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月明かり
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霞はベッドの上で膝を抱え、ただひたすら時間が過ぎ去るのを待っていた。耳を澄ませると、外から虫の涼やかな音色が聞こえてくる。
窓から差し込む青白い月明かりが、暗闇の室内を照らす。
夜空に鏤められた無数の星。その中心で、真っ白な月が静かに浮かんでいた。美しいと思える光景が、今の霞にとっては不安を煽るものでしかない。
(ああ、夜になっちゃった……)
子ネズミが助けを呼びに行ってから、どれほど経っただろうか。この部屋に時計はなく、スマホも取り上げられているため、正確な時間が分からない。
「雅……蓮様……」
二人の名前をぽつりと呼び、膝に顔を埋める。
もう二度と会えないかもしれない。そんな恐怖に苛まれ、ぎゅっと瞼を閉じる。そうしなければ、わけも分からず大声で喚き散らしてしまいそうだった。
部屋の明かりはつけずにいた。明るくても暗くても、どうでもよかった。
「……痛っ」
突然左の手の甲が激しく痛み出し、霞は驚いて顔を跳ね上げた。
手の甲に、黒い模様が浮かんでいるように見えた。だがそれは、すぐに跡形もなく消えてしまった。同時に謎の激痛も治まる。
今のはいったい。霞は翳した手を月に向かって、確かめるように見詰めていた。
部屋のドアをノックする音が響いた。
「政嗣様をお連れしました」
黒田の声だった。外側にかけられていた鍵が解錠され、ゆっくりとドアが開かれる。
「ああ。照明をつけずにいたのか。暗かっただろう?」
パチン。スイッチを入れる音の直後、照明の光が室内を照らした。突然周囲が明るくなり、霞はその眩しさに目を細める。
「政嗣……様」
霞はドアの方向を睨み付けながら、そこに立つ男の名を呼んだ。意に介さず、政嗣が悠然とした足取りで室内に踏み入る。黒田や他の男もそれに続く。
霞は慌ててベッドから下りて、壁際に後ずさりをした。強い警戒心を示す霞に、黒田が煩わしそうに肩を竦める。
「政嗣様はあなたと取引がしたいだけです。そのように怯えないでいただきたい」
「取引……?」
「ええ。あなたにとっても、悪い話ではないと思いますよ」
「そんなの……信じられません」
霞はふるふると首を横に振る。政嗣が薄ら笑いを浮かべて話を切り出す。
「取引と言っても、難しい話ではない。ただ我々と手を組まないかと提案しているだけだ」
「私と……あなたたちがですか?」
政嗣は霞へと歩み寄りながら、言葉を継いだ。
「私たちでこの国を統べる。君がいれば、それは決して不可能ではないのだ」
「……仰っている意味が分かりません。それにあなたたちに協力する理由なんて……」
「君は本来なら、東條家とは何の関わりもない娘だ。表向きでは親戚の子供を養女として迎えたことになっているが、実際はそんな親戚など存在しない。……そして君は、純血の人間だ」
政嗣はそう締めくくり、霞の腕を掴んだ。
「分かるかね? 君が東條家の一員として、鬼灯家に嫁ぐ必要などないのだ。あの若造は、君には相応しくない」
その一言に、霞はむっと眉を顰めた。
「蓮様を悪く言わないでください」
「それはすまない。だが本家の者に対しては、以前から悪感情を持っていてね。つい言葉になって出てしまう」
「でも、あなたと蔵之介様はあんなに仲良さそうに……」
「君には仲良く見えていたか。……冗談じゃない」
言いかける霞を遮り、政嗣は苦笑気味に否定した。
「蔵之介は優秀な男だ。鬼族を統べるに相応しい器の持ち主であると、私も認めている。……だが、息子に甘すぎるきらいがある」
「…………」
政嗣が霞の腕を掴む手に力を込める。
「鬼灯家の家督相続は、代々世襲制が取られている。そこには何の文句もない。だが、社長の座を蓮に譲ると言い出した時は、流石に腹立たしかったよ。そう思ったのは、私だけではなかった。長年事業の経営に尽力し続けてきた我々をないがしろにして……こんな馬鹿げた話があるか?」
「う……っ」
霞は締め付けられるような痛みに、小さく呻いた。それに構わず、政嗣は独善的な主張を述べる。
「挙げ句の果てに、神城家の娘を息子の許嫁に迎えるだと? 贔屓にも程がある。だったら何か一つくらい横取りしても、罰は当たらないのではないか?」
「カミ、シロ……?」
黒田もその名を口にしていた。たどたどしく呟く霞に、政嗣は意外そうに目を見開いた。
「何だ。君は自分のことを何も知らないのか」
「どういう……ことですか?」
霞は声を震わせながら問いかける。
この男の言葉に耳を傾けてはいけない。頭では理解していても、聞かずにはいられなかった。
自分は何者で、両親は誰なのか。ずっと、ずっと知りたいと思っていたのだ。
純血であることを周囲に悟られないように。幼い頃から、両親や祖父にそう言いつけられてきた。
霞は何の疑いも持たず、それを守り続けていた。
もし自分が猫又族ではないと知られてしまえば、東條家の人々に迷惑がかかると思ったから。大好きな家族と一緒にいられなくなってしまう気がしたから。
(そうなったら、私は今度こそ独りぼっちになってしまう)
いつも漠然とした不安を抱えていた。
自分は本当の両親に捨てられ、東條家に拾われたのだと。そう思い込んでいた。
祖父はそのことを感じ取っていたのだろう。霞を安心させるように、優しく頭を撫でながら言った。
──いいかい、霞。お前のご両親は、お前を本当に愛していた。お前を捨てたわけじゃないんだよ。
霞は祖父の言葉を信じた。信じたいと、思った。
いつか、お前にすべて話そう。祖父はそう言ってくれたが、その「いつか」は訪れなかった。病に倒れ、秘密を抱え込んだまま、彼は息を引き取った。
話さないほうが、霞のためだと判断したのかもしれない。祖父の最後の優しさだと霞は思った。
だからそれ以来、自分の素性について考えることをやめた。
祖父もそう望んでいると思ったから。
だけど……
「お願いです、教えてください! 私は……私は何者なのですか……っ!?」
知りたかったものが、すぐ目の前にある。霞は激情に駆られ、政嗣に詰め寄った。
「……いいだろう。早かれ遅かれ、すべてを知ることになるのだ。君は──」
政嗣が何かを言いかけようとする。その時、政嗣の部下がトランシーバー片手に、部屋に駆け込んできた。
「ま、政嗣様! 何者かが山中に侵入し、こちらに向かってきていると見張り役から連絡が入りました!」
「よもや蔵之介か……どうやってここを嗅ぎつけた?」
忌々しそうに呟きながら、政嗣は黒田を睨んだ。あらぬ疑いをかけられ、黒田は慌てて否定する。
「この場所は、誰にも知らせていません。彼女を連れ去る時も、尾行されている気配はありませんでした」
霞を横目で見ながら弁明する。しかしそれは、予想外の事態に気が立っていた政嗣を苛立たせた。霞の腕を離し、黒田を厳しく問いただす。
「だったら何故バレた? 発信機が仕込まれていたのではないか?」
「車内にいる時に探知機で調べてみましたが、何の反応も……」
黒田の言葉を遮るように、トランシーバーから男の叫び声が飛び出した。
『侵入者を確認しました! ですが、あれは……』
「本家の連中か?」
部下からトランシーバーを奪い取った黒田が問う。
『い、いえ。恐らく違います。ネズミの大群を引き連れた……ぐぁっ!?』
バキッ。打撃音とともに悲鳴が上がった。その後も、揉み合うような激しい物音が暫し続く。
そして最後に何かが倒れるような音の後、何も聞こえなくなった。
「どうした? おい、返事をしろ!」
黒田が焦りを見せながら、催促する。直後、トランシーバーから声が返ってきた。
『その声……黒田だな?』
途端、霞は大きく目を見開いた。
「雅!」
鬼灯邸に辿り着いた子ネズミが、雅たちに知らせてくれたのだろう。
「お、お前……まさか東條雅か!?」
黒田の顔に驚愕の色が浮かぶ。男を嘲笑うように、通信機の向こうで雅がくつくつと笑う。
『大袈裟じゃのぅ。そんなに驚かなくてもいいではないか』
「バカな……何故お前がここにいる?」
政嗣が信じられないといった表情で呟く。それを聞き取った雅は、低い声で言った。
『そんなの、姉上を助けに来たからに決まっておるじゃろうが』
「…………」
機械越しからでも伝わってくる気迫に、政嗣たちの顔が強張る。
『そういうことじゃ。今からそちらに行くからのぅ……全員首を洗って待っていろ』
その言葉を最後に、プツッと通信が切れる。
「ま、政嗣様いかがいたしますか?」
男の一人が情けない声で、政嗣に指示を仰ぐ。政嗣は愚問とばかりに、渋い顔をする。その視線は霞へ向けられていた。
「東城雅を捕らえて、ここへ連れて来い。妹が人質に取られたら、少しは聞き分けもよくなるだろう?」
政嗣はこの状況をも利用しようとしている。妹の危機を察し、霞は窓の外を見やった。
「雅……みんな……っ!」
今の霞には、彼らの無事を祈ることしか出来なかった。
窓から差し込む青白い月明かりが、暗闇の室内を照らす。
夜空に鏤められた無数の星。その中心で、真っ白な月が静かに浮かんでいた。美しいと思える光景が、今の霞にとっては不安を煽るものでしかない。
(ああ、夜になっちゃった……)
子ネズミが助けを呼びに行ってから、どれほど経っただろうか。この部屋に時計はなく、スマホも取り上げられているため、正確な時間が分からない。
「雅……蓮様……」
二人の名前をぽつりと呼び、膝に顔を埋める。
もう二度と会えないかもしれない。そんな恐怖に苛まれ、ぎゅっと瞼を閉じる。そうしなければ、わけも分からず大声で喚き散らしてしまいそうだった。
部屋の明かりはつけずにいた。明るくても暗くても、どうでもよかった。
「……痛っ」
突然左の手の甲が激しく痛み出し、霞は驚いて顔を跳ね上げた。
手の甲に、黒い模様が浮かんでいるように見えた。だがそれは、すぐに跡形もなく消えてしまった。同時に謎の激痛も治まる。
今のはいったい。霞は翳した手を月に向かって、確かめるように見詰めていた。
部屋のドアをノックする音が響いた。
「政嗣様をお連れしました」
黒田の声だった。外側にかけられていた鍵が解錠され、ゆっくりとドアが開かれる。
「ああ。照明をつけずにいたのか。暗かっただろう?」
パチン。スイッチを入れる音の直後、照明の光が室内を照らした。突然周囲が明るくなり、霞はその眩しさに目を細める。
「政嗣……様」
霞はドアの方向を睨み付けながら、そこに立つ男の名を呼んだ。意に介さず、政嗣が悠然とした足取りで室内に踏み入る。黒田や他の男もそれに続く。
霞は慌ててベッドから下りて、壁際に後ずさりをした。強い警戒心を示す霞に、黒田が煩わしそうに肩を竦める。
「政嗣様はあなたと取引がしたいだけです。そのように怯えないでいただきたい」
「取引……?」
「ええ。あなたにとっても、悪い話ではないと思いますよ」
「そんなの……信じられません」
霞はふるふると首を横に振る。政嗣が薄ら笑いを浮かべて話を切り出す。
「取引と言っても、難しい話ではない。ただ我々と手を組まないかと提案しているだけだ」
「私と……あなたたちがですか?」
政嗣は霞へと歩み寄りながら、言葉を継いだ。
「私たちでこの国を統べる。君がいれば、それは決して不可能ではないのだ」
「……仰っている意味が分かりません。それにあなたたちに協力する理由なんて……」
「君は本来なら、東條家とは何の関わりもない娘だ。表向きでは親戚の子供を養女として迎えたことになっているが、実際はそんな親戚など存在しない。……そして君は、純血の人間だ」
政嗣はそう締めくくり、霞の腕を掴んだ。
「分かるかね? 君が東條家の一員として、鬼灯家に嫁ぐ必要などないのだ。あの若造は、君には相応しくない」
その一言に、霞はむっと眉を顰めた。
「蓮様を悪く言わないでください」
「それはすまない。だが本家の者に対しては、以前から悪感情を持っていてね。つい言葉になって出てしまう」
「でも、あなたと蔵之介様はあんなに仲良さそうに……」
「君には仲良く見えていたか。……冗談じゃない」
言いかける霞を遮り、政嗣は苦笑気味に否定した。
「蔵之介は優秀な男だ。鬼族を統べるに相応しい器の持ち主であると、私も認めている。……だが、息子に甘すぎるきらいがある」
「…………」
政嗣が霞の腕を掴む手に力を込める。
「鬼灯家の家督相続は、代々世襲制が取られている。そこには何の文句もない。だが、社長の座を蓮に譲ると言い出した時は、流石に腹立たしかったよ。そう思ったのは、私だけではなかった。長年事業の経営に尽力し続けてきた我々をないがしろにして……こんな馬鹿げた話があるか?」
「う……っ」
霞は締め付けられるような痛みに、小さく呻いた。それに構わず、政嗣は独善的な主張を述べる。
「挙げ句の果てに、神城家の娘を息子の許嫁に迎えるだと? 贔屓にも程がある。だったら何か一つくらい横取りしても、罰は当たらないのではないか?」
「カミ、シロ……?」
黒田もその名を口にしていた。たどたどしく呟く霞に、政嗣は意外そうに目を見開いた。
「何だ。君は自分のことを何も知らないのか」
「どういう……ことですか?」
霞は声を震わせながら問いかける。
この男の言葉に耳を傾けてはいけない。頭では理解していても、聞かずにはいられなかった。
自分は何者で、両親は誰なのか。ずっと、ずっと知りたいと思っていたのだ。
純血であることを周囲に悟られないように。幼い頃から、両親や祖父にそう言いつけられてきた。
霞は何の疑いも持たず、それを守り続けていた。
もし自分が猫又族ではないと知られてしまえば、東條家の人々に迷惑がかかると思ったから。大好きな家族と一緒にいられなくなってしまう気がしたから。
(そうなったら、私は今度こそ独りぼっちになってしまう)
いつも漠然とした不安を抱えていた。
自分は本当の両親に捨てられ、東條家に拾われたのだと。そう思い込んでいた。
祖父はそのことを感じ取っていたのだろう。霞を安心させるように、優しく頭を撫でながら言った。
──いいかい、霞。お前のご両親は、お前を本当に愛していた。お前を捨てたわけじゃないんだよ。
霞は祖父の言葉を信じた。信じたいと、思った。
いつか、お前にすべて話そう。祖父はそう言ってくれたが、その「いつか」は訪れなかった。病に倒れ、秘密を抱え込んだまま、彼は息を引き取った。
話さないほうが、霞のためだと判断したのかもしれない。祖父の最後の優しさだと霞は思った。
だからそれ以来、自分の素性について考えることをやめた。
祖父もそう望んでいると思ったから。
だけど……
「お願いです、教えてください! 私は……私は何者なのですか……っ!?」
知りたかったものが、すぐ目の前にある。霞は激情に駆られ、政嗣に詰め寄った。
「……いいだろう。早かれ遅かれ、すべてを知ることになるのだ。君は──」
政嗣が何かを言いかけようとする。その時、政嗣の部下がトランシーバー片手に、部屋に駆け込んできた。
「ま、政嗣様! 何者かが山中に侵入し、こちらに向かってきていると見張り役から連絡が入りました!」
「よもや蔵之介か……どうやってここを嗅ぎつけた?」
忌々しそうに呟きながら、政嗣は黒田を睨んだ。あらぬ疑いをかけられ、黒田は慌てて否定する。
「この場所は、誰にも知らせていません。彼女を連れ去る時も、尾行されている気配はありませんでした」
霞を横目で見ながら弁明する。しかしそれは、予想外の事態に気が立っていた政嗣を苛立たせた。霞の腕を離し、黒田を厳しく問いただす。
「だったら何故バレた? 発信機が仕込まれていたのではないか?」
「車内にいる時に探知機で調べてみましたが、何の反応も……」
黒田の言葉を遮るように、トランシーバーから男の叫び声が飛び出した。
『侵入者を確認しました! ですが、あれは……』
「本家の連中か?」
部下からトランシーバーを奪い取った黒田が問う。
『い、いえ。恐らく違います。ネズミの大群を引き連れた……ぐぁっ!?』
バキッ。打撃音とともに悲鳴が上がった。その後も、揉み合うような激しい物音が暫し続く。
そして最後に何かが倒れるような音の後、何も聞こえなくなった。
「どうした? おい、返事をしろ!」
黒田が焦りを見せながら、催促する。直後、トランシーバーから声が返ってきた。
『その声……黒田だな?』
途端、霞は大きく目を見開いた。
「雅!」
鬼灯邸に辿り着いた子ネズミが、雅たちに知らせてくれたのだろう。
「お、お前……まさか東條雅か!?」
黒田の顔に驚愕の色が浮かぶ。男を嘲笑うように、通信機の向こうで雅がくつくつと笑う。
『大袈裟じゃのぅ。そんなに驚かなくてもいいではないか』
「バカな……何故お前がここにいる?」
政嗣が信じられないといった表情で呟く。それを聞き取った雅は、低い声で言った。
『そんなの、姉上を助けに来たからに決まっておるじゃろうが』
「…………」
機械越しからでも伝わってくる気迫に、政嗣たちの顔が強張る。
『そういうことじゃ。今からそちらに行くからのぅ……全員首を洗って待っていろ』
その言葉を最後に、プツッと通信が切れる。
「ま、政嗣様いかがいたしますか?」
男の一人が情けない声で、政嗣に指示を仰ぐ。政嗣は愚問とばかりに、渋い顔をする。その視線は霞へ向けられていた。
「東城雅を捕らえて、ここへ連れて来い。妹が人質に取られたら、少しは聞き分けもよくなるだろう?」
政嗣はこの状況をも利用しようとしている。妹の危機を察し、霞は窓の外を見やった。
「雅……みんな……っ!」
今の霞には、彼らの無事を祈ることしか出来なかった。
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