人間だったのもあり、両親もそれを充分に理解していたからか、2人ともあえてその話題には触れてこなかったのだと思う。
 そんな今まで浮いた話を一度も持ってこなかった僕がいきなり異性の話をすれば、変な勘違いもされやすいと思うし、ましてや一緒にバイクでどこかに行こうとしているのが知られてしまえば……こう、なんというか……異性にいいところを見せようとしていると、そういうふうに思われそうで嫌だった。
 ……というかそもそもの話、この僕の言い分は2人に信じてもらえているのだろうか?
 バイクに乗りたいがための苦し紛れの理由にも聞こえなくはない。
 ……まぁ、信じられていようが信じられていまいが、この場の居心地があまりいいものではないのは間違いなかった。――いや、正直に言うとあまりいいものとか、そういった次元の話ではない。今すぐにでも叫びながら走り出し、自室に篭りたいと思うぐらいには最悪だった。
 どうせ了承は得られないし、僕自身が諦めは付いているのでここに長居する意味はない。
 今度こそ部屋に戻ろう。そう思い、行動に移そうとした――その時だった。

「ふっ……うわはははははははははは!」

 今まで黙っていた父さんが急に腹を抱えながらげらげらと大きな声を上げて笑い出した。
 父さんは母さんと違って感情が顔に出やすい人だ。でも、こんなに笑う父さんを見るのはこれが初めてだった。

「そうかそうか。好きな人にはかっこいいところ見せてやりたいもんな」

「なっ……違う違う違う! 恋愛感情なんてこれっぽっちも持ってないし、バイクに乗っている自分がかっこいいとかも思ってない!」

「はははは。まぁ、そう言うなよ。親子なんだから恥ずかしがる必要もなければ隠す必要だって無いだろ?」

「いや、恥ずかしがるどうこうじゃなくて事実を言っているだけだから」

「まあまあ、ちゃんと父さんは分かってるって」

「いいや、父さんは何も分かってない。それ盛大な勘違いだから」

「盛大な勘違いってことはないだろ。2人でツーリングに行こうとしてるってことは、まだその子を好きと言えるほどの気持ちはないにしろ、気になってはいるんじゃないか?」

「だから全然そういうのじゃないって……もういい。僕はもう部屋に戻る」

 浅くため息を吐いてから、僕はようやくやっと立ち上がる。
 そしてそのままリビングから出ようとしたが、ドアの近くに立っていた父さんに「待てよ」と肩を掴まれ僕は足を止めた。

「まだ話は終わってないぞ」

「続けたって意味ないよ。そうだろって言われてそうじゃないよと返すだけのただの堂々巡りだ。ていうか父さんには関係ないだろ。僕がその子に気があるかないかなんてさ」

「我が子のことなんだから関係はあるだろ。将来は家族になる可能性だってあるし……って、まぁ、その話は置いといてだな。夕が本当に嫌そうだったから父さんだってこれ以上その話を広げる気は元々なかったよ。父さんが言ってるのはカブの話だ」

「え? カブの話って……」

 それこそ終わっているものだと思っていた話を父さんは口に出すと、「なぁ、母さん」と言って母さんの方に視線を向けた。
 母さんは僕たちの方に顔を向けてはいなかった。いつもと変わらない無表情を少し俯きがちに落とし、こちらに向こうとする素振りをいっさい見せようともしない。
 そんな母さんを見て、あれ? と僕は不思議に思った。
 話し相手が家族であろうと母さんは手の離せない家事をしている時以外は必ずしていることを止め、話し相手の方に顔をちゃんと向けるぐらいの礼儀正しさを持つ人だ。
 それなのに母さんはまるで父さんの声が聞こえなかったかのように、ひたすら目の前の机と睨めっこしている。
 父さんの声が本当に聞こえていないはずがないのに、だ。
 だからだろうか。母さんのいつもと変わらない無表情が、俯きがちになっているのもあいまって考え込んでいるようにも悩み込んでいるようにも見えた。

「夕はまだ大人ではないよ。でも、俺らが全部の面倒を見なければいけないほどの子どもって訳でもないだろ? 必要の無い危険性であるのなら、最初っからやらさなければいいって母さんの考えも俺には分かるよ。だけど、危険が伴うからってなんでもかんでも制限して……それって本当に夕のためになるのかな? それが夕の楽しみを勝手に奪うことにもなっているんじゃないか? 自分たちの息子を信じて見守ってやることも時には大切だと、俺は思うんだ。だから、とりあえず明日だけでもいいから、夕にカブの鍵を渡してやってもいいんじゃないか?」

 父さんは愚直な眼差しをひたすらに母さんへ向け、ゆっくりと語り聞かせるようにそう言いきった。
 普段の父さんは僕と同じで母さんには頭が上がらない人だった。
 バイクの免許を勝手に僕に取らしたのが母さんにバレた日だって、しどろもどろって感じで言い訳をしていて、その姿は息子である僕の目で見ても余りにも情けなく、とても頼りにならないものだった。
 だけど、今の父さんは違う。
 物怖じせずにはっきりとものを言うその姿は頼りになる父親そのものだった。
 しかもそれは自分のためじゃなく、僕のためを想っての姿勢であることは先の父さんの言葉で痛いほどに伝わった。
 父さんも母さんと同じで、僕のことを心から想ってくれている。それが知れて、母さんの本心が聞けた時と同じように、また僕の胸の奥から込み上げてくるものがあった。
 ……だけど、だからといって母さんの心も打てたかというとそれはまた別の話だ。
 父さんが話している間、母さんは僕たちの方に顔を向けずにずっと机に視線を落としていた。
 父さんは僕のためを想って僕を自由にさせようとしている。母さんは僕のためを想って僕の行動を制限しようとしている。
 その2人の相反する意思はどちらかが折れない限り絶対に決着がつかないことは、この場にいる3人全員が理解していた。

「はぁ……」

 母さんはまた両手で額を抑えながら、深く――それはもうとてつもなく深いため息を吐く。
 僕が一緒に行こうとしているのが女の子だと分かった今、母さんは今まで以上にもっと激しく反対するはずだ。
 いつもの父さんならそれで折れると思うが、今回の父さんはそう簡単には折れそうにない……気がする。
 これまでは喧嘩になる前に父さんが母さんに一方的に言いくるめられているところしか見たことがなかったので、もしこれで喧嘩になってしまえば、これが僕の初めて見る夫婦喧嘩となってしまう。
 どちらかに非があれば悪くない方の味方になれるが、今回はどちらとも悪くはなく、なんなら僕が喧嘩の発端だ。
 なんだかんだで喧嘩のしてこなかった両親が僕のせいで喧嘩する。そんなの凄く嫌だった。
 僕はただカブの鍵を貸して欲しかっただけなのに……どうしてこうなってしまったんだろう。……まぁ、今はそんなことを嘆いていてもどうしようもない。
 もし喧嘩が始まってしまってもすぐに仲裁に入れるように、僕は心の準備をしながら2人の出方を窺う。
 まず先に動いたのは母さんの方だった。
 母さんは目を瞑り、一度だけ小さく頷くような仕草を見せ、ゆっくりとこちらを振り向いた。
 その顔は覚悟を決めたかのような、怒っているともとれるような、苦悶しているともとれるような、色々な感情が入り混じった複雑な表情をしていた。
 今まで見たことのない母さんの表情に、いったいどんな言葉が飛び出すのだろうと僕は身構える。
 しかし、次に母さんの口から出た言葉は僕がまったく予想だにしてないものだった。

「分かったわ。夕にバイクの鍵を渡します」

 僕は自分の耳を疑った。
 脳までをも疑った。
 母さんの言った言葉があまりにも自分にとって都合がいいもので、僕は自分を、母さんの言葉を、この現状を、そう簡単に信じることは出来なかった。
 そんな僕を置いてけぼりに、母さんはつらつらと言葉を続けていく。

「ただし条件があるわ。行き先は私たちに事前に事細かく詳細に伝えること。いつも以上に安全運転をすること。もしもの時があった時のために、同乗者の女の子には肌の露出が少なくて革製とかの頑丈な生地の服を着てもらうこと。帰ってきたらバイクの鍵は絶対に私に返すこと……って、ちゃんと話を聞いてるの?」

 母さんの声は耳には届いていた。
 だけど、まだ事態をよく飲み込めていない僕の頭の中の思考はごちゃついていて、つい反応を返すのを忘れてしまっていた。

「も、もちろん聞いてるよ」

 そうとりあえずの返事を返しながら、母さんが折れるに至った大きな要因がいったい何だったのかを僕は考える。
 やっぱり父さんの最後のあの説得が母さんの心を打ったのだろうか。
 これまで母さんの言うことに対してまともな反論や言い返しをしなかった父さんがああ言ったからこそ……まぁ、それを言うならば僕も同じか。もしかすると、僕と父さんの2人が珍しく引き下がらなかったから、だからこそ母さんは許してくれたのかもしれない。
 ……それともまさか、僕が一緒に行こうとしていた相手が男友達だと思っていたら女の子に変わったから……なんて、そんなわけないか。

「腑に落ちない。って顔をしているな」

 父さんは僕にだけ聞こえるぐらいの小声でそう言うと、体も少し僕に近付けた。

「そりゃあ……ね」

「オーケー貰ったんだから細かいことなんか一々気にしなくてもいいんだよ。とは言いつつも、やっぱり気になるもんは気になるか」

「その言い方だと父さんは答えを知っているみたいに聞こえるけど?」

「自信を持ってそうだとは言えないけどな。でも、これかなぁと言えるぐらいの思い当たる節はあるというかなんというか……聞くだけ聞いとくか?」

 なんともあやふやな言い方をする父さんに、僕は期待できそうにはないなぁと思いながらもこくんと首を縦に振る。
 今から父さんのする話は母さんに聞かれるとマズイ話なのか、父さんはより一層体を僕に近付けた。

「父さんと母さんの初めてのデートはな、母さんを父さんの後ろに乗せてのしまなみ海道ツーリングだったんだ」

「……え?」

 今まで1度も聞いたことが無い情報に僕は驚きを隠せなかった。
 あのバイク嫌いの母さんと、しかも初めてのデートがツーリングだったなんて、到底信じられるものではなかったからだ。

「職場の飲み会でバイクが嫌いだって話をしていた女性社員がいてな。それが母さんだったわけなんだが、本人にその理由を聞いてみれば、親戚がバイクの事故で亡くなって親からも厳しく言われてきたから嫌いだ、って話をしてくれてさ。でも、人の話と教習場の中で原付しか乗ったことがないだけの先入観で……いや、まぁ、実際にバイクは危険な乗り物なのには変わりはないんだけど、それでもバイクの楽しさを知らないなんて勿体無いって父さんが母さんをツーリングに誘ったんだ」

「へぇ……。よくそれで母さんもついて来てくれたね」

「すぐにいいよと返事をしてくれた訳ではなかったけどな。最初なんか嫌悪感を全面に出したような顔で『嫌です』って言われてキッパリと断られたよ。でも、それでもしつこく1年ぐらい誘い続けてやっと『じゃあ一回だけなら』ってオーケーを貰ったんだ」

「い、1年も? それはすごい執念だね……。僕だったら1回断られたら諦めるよ。相手にとっても凄く迷惑だろうし……」

「……実の父親に向けていい目じゃないぞ、それ」

「いやいやいや。そりゃあこういう目にもなるでしょ。バイクが嫌いってだけで1年間も付き纏われるんだよ? そんなの母さんに同情せざるを得ないし、父さんも父さんでどんだけバイク馬鹿なんだって話だよ」

「なっ……だ、だって、仕方ないだろ。好きな人には自分の好きなものを少しでもいいから好きになってもらいたいじゃないか」

 頭の後ろを掻きながらそう言った父さんの顔は笑っていた。
 少し気恥ずかしそうに、それでいてどこか懐かしむように。
 そんな父さんを見て、僕は驚きつつも、自然と頬が綻んでいた。
 自分の好きなものを好きな人にも好きになってもらいたい――その父さんの気持ちは好きな人がいない僕にも少しだけ分かる気がしたから。

「ちょっと。2人でいったい何をコソコソと話しているの?」

「なぁに。ただの昔話さ」

 父さんは先程と同じ笑顔を母さんに向けた。
 それだけで母さんは僕たちのコソコソ話の内容を察したのか、「あ、あなた、まさか!」と焦った様子で立ち上がる。

「初デートの時の母さんを夕に見せれるなら見せてやりたいよ。母さんって普段は反応が薄いだろ? だから、ちょっとの変化があれば凄く分かりやすいんだ。でも、あの時の母さんは誰から見ても分かるぐらいテンションが上がっていて、途中の大三島でなんかは――」

「あなた!」

「――んぐっ⁈」

 もう隠す必要がなくなったからか普段の声量でやや早口で喋り出した父さんの口を母さんは手で無理矢理押さえつけると、真っ赤に染め上げた顔のままキッと鋭い視線で父さんを睨みつけた。
 父さんは降参ですって感じで両手を上げながらも、その顔には怯えとか恐怖とかの感情はなく、顔半分を隠されていても分かるくらい楽しそうな表情をしてた。

「ゆ、夕も! この話の続きを聞いたら絶対に駄目よ! この人は話を盛って私のことを面白おかしく話すつもりだから! 全部が全部嘘だから!」

 母さんは父さんの口から手を離すと、今度は両手で僕の両肩をがっしりと掴み、まるで脅迫するみたいに僕へ言い聞かせる。
 いつもの無表情が瓦解し、こんなにも取り乱す母さんを見た記憶は今までに1度もなかった。
 初めてのツーリングデートでいったい母さんに何があったのだろうか?
 それがどうしても気になったが、今の状況でそれを聞くのは火に油を注ぐ行為と同意義なので、僕は赤べこみたいに無言で首をコクコクと縦に振ることしか出来なかった。
 
「おいおい、話を盛るとか嘘だのとか聞き捨てならないな。あれは盛らなくても素材そのままで充分すぎるくら――」

「あなたは黙ってて! というかその話は墓場まで持っていくって約束でしょ! いくら自分たちの子どもといえど、その話を夕にしたら私はあなたを一生恨みますから!」

「一生恨むって……それでも離婚とまではいかないんだな」

「こんな馬鹿げたことで離婚なんてするわけないじゃない。悪い冗談言わないで。……でも、あの話をしたら本当に今後一切あなたとは絶対に報告しないといけないこと以外は口を聞きませんからね」

「それは不便だし普通に困るなぁ……。分かりましたよ。あの話は約束通りちゃんと墓場まで持っていきます」
 
 ツンとした表情でそっぽを向く母さんに父さんは少しやり過ぎたかなぁという風に頭を掻きながら苦笑する。
 そんな2人の会話や様子を見ていて、僕はこれまで疑問に思っていた数々のことに対し、なんだか納得がいったような気がした。
 性格も趣味も合わなさそうな両親がどうして結婚したんだろうとか。バイク嫌いの母さんはなぜ父さんと僕がツーリングに行くのを辞めさせようとはしないのだろうとか。仲が悪くはないけど仲が良さそうにも見えない両親は幸せなのだろうかとか。どうして母さんは僕が明日カブを使うのを許してくれたのだろうとか。
 複雑だとばかり決めつけていたそれはあまりにも単純明快で、それに気付いた時、僕は――

「ふ、ふふっ……あはははははははっ!」

 声を上げて笑っていた。
 そんな僕を見て父さんと母さんはキョトンとした互いの顔を見合わせ、そして――母さんはクスクスと小さく、父さんはうわははっと豪快に声を上げて笑った。
 3人のバラバラな笑い声が狭くもなければ広くもないリビングにこだまする。
 ごく普通の家庭にとってそれは当たり前な日常の中の一コマなのかもしれないが、しかし、僕たちにとっては違った。
 前に家族みんなが顔を見合わせながら笑い合った日はいつだったか。それは僕が中学生……いや、もしかしたら小学生の頃が最後だったかもしれないと、そう朧げにぐらいしか思い出せないほどに僕たちがこうして顔を見合わせて笑い合うのは久しかった。
 実に数年ぶりの、紛れもない一家団欒の時間。それが妙にくすぐったく思えて、僕はまた一際大きく笑った。
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