139 / 140
エピローグ 成田への便は天候のせいで大幅に遅延し
エピローグ・後半
しおりを挟む
女王の人柄や業績については「今なお島民の記憶に新しい」の一言で片付けられていた。港務長官カシムや、その娘ファジャル、宮中武官アディなどの存在については、一言も触れられていなかった。
少し落胆しつつ、それでもこの薄い本を愛おしく感じながら最後のページを開いた僕は「あっ」と声を上げた。
あの子だ。王女だ。
白黒で写りも悪く、印刷も粗悪だったけど、そこにあるのは確かに、ムラティ王女その人の写真だった。
おそらく港務長官邸の一室と思われる室内で椅子に座った彼女は、半ば以上が白くなった髪をひっつめにして結い、金か銀かの花を挿していた。少女のころと変わらないほっそりした体を、レースのついた上着と、おそらく茶色の古典模様のジャワ更紗の巻衣に包み、西洋風のサンダルを履いている。
六十歳を過ぎているのだろう。顔や手に年相応のしわがあるのが見て取れはしたが、ピントが甘いせいもあってか、面差しは驚くほど変わっていない。口もとには笑みをたたえながら、あの強い意志を感じさせる視線を真っ直ぐにカメラに向けていた。
そしてその隣で、椅子の背もたれに片手をかけて立っている、白っぽいジャケットにネクタイと巻衣という姿の年配の男性は、髪が白く薄くなり、体型も変わっているが、見間違えようもない、わが友アディだった。
背中に差した短剣は柄の一部が見えているだけだったが、僕が王女からもらったあの短剣のように見えてしかたがなかった。
写真の下には「退位後のムラティ女王と、晩年に結婚した夫」とだけ書いてあった。
二人の間にある空気は、少年少女だった頃のままに見える。ここに至るまでになにがあったかは分からないけど、アディは最後まで王女を支えて役割を果たしたのだ。
茉莉が帰ってきたときにまた泣いているのは嫌だから、僕は本を茶封筒に戻してショルダーバッグにしまって膝の上に抱き、顔を上げて遠くに目を向けた。
カフェの外はムービングウォークのある広い通路で、欧米やアジアのブランドのきらきらしたショップが並び、見上げても見えないくらい高いガラスの天井の下を、多くの人が行き交っていた。
チャドルで顔を隠したアラブ女性、インド系らしい老夫婦、中国系のビジネスマンの一団、大荷物のマレー人の家族連れ。
その中に、僕は彼女を見つけた。
髪を下ろしてしまい、サマードレスの上にパーカを羽織り、寄り道して買ったらしいTWGの紅茶の紙袋を腕にかけて、肩をきゅっと上げた彼女は、ずらっと並んだショップをきょろきょろ見ながら、僕のほうに向かって歩いてくる。
王女でも女王でもない、ただトイレからもどってくるだけの、僕の妹。
それが僕にとっては何よりも貴く、何よりも得難いものだった。
さて、と僕は思った。
茉莉は手紙の謎について知りたがるに違いない。
でも話は長い。長すぎる。そしてあまりにも複雑で、信じがたい。
どこから話そうか。どこまで話そうか。
茉莉は僕の視線に気づき、少し早足になって近づいてくる。
その姿に向かって、茉莉花の名を持つ99の魂に向かって、僕は胸の中でつぶやいた。
ありがとう。茉莉に生まれてくれて。茉莉でいてくれて。
──────────────
(『南洋王国冒険綺譚・ジャスミンの島の物語』はこれで完結となります。お読みいただきましてまことにありがとうございました)
少し落胆しつつ、それでもこの薄い本を愛おしく感じながら最後のページを開いた僕は「あっ」と声を上げた。
あの子だ。王女だ。
白黒で写りも悪く、印刷も粗悪だったけど、そこにあるのは確かに、ムラティ王女その人の写真だった。
おそらく港務長官邸の一室と思われる室内で椅子に座った彼女は、半ば以上が白くなった髪をひっつめにして結い、金か銀かの花を挿していた。少女のころと変わらないほっそりした体を、レースのついた上着と、おそらく茶色の古典模様のジャワ更紗の巻衣に包み、西洋風のサンダルを履いている。
六十歳を過ぎているのだろう。顔や手に年相応のしわがあるのが見て取れはしたが、ピントが甘いせいもあってか、面差しは驚くほど変わっていない。口もとには笑みをたたえながら、あの強い意志を感じさせる視線を真っ直ぐにカメラに向けていた。
そしてその隣で、椅子の背もたれに片手をかけて立っている、白っぽいジャケットにネクタイと巻衣という姿の年配の男性は、髪が白く薄くなり、体型も変わっているが、見間違えようもない、わが友アディだった。
背中に差した短剣は柄の一部が見えているだけだったが、僕が王女からもらったあの短剣のように見えてしかたがなかった。
写真の下には「退位後のムラティ女王と、晩年に結婚した夫」とだけ書いてあった。
二人の間にある空気は、少年少女だった頃のままに見える。ここに至るまでになにがあったかは分からないけど、アディは最後まで王女を支えて役割を果たしたのだ。
茉莉が帰ってきたときにまた泣いているのは嫌だから、僕は本を茶封筒に戻してショルダーバッグにしまって膝の上に抱き、顔を上げて遠くに目を向けた。
カフェの外はムービングウォークのある広い通路で、欧米やアジアのブランドのきらきらしたショップが並び、見上げても見えないくらい高いガラスの天井の下を、多くの人が行き交っていた。
チャドルで顔を隠したアラブ女性、インド系らしい老夫婦、中国系のビジネスマンの一団、大荷物のマレー人の家族連れ。
その中に、僕は彼女を見つけた。
髪を下ろしてしまい、サマードレスの上にパーカを羽織り、寄り道して買ったらしいTWGの紅茶の紙袋を腕にかけて、肩をきゅっと上げた彼女は、ずらっと並んだショップをきょろきょろ見ながら、僕のほうに向かって歩いてくる。
王女でも女王でもない、ただトイレからもどってくるだけの、僕の妹。
それが僕にとっては何よりも貴く、何よりも得難いものだった。
さて、と僕は思った。
茉莉は手紙の謎について知りたがるに違いない。
でも話は長い。長すぎる。そしてあまりにも複雑で、信じがたい。
どこから話そうか。どこまで話そうか。
茉莉は僕の視線に気づき、少し早足になって近づいてくる。
その姿に向かって、茉莉花の名を持つ99の魂に向かって、僕は胸の中でつぶやいた。
ありがとう。茉莉に生まれてくれて。茉莉でいてくれて。
──────────────
(『南洋王国冒険綺譚・ジャスミンの島の物語』はこれで完結となります。お読みいただきましてまことにありがとうございました)
1
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説


ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ドマゾネスの掟 ~ドMな褐色少女は僕に責められたがっている~
桂
ファンタジー
探検家の主人公は伝説の部族ドマゾネスを探すために密林の奥へ進むが道に迷ってしまう。
そんな彼をドマゾネスの少女カリナが発見してドマゾネスの村に連れていく。
そして、目覚めた彼はドマゾネスたちから歓迎され、子種を求められるのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる