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1 ゴーシュ・ガイルは一匹狼
07 ゴーシュの人狼生
しおりを挟む幼い頃のゴーシュは、いつも飢えていた気がする。
さまよってたどり着いた街で、偶然入った食堂。
初めから無銭飲食だと分かった上で。
店主に対して、父親がとれる行動は二つに一つ。
食い逃げをする。
慈悲に縋る。
五体満足なら、店内で暴れることも選べただろう。
今後も同じことを繰り返す道しかなくても。
いつか逮捕されて、人狼だと発覚するとしても。
しかし、困惑した表情の弱々しい人の男へ、ゴーシュの父親は腰と膝を折った。
「幼い子供がいるんだ、少しで良いから食べられるものを分けて欲しい、それが無理なら、どこか雨風の凌げるところを教えて欲しい、お願いします」
人の世の、加熱調理された味の濃すぎる食事。
それすら食べられずに、痩せ衰えていく両親の姿。
潰れた腕を抱え、床に着かんばかりに頭を下げる父親の姿を、この頃のゴーシュは景色としてしか見れなくなっていた。
誇り高い狼のプライドを地に投げ捨て、獲物の人に頭をさげる父親。
ゴーシュを抱きしめて震える母親。
見たくない。
こんなのは、父親らしくない。
そう思うことで、幼いゴーシュは心を守っていた。
父親が日雇いの仕事しか選択できなかったのは、ゴーシュのせいだと理解していたから。
ゴーシュは自分の中に、怒りも悲しみも溜め込むことしかできなかった。
幼い人狼の子は、変身の制御ができない。
ふとした瞬間に、狼と人の姿を行き来する。
うまく走れない赤ん坊の頃は、飼い犬だとごまかせた。
しかし、走り出した幼児の人狼は厄介だ。
狼の行動力と人の知能で、大人顔負けの行動力を見せる。
本来の人狼は、群れの仲間総出で子供を囲って育てる。
同じことを、人の世に紛れながら、両親だけで行うことはできなかった。
目を離した隙にとびだした小さな犬を、探して追いかけて捕まえることが連日続けば、仕事などできるはずもない。
だからといって閉じ込めれば、本能が優勢な状態にある幼い人狼は、狂ってしまう。
下手に人に捕まれば、野良犬として処分されてしまうことを知った両親が、迷子対策に首輪をはめさせても、人の姿になった時に外してしまう。
幼く、好奇心の塊だったゴーシュは、朝起きて、または昼寝から目を覚まし、狼の姿で外に飛び出していくのが、日常茶飯事だった。
何かの拍子に、ゴーシュが狼に変身できると知られるたびに、家族は住む場所を変えるしかなかった。
この頃、ゴーシュは六歳。
人狼の子供は、外見上の成長は早い。
けれど人よりも寿命が長い人狼の情緒や知能は、人より育つのが遅い。
人狼の六歳は、人の二、三歳とほとんど変わらない。
幼い子を連れて、障害を抱え、ボロを着た外国人の夫婦に、食堂の主人は同情してくれた。
子供にだけでも食事をと望む両親の姿に、何かを感じてくれたのかもしれない。
食堂の主人は、貧困家庭へ援助活動をしている団体に、彼らを紹介してくれた。
人の良い主人と常連客の繋がりが、ゴーシュたち一家を救った。
紹介された団体では、他国籍の人々向けの活動をしていなかったので、そこからさらに紹介され、紹介されと続いて、支援団体の人々と知り合った。
その間にも、家族は何度も住む場所を変えた。
狼の姿での野宿も珍しくなかった。
ゴーシュの両親は、自分たちが人狼だということを、あくまで秘密にしていた。
こうして一家は、表向き、どこにも帰れない戦敗国の難民として、援助を受けることになった。
父親は片手でできる職を得るため、職業訓練を受けた。
母親は工場の清掃の仕事を得て。
そして、ゴーシュはなかば強制的に保育所へ入れられた。
両親は、この平穏がゴーシュの本性を知られるまで、と割り切っていた。
数日か数ヶ月か、あっという間に終わるだろうと。
たった六歳の人狼が、一日中、人のふりをできないことは理解していた。
理解していても、放浪生活は限界だった。
人の世に寄生するように、地に這いつくばっておこぼれを待つ生活は、両親の、捕食者である人狼としての矜持を徹底的に痛めつけた。
それでも援助を受けなければ、食事をすることもできない。
番を守りたい人狼の心、子を守りたい親としての心が勝った。
人狼は番と群れを守るものだ。
番と群れを守るのが人狼なのだ。
両親の苦境は自分がいるから、と気がつき始めていたゴーシュは、頑張った。
知恵熱を出して寝込み、全身に発疹を発症して、胃に穴が空いて血を吐くまで我慢して、ついに狼への変身を制御できるようになった。
普通の人狼の子は、十四、五歳で変身の制御を身につけるというのに。
幼さと本能を理性と精神力で押さえつけて、必死で人間の子供のふりをするゴーシュを、両親は誇りに思ってくれた。
ゴーシュの努力を無駄にするまいと、懸命に働いた。
本来の人狼の在り方とは違っても、群れを守るのが人狼だ。
そして、ゴーシュは群れを大事にする、立派な人狼だった。
全く人狼らしくない生活だった。
それでも親子三人で、密やかに暮らす日々は宝物だった。
ゴーシュが十五歳になる頃、母親が急激に弱って、ロウソクが消えるように静かに亡くなった。
父親もその後を追うように食が細くなり、ひと月もせずに眠るように死んだ。
早すぎる別れだった。
人狼は番を失うと、急激に弱って死んでしまうことがある。
群れに所属していれば違ったのかもしれないが、群れに戻る選択肢のない両親の死は、必然でもあった。
ゴーシュは、独り、残された。
たった一人で、人の世で生きていく目標も目的もないまま。
父親が亡くなったのは、自然の摂理と理解していても、虚しい日々だけが手元に残った。
流されるままに義務教育を終えて、支援をしてくれていた団体経由の就職支援パフォーマンスの一環で、大企業の末端に潜りこんだ。
後ろ盾も保護者もいない。
周囲の人間と馴れあえない。
無味乾燥な生活の中で、好意を向けてくれる人々へ感謝しながら、それでも孤独だった。
特に目をかけてくれていた上司が、本社の重役に抜擢されたのは、ゴーシュがスキルアップを続けながら働き続けて、二十歳になった頃。
この頃、思春期に入りかけていたゴーシュは、本能に振り回されていた。
高まる破壊衝動。
戦って血を啜りたい欲求。
血肉の通った獲物を望む本能
このままでは、いつか人を殺してしまう。
追い詰められたゴーシュは、本社へ異動直前の上司に自分が人狼であることを明かして、ボス(仮)になってもらった。
自分が認めたボスの命令に、人狼は従うのだ。
数ヶ月後、本社へと呼ばれて。
以来、ずっと上司の直下で働いてきた。
上司が功績を認められて、異例の早さで社長になっても。
社長の〝灰色の懐刀〟と恐れられていることは、ゴーシュ本人だけが知らない。
◆
目の前の扉をノックすると、緊張したような返事が中から聞こえた。
人影はないのに、周囲から向けられる視線が気になって、ゴーシュはため息をついた。
彼らは、本当に見つかっていないと思っているのだろうか?
気配も匂いも音も隠せていないのに。
振り返って、歯をむいて「GRRRWWW!」と言えば、満足するのか?
白い扉が開くと、中からは顔色が悪い上に、恐怖の匂いを漂わせる愛子(仮)が現れた。
「ガイルさん」
「愛子さん、久しぶりです、話を聞かせてもらえますか?」
「は、はい!」
部屋の中には、本棚にびっしりと並んだ、大小様々な本。
枠をはめられて、何枚も並べられている大きなポスター。
様々なメーカーのチューブやボトルや箱、大量の筆、何枚も積まれた白い皿。
油の入った瓶や何本ものスプレー缶。
蓋の色が違う数百本のペン、何本も転がるロール状の紙。
布の張られた色々なサイズの木枠。
イーゼルもいくつか。
見たことがあるものから、ないようなものまで、部屋の中には宝箱のように雑多なものが詰め込まれていた。
部屋の中は、この部屋の主である三枝教授と同じ、インクのような油のような匂いと、コーヒーの匂いがしていた。
不思議と、嫌な感じはしなかった。
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