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ミートローフ
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しかし、それから数日後の夕暮れ時。
「お助けください、奥様! 霞お嬢様が……」
料理人たちが八千流に助けを求めて部屋のドアを叩く。あと数ページで読み終えようとしていた本を閉じて、八千流は椅子から立ち上がった。
「……今日はどうなさったの?」
何となく想像がつくが、一応聞いてみる。
「霞お嬢様が、勝手に夕飯の支度を始めてしまいまして……」
ドアを開けて尋ねれば、使用人の一人が途方に暮れた様子で答えた。学校から帰宅して来るなり、エプロンを身に着けて厨房に現れたのだという。
八千流が現場に急行すると、厨房は食欲をそそるような肉の匂いで満たされていた。そして、霞がオーブンから何かを取り出すところだった。あれは……ケーキを焼く時に使う型だろうか。
「霞さん! あなた一体何をして……」
「あ、八千流様! ちょうどミートローフが焼き上がったところなんです。よろしければ、一口味見をしていただけませんか?」
「ミ、ミートローフ?」
聞き慣れない料理名に、八千流はきょとんと目を丸くした。
「豚の挽き肉に野菜やゆで卵を入れて、オーブンで焼いた料理なんです。……よいしょっと」
霞がパウンド型を皿の上で引っくり返すと、長方形に固められた肉の塊が綺麗に外れた。それを均等に切り分けていく。そしてその一枚を小皿に取り分け、茶色いソースをかけて「どうぞ」と八千流に渡した。
「……いただきます」
箸で一口大に分けて口に運び、八千流は目を閉じてよく味わって食べる。
肉の旨みだけではなく、スパイスの風味が口の中で溢れ出し、深みのあるデミグラスソースと絡み合う。全体的に濃厚な味付けだが、ゆで卵の素朴な味のおかげでまろやかに仕上がっている。
「初めて食べる味ですが、まあまあですね」
「ありがとうございます!」
「……ですが、食事の支度は使用人たちの仕事です。許嫁だからといって、あなたが作る必要はないのですよ」
「それは分かっているんですけど。その、食事を作る時間になると体がうずうずしちゃって、じっとしていられないんです」
霞が目を泳がせながら答えた。他にも何か理由があると直感したが、八千流は特に詮索しないことにした。どうせ妹に手料理をねだられたに違いない。
「……まあ、いいでしょう。勉学に差し障りがない程度であれば、厨房に入ることを許します。あなたたちも、それでいいですね?」
料理人たちは「はい」と笑顔で頷いた。霞が手伝うようになってからというもの、いつも忙しなかった朝食の支度にも余裕が出来たらしく、彼らの評判を得ていたのである。
誰も霞の真意には気付かぬまま。
猫は猫らしく、自由気ままに。
雅のアドバイス通り、霞は黒田の言いつけを無視することに決めた。許嫁と仲良くなりたいと思って、何が悪いのか。この想いは、誰にも邪魔させるものですか。
というわけで、まずは蓮に心を開いてもらうところからのスタートだ。長い長い道のりになるだろうが、走り出さなければゴールには永遠に辿り着けない。
けれど恋愛経験など皆無に等しい霞にとって、このマラソンは非常に不利だ。どうすれば異性を振り向かせられるのか、ネットの海で検索してみても目ぼしい情報は得られなかった。
しかし、走るためのランニングシューズがないわけではない。霞には自他共に認める武器がある。それは料理だ。
「霞は将来、いい嫁さんになるなぁ」と祖父が口癖のように言っていたのを思い出し、霞はこれだ! と閃いた。まずは胃袋を掴むのだ。
「おおっ、今日の夕飯はミートローフか。この匂いは……ふむ、姉上の作ったものじゃな」
テーブルに並ぶ料理を前にして、雅がにんまりと微笑む。霞が食事の支度を手伝いようになったのは、妹のためでもあった。雅は豪快な性格をしているが、意外と繊細な一面があるのだ。
修学旅行などで出先の料理を舌鼓に打ちながらも、次第に我が家の味が恋しくなり元気がなくなっていく。初日ははしゃぎ回って教師たちの手を焼かせていた暴れん坊が、最終日には水やりを暫く忘れられた植物のように萎びてしまう。
「ん~! これじゃ、これじゃ。この味をずっと食べたいと思っていたのじゃ!」
雅はミートローフを頬張ると、幸せそうに頬を緩めた。
「雅さん、食事の時はお静かになさい。何度言ったら分かるのですか」
「偉そうな口を叩くな、鬼ババめ。自分の分だけ少し大きめに切るようにと、姉上に指示しておったくせに」
「鬼灯家の食卓に相応しい料理であるか、見極めるためです。特に他意はありません!」
いつものように始まった雅と八千流の口喧嘩だが、霞はそれに構うことなく隣の青年に意識を向けていた。
箸でミートローフを切り分け、ソースを絡ませて口へ運ぶ。鷹の爪が添えられた胡瓜の浅漬けを口に運ぶ。ふっくらと炊き上がった白米を口に運ぶ。時折、茄子と豆腐の味噌汁を啜る。
その間、彼の表情が変わることは一切なかった。何だか人間の振りをしようとしているロボットのようだ。
(美味しいですか? って聞いてみようかな。でも口に合わないって、はっきり言われたらどうしよう……!)
溜め息を零して、味噌汁を啜る。蓮がほんの少し顔の向きを変え、その様子を見ていたことに霞は気付かなかった。
「お助けください、奥様! 霞お嬢様が……」
料理人たちが八千流に助けを求めて部屋のドアを叩く。あと数ページで読み終えようとしていた本を閉じて、八千流は椅子から立ち上がった。
「……今日はどうなさったの?」
何となく想像がつくが、一応聞いてみる。
「霞お嬢様が、勝手に夕飯の支度を始めてしまいまして……」
ドアを開けて尋ねれば、使用人の一人が途方に暮れた様子で答えた。学校から帰宅して来るなり、エプロンを身に着けて厨房に現れたのだという。
八千流が現場に急行すると、厨房は食欲をそそるような肉の匂いで満たされていた。そして、霞がオーブンから何かを取り出すところだった。あれは……ケーキを焼く時に使う型だろうか。
「霞さん! あなた一体何をして……」
「あ、八千流様! ちょうどミートローフが焼き上がったところなんです。よろしければ、一口味見をしていただけませんか?」
「ミ、ミートローフ?」
聞き慣れない料理名に、八千流はきょとんと目を丸くした。
「豚の挽き肉に野菜やゆで卵を入れて、オーブンで焼いた料理なんです。……よいしょっと」
霞がパウンド型を皿の上で引っくり返すと、長方形に固められた肉の塊が綺麗に外れた。それを均等に切り分けていく。そしてその一枚を小皿に取り分け、茶色いソースをかけて「どうぞ」と八千流に渡した。
「……いただきます」
箸で一口大に分けて口に運び、八千流は目を閉じてよく味わって食べる。
肉の旨みだけではなく、スパイスの風味が口の中で溢れ出し、深みのあるデミグラスソースと絡み合う。全体的に濃厚な味付けだが、ゆで卵の素朴な味のおかげでまろやかに仕上がっている。
「初めて食べる味ですが、まあまあですね」
「ありがとうございます!」
「……ですが、食事の支度は使用人たちの仕事です。許嫁だからといって、あなたが作る必要はないのですよ」
「それは分かっているんですけど。その、食事を作る時間になると体がうずうずしちゃって、じっとしていられないんです」
霞が目を泳がせながら答えた。他にも何か理由があると直感したが、八千流は特に詮索しないことにした。どうせ妹に手料理をねだられたに違いない。
「……まあ、いいでしょう。勉学に差し障りがない程度であれば、厨房に入ることを許します。あなたたちも、それでいいですね?」
料理人たちは「はい」と笑顔で頷いた。霞が手伝うようになってからというもの、いつも忙しなかった朝食の支度にも余裕が出来たらしく、彼らの評判を得ていたのである。
誰も霞の真意には気付かぬまま。
猫は猫らしく、自由気ままに。
雅のアドバイス通り、霞は黒田の言いつけを無視することに決めた。許嫁と仲良くなりたいと思って、何が悪いのか。この想いは、誰にも邪魔させるものですか。
というわけで、まずは蓮に心を開いてもらうところからのスタートだ。長い長い道のりになるだろうが、走り出さなければゴールには永遠に辿り着けない。
けれど恋愛経験など皆無に等しい霞にとって、このマラソンは非常に不利だ。どうすれば異性を振り向かせられるのか、ネットの海で検索してみても目ぼしい情報は得られなかった。
しかし、走るためのランニングシューズがないわけではない。霞には自他共に認める武器がある。それは料理だ。
「霞は将来、いい嫁さんになるなぁ」と祖父が口癖のように言っていたのを思い出し、霞はこれだ! と閃いた。まずは胃袋を掴むのだ。
「おおっ、今日の夕飯はミートローフか。この匂いは……ふむ、姉上の作ったものじゃな」
テーブルに並ぶ料理を前にして、雅がにんまりと微笑む。霞が食事の支度を手伝いようになったのは、妹のためでもあった。雅は豪快な性格をしているが、意外と繊細な一面があるのだ。
修学旅行などで出先の料理を舌鼓に打ちながらも、次第に我が家の味が恋しくなり元気がなくなっていく。初日ははしゃぎ回って教師たちの手を焼かせていた暴れん坊が、最終日には水やりを暫く忘れられた植物のように萎びてしまう。
「ん~! これじゃ、これじゃ。この味をずっと食べたいと思っていたのじゃ!」
雅はミートローフを頬張ると、幸せそうに頬を緩めた。
「雅さん、食事の時はお静かになさい。何度言ったら分かるのですか」
「偉そうな口を叩くな、鬼ババめ。自分の分だけ少し大きめに切るようにと、姉上に指示しておったくせに」
「鬼灯家の食卓に相応しい料理であるか、見極めるためです。特に他意はありません!」
いつものように始まった雅と八千流の口喧嘩だが、霞はそれに構うことなく隣の青年に意識を向けていた。
箸でミートローフを切り分け、ソースを絡ませて口へ運ぶ。鷹の爪が添えられた胡瓜の浅漬けを口に運ぶ。ふっくらと炊き上がった白米を口に運ぶ。時折、茄子と豆腐の味噌汁を啜る。
その間、彼の表情が変わることは一切なかった。何だか人間の振りをしようとしているロボットのようだ。
(美味しいですか? って聞いてみようかな。でも口に合わないって、はっきり言われたらどうしよう……!)
溜め息を零して、味噌汁を啜る。蓮がほんの少し顔の向きを変え、その様子を見ていたことに霞は気付かなかった。
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