桜の木に背を預けて

田古みゆう

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 しばらくそうやって木に触れていた彼女は、やがて桜の木に背を預けるようにしてもたれ掛かる。そして視線をこちらに向けた。

 僕と彼女の間には随分と距離がある。当然のことながら彼女がどんな顔をしているのかなんて、僕にはわからないはずだ。それなのに、なぜかその顔がはっきりと見えた気がした。

 僕は全身の血が沸騰しそうなくらい熱くなるのを感じた。同時に、心の奥底から何か熱いものが込み上げてくる。それは、言葉では言い表すことが出来ない感情だった。

――やっぱり君は泣いているんだね。

 僕は直感的に思った。そう思った途端、胸が締め付けられた。こんなにも胸が締め付けられるように痛むのは初めてのことだった。

――ああ、そうか。

 僕は唐突に理解した。どうして君の姿を見ると胸が苦しいのかということを。これはきっと恋なのだ。

 そしてそれと同時に、なぜ、あの夢を繰り返し見るのかについても分かったような気がした。僕は、君の笑顔を見たかったのだと。僕は夢でしか会ったことのない彼女にずっと前から恋をしていたのだ。

 唐突に自覚してしまったこの気持ちは、あまりにも衝撃的で、とても大きなものだった。僕の瞳からは知らぬうちに涙が溢れ出していた。

 今すぐ彼女のもとに駆け寄りたい衝動に駆られる。しかし、彼女との距離は遠く、僕にはどうすることも出来なかった。それでも、彼女に伝えたいと強く思う。

――君が好きだよ。

 声にならない声で桜の木の下の彼女に向けて呟いた。

 すると、突然強い風が吹いて、ピンクの花びらを攫って行く。視界が桜色に染まり何も見えなくなる。思わず目を瞑り再び瞼を開くと、そこに彼女の姿はなかった。

 桜の花びらは、僕に初恋を運んできて、そして、僕から再び彼女を攫っていった。僕はしばらくの間、彼女の消えたその場所をじっと眺めていた。まるで彼女の残像を追いかけるかのように。

 桜の花吹雪に連れ去られた僕の心を呼び戻したのは、担任がパンっと叩いた手の音だった。はっと我に返り、先生の方を見る。先生は呆れた様子だったが、直接注意されることはなかった。この後の始業式の注意事項を簡単に説明した後、先生はすぐに教室を出て行った。

 僕はもう一度窓の外へと視線を向ける。そこにはやはり彼女の姿はなく、ただ桜の木だけが佇んでいた。

 僕はそっと胸を押さえてみる。まだドキドキしている。だけど、不思議と嫌な感じではなかった。むしろ心地よい感覚だ。僕はふっと口元を緩めた。
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