化け猫姉妹の身代わり婚

硝子町玻璃

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お手伝い

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 その日の霞は、一日中浮かれていた。しかし鬼灯家に帰って来ると、わたあめのようにふわふわした気分はどこかへ吹き飛んだ。
 洗面台で手を洗った後、自分の部屋に戻ろうとしていた時だ。向かい側から女性の使用人が三人歩いて来ていた。会釈をしようとする霞だったが、彼女たちはその場に留まり小声で立ち話を始めたのである。

「あ、あの……」

 進路を塞がされてしまい、霞は立ち往生してしまう。
「そこの女ども、道を開けよ。どかぬなら、その足をねじ切って強引に押し退けるぞ」

 霞の後ろからやって来た雅が、空のペットボトルを手のひらに載せながら言う。雅の目が青白く光った直後、ペッ
トボトルはゆっくりと捻れていき、やがて真ん中の辺りでブチッと千切れた。
 猫又族の念動力によるものだ。

「た、大変失礼しました。霞お嬢様に気付かず、つい」

 使用人たちはそう弁明しながら、そそくさと霞たちの横を通り過ぎていった。

「ふんっ、あれが次期当主の許嫁への態度か?」
「え? え?」
「姉上は鈍いのぅ。ありゃ私たちへの嫌がらせじゃ」

 そうだったんだ。目を丸くする霞に、雅ははぁーと溜め息をつく。

「猫又族は、昔から何かと鬼族に見下されておるんじゃ。まったく……本来なら私があのような扱いを受けていたかと想うと、虫唾が走る。あやつらめ、後で木に逆さ吊りにでもしてやろうか」
「まあまあ。どいてくれたからいいじゃない。ね?」

 これでこの話はおしまい、と締め括ろうとする霞だが、怒りが収まらないのか、雅は鼻息を荒くしている。そしてその矛先を姉に向けた。

「姉上も姉上じゃ。そうやって甘い顔をしていると、鬼どもをますますつけ上がらせることになるぞ」
「そんなこと言われても……」
「ここでは舐められたら終わりぞ。堂々と、毅然とした態度を忘れるな。よいな?」
「う、うん……」

 親しい相手以外には強く出られない霞には、難しい課題だ。

「まあ、そう深く考えるなくともよい。猫は猫らしく、自由気ままにやっていればよいということじゃ!」



 東條姉妹が鬼灯家を訪れて早一週間。
 鬼灯八千流は起床後、手際よく身なりを整えると、読みかけの本を手に取った。早朝の澄んだ空気を肌で感じ、小鳥たちのさえずりを聞きながら読書に耽る。それが八千流のモーニングルーティンだった。
 しかしその優雅な一時は、慌ただしくドアを叩く音によって終わりを告げた。
 八千流がドアを開けると、そこには厨房の料理人たちが立っていた。一様に困り切った顔をしている。

「朝から騒々しいですよ。一体どうなさったの?」
「た、助けてください、奥様。東條家のお嬢様が……」

 東條家の名前が出た途端、八千流は「またか……」と遠い目をした。
 取り立てて褒めるところのないような娘が、息子の許嫁になるなんて。それだけでも不満だというのに、一緒についてきた妹はとんでもないじゃじゃ馬だった。口も態度も悪く、いくら素行を咎めてもどこ吹く風。それどころか、「鬼ババ!」と歯向かってくる。この屋敷で、八千流にあのような口の利き方をするのは雅くらいだ。
 あの娘、今度は何をやらかしたのやら。

「……雅さんがどうしました? 朝食のおかずでもつまみ食いしましたか?」
「あ、いえ。それが雅お嬢様ではなくて……」

 料理人たちを引き連れて、厨房へと向かう。するとそこには、目に優しい緑色のエプロンを身に着けた少女の後ろ姿があった。

「……霞さん。あなた、何をなさっているの?」
「あ、おはようございます、八千流様!」

 霞は振り向くと、八千流に向かって恭しく頭を下げた。その後ろで鍋がコンロの火にかけられている。

「おはようございます。……ではなくて、ここで何をなさっているの?」
「はい。朝食の準備のお手伝いをしておりました」

 もう一度同じ質問を繰り返せば、霞はにこやかに答えた。
 料理人たちの話によると、霞が突然厨房に現れて、勝手に味噌汁を作り始めたそうだ。部屋に戻るようにとやんわり促しても、「お味噌汁はお任せください!」の一点張りで、聞く耳を持とうともしない。困り待てた料理人たちは、八千流に助けを求めたのだった。

「ちょうどお味噌汁が出来上がったところなんです。あの、よろしければ……お口に合うか、味見をしていただけませんか?」
「別に構いませんが……」

 八千流は小皿を受け取り、静かに味噌汁を啜った。
 ……これは。
 鰹節と昆布を煮出して取った出汁の旨みと、濃厚でコクのある味噌の味わい。
 同じ材料を使っているはずなのに、毎朝飲んでいる味噌汁とは明らかに違う。甘みがあり、柔らかな味に仕上がっている。

「ま、まあ、悪くはありませんね」

 八千流は小皿を返しながら、そう答えた。

「よかった……いつものくせでお砂糖を入れちゃったんですけど、気に入っていただけてよかったです」
「砂糖を?」
「うちのお味噌汁の隠し味なんですよ。雅も大好きで、いつもおかわりしてくれるんです」

 嬉しそうに語る霞に、八千流はある疑問が浮かんだ。

「あなた、ご実家ではいつも食事の支度をしていたの?」
「はい。小学生の頃から、皆さんのお手伝いをしていました。お味噌汁以外も作れます!」
「あら。でしたら、他の料理も任せてみましょうか」

 八千流の言葉に、使用人たちはぎょっと目を丸くした。

「し、しかし奥様、よろしいのですか?」
「足手まといになるようなら追い出して、使えるのであれば存分にこき使っておやりなさい」

 霞をちらりと見て、冷ややかな口調で命じる。そして厨房を出ようとする八千流を、後ろから「や、八千流様!」と霞が慌てて呼び止めた。

「何ですか、霞さん」
「あの……これからも、朝ごはんのお手伝いをさせていただいてもよろしいでしょうか?」

 霞が恐る恐る尋ねると、料理人たちは「どうしましょう」と八千流に視線を向けた。
 料理人の数は十分足りている。こんな娘に手伝わせる必要などない。……ないのだが、先ほど味見した味噌汁の味に、八千流の心は大いに揺れていた。
 それにダメだと言ったところで、また勝手に厨房に入って来るだろう。ひょっとしたら、妹以上に人の話を聞かないタイプかもしれない。

「……ひとます、明日の具は茄子と豆腐にしなさい。それが条件です。ただし、学校に遅れそうな時は無理に手伝おうとしないこと。分かりましたね?」
「はい。ありがとうございます、八千流様!」
「ただし、厨房に入るのは朝食の時だけですよ。学生は学生らしく、勉学に励むようにしなさい」

 八千流は厳しい口調で言い付けて、今度こそ厨房を後にしたのだった。
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