11 / 50
お手伝い
しおりを挟む
その日の霞は、一日中浮かれていた。しかし鬼灯家に帰って来ると、わたあめのようにふわふわした気分はどこかへ吹き飛んだ。
洗面台で手を洗った後、自分の部屋に戻ろうとしていた時だ。向かい側から女性の使用人が三人歩いて来ていた。会釈をしようとする霞だったが、彼女たちはその場に留まり小声で立ち話を始めたのである。
「あ、あの……」
進路を塞がされてしまい、霞は立ち往生してしまう。
「そこの女ども、道を開けよ。どかぬなら、その足をねじ切って強引に押し退けるぞ」
霞の後ろからやって来た雅が、空のペットボトルを手のひらに載せながら言う。雅の目が青白く光った直後、ペッ
トボトルはゆっくりと捻れていき、やがて真ん中の辺りでブチッと千切れた。
猫又族の念動力によるものだ。
「た、大変失礼しました。霞お嬢様に気付かず、つい」
使用人たちはそう弁明しながら、そそくさと霞たちの横を通り過ぎていった。
「ふんっ、あれが次期当主の許嫁への態度か?」
「え? え?」
「姉上は鈍いのぅ。ありゃ私たちへの嫌がらせじゃ」
そうだったんだ。目を丸くする霞に、雅ははぁーと溜め息をつく。
「猫又族は、昔から何かと鬼族に見下されておるんじゃ。まったく……本来なら私があのような扱いを受けていたかと想うと、虫唾が走る。あやつらめ、後で木に逆さ吊りにでもしてやろうか」
「まあまあ。どいてくれたからいいじゃない。ね?」
これでこの話はおしまい、と締め括ろうとする霞だが、怒りが収まらないのか、雅は鼻息を荒くしている。そしてその矛先を姉に向けた。
「姉上も姉上じゃ。そうやって甘い顔をしていると、鬼どもをますますつけ上がらせることになるぞ」
「そんなこと言われても……」
「ここでは舐められたら終わりぞ。堂々と、毅然とした態度を忘れるな。よいな?」
「う、うん……」
親しい相手以外には強く出られない霞には、難しい課題だ。
「まあ、そう深く考えるなくともよい。猫は猫らしく、自由気ままにやっていればよいということじゃ!」
東條姉妹が鬼灯家を訪れて早一週間。
鬼灯八千流は起床後、手際よく身なりを整えると、読みかけの本を手に取った。早朝の澄んだ空気を肌で感じ、小鳥たちのさえずりを聞きながら読書に耽る。それが八千流のモーニングルーティンだった。
しかしその優雅な一時は、慌ただしくドアを叩く音によって終わりを告げた。
八千流がドアを開けると、そこには厨房の料理人たちが立っていた。一様に困り切った顔をしている。
「朝から騒々しいですよ。一体どうなさったの?」
「た、助けてください、奥様。東條家のお嬢様が……」
東條家の名前が出た途端、八千流は「またか……」と遠い目をした。
取り立てて褒めるところのないような娘が、息子の許嫁になるなんて。それだけでも不満だというのに、一緒についてきた妹はとんでもないじゃじゃ馬だった。口も態度も悪く、いくら素行を咎めてもどこ吹く風。それどころか、「鬼ババ!」と歯向かってくる。この屋敷で、八千流にあのような口の利き方をするのは雅くらいだ。
あの娘、今度は何をやらかしたのやら。
「……雅さんがどうしました? 朝食のおかずでもつまみ食いしましたか?」
「あ、いえ。それが雅お嬢様ではなくて……」
料理人たちを引き連れて、厨房へと向かう。するとそこには、目に優しい緑色のエプロンを身に着けた少女の後ろ姿があった。
「……霞さん。あなた、何をなさっているの?」
「あ、おはようございます、八千流様!」
霞は振り向くと、八千流に向かって恭しく頭を下げた。その後ろで鍋がコンロの火にかけられている。
「おはようございます。……ではなくて、ここで何をなさっているの?」
「はい。朝食の準備のお手伝いをしておりました」
もう一度同じ質問を繰り返せば、霞はにこやかに答えた。
料理人たちの話によると、霞が突然厨房に現れて、勝手に味噌汁を作り始めたそうだ。部屋に戻るようにとやんわり促しても、「お味噌汁はお任せください!」の一点張りで、聞く耳を持とうともしない。困り待てた料理人たちは、八千流に助けを求めたのだった。
「ちょうどお味噌汁が出来上がったところなんです。あの、よろしければ……お口に合うか、味見をしていただけませんか?」
「別に構いませんが……」
八千流は小皿を受け取り、静かに味噌汁を啜った。
……これは。
鰹節と昆布を煮出して取った出汁の旨みと、濃厚でコクのある味噌の味わい。
同じ材料を使っているはずなのに、毎朝飲んでいる味噌汁とは明らかに違う。甘みがあり、柔らかな味に仕上がっている。
「ま、まあ、悪くはありませんね」
八千流は小皿を返しながら、そう答えた。
「よかった……いつものくせでお砂糖を入れちゃったんですけど、気に入っていただけてよかったです」
「砂糖を?」
「うちのお味噌汁の隠し味なんですよ。雅も大好きで、いつもおかわりしてくれるんです」
嬉しそうに語る霞に、八千流はある疑問が浮かんだ。
「あなた、ご実家ではいつも食事の支度をしていたの?」
「はい。小学生の頃から、皆さんのお手伝いをしていました。お味噌汁以外も作れます!」
「あら。でしたら、他の料理も任せてみましょうか」
八千流の言葉に、使用人たちはぎょっと目を丸くした。
「し、しかし奥様、よろしいのですか?」
「足手まといになるようなら追い出して、使えるのであれば存分にこき使っておやりなさい」
霞をちらりと見て、冷ややかな口調で命じる。そして厨房を出ようとする八千流を、後ろから「や、八千流様!」と霞が慌てて呼び止めた。
「何ですか、霞さん」
「あの……これからも、朝ごはんのお手伝いをさせていただいてもよろしいでしょうか?」
霞が恐る恐る尋ねると、料理人たちは「どうしましょう」と八千流に視線を向けた。
料理人の数は十分足りている。こんな娘に手伝わせる必要などない。……ないのだが、先ほど味見した味噌汁の味に、八千流の心は大いに揺れていた。
それにダメだと言ったところで、また勝手に厨房に入って来るだろう。ひょっとしたら、妹以上に人の話を聞かないタイプかもしれない。
「……ひとます、明日の具は茄子と豆腐にしなさい。それが条件です。ただし、学校に遅れそうな時は無理に手伝おうとしないこと。分かりましたね?」
「はい。ありがとうございます、八千流様!」
「ただし、厨房に入るのは朝食の時だけですよ。学生は学生らしく、勉学に励むようにしなさい」
八千流は厳しい口調で言い付けて、今度こそ厨房を後にしたのだった。
洗面台で手を洗った後、自分の部屋に戻ろうとしていた時だ。向かい側から女性の使用人が三人歩いて来ていた。会釈をしようとする霞だったが、彼女たちはその場に留まり小声で立ち話を始めたのである。
「あ、あの……」
進路を塞がされてしまい、霞は立ち往生してしまう。
「そこの女ども、道を開けよ。どかぬなら、その足をねじ切って強引に押し退けるぞ」
霞の後ろからやって来た雅が、空のペットボトルを手のひらに載せながら言う。雅の目が青白く光った直後、ペッ
トボトルはゆっくりと捻れていき、やがて真ん中の辺りでブチッと千切れた。
猫又族の念動力によるものだ。
「た、大変失礼しました。霞お嬢様に気付かず、つい」
使用人たちはそう弁明しながら、そそくさと霞たちの横を通り過ぎていった。
「ふんっ、あれが次期当主の許嫁への態度か?」
「え? え?」
「姉上は鈍いのぅ。ありゃ私たちへの嫌がらせじゃ」
そうだったんだ。目を丸くする霞に、雅ははぁーと溜め息をつく。
「猫又族は、昔から何かと鬼族に見下されておるんじゃ。まったく……本来なら私があのような扱いを受けていたかと想うと、虫唾が走る。あやつらめ、後で木に逆さ吊りにでもしてやろうか」
「まあまあ。どいてくれたからいいじゃない。ね?」
これでこの話はおしまい、と締め括ろうとする霞だが、怒りが収まらないのか、雅は鼻息を荒くしている。そしてその矛先を姉に向けた。
「姉上も姉上じゃ。そうやって甘い顔をしていると、鬼どもをますますつけ上がらせることになるぞ」
「そんなこと言われても……」
「ここでは舐められたら終わりぞ。堂々と、毅然とした態度を忘れるな。よいな?」
「う、うん……」
親しい相手以外には強く出られない霞には、難しい課題だ。
「まあ、そう深く考えるなくともよい。猫は猫らしく、自由気ままにやっていればよいということじゃ!」
東條姉妹が鬼灯家を訪れて早一週間。
鬼灯八千流は起床後、手際よく身なりを整えると、読みかけの本を手に取った。早朝の澄んだ空気を肌で感じ、小鳥たちのさえずりを聞きながら読書に耽る。それが八千流のモーニングルーティンだった。
しかしその優雅な一時は、慌ただしくドアを叩く音によって終わりを告げた。
八千流がドアを開けると、そこには厨房の料理人たちが立っていた。一様に困り切った顔をしている。
「朝から騒々しいですよ。一体どうなさったの?」
「た、助けてください、奥様。東條家のお嬢様が……」
東條家の名前が出た途端、八千流は「またか……」と遠い目をした。
取り立てて褒めるところのないような娘が、息子の許嫁になるなんて。それだけでも不満だというのに、一緒についてきた妹はとんでもないじゃじゃ馬だった。口も態度も悪く、いくら素行を咎めてもどこ吹く風。それどころか、「鬼ババ!」と歯向かってくる。この屋敷で、八千流にあのような口の利き方をするのは雅くらいだ。
あの娘、今度は何をやらかしたのやら。
「……雅さんがどうしました? 朝食のおかずでもつまみ食いしましたか?」
「あ、いえ。それが雅お嬢様ではなくて……」
料理人たちを引き連れて、厨房へと向かう。するとそこには、目に優しい緑色のエプロンを身に着けた少女の後ろ姿があった。
「……霞さん。あなた、何をなさっているの?」
「あ、おはようございます、八千流様!」
霞は振り向くと、八千流に向かって恭しく頭を下げた。その後ろで鍋がコンロの火にかけられている。
「おはようございます。……ではなくて、ここで何をなさっているの?」
「はい。朝食の準備のお手伝いをしておりました」
もう一度同じ質問を繰り返せば、霞はにこやかに答えた。
料理人たちの話によると、霞が突然厨房に現れて、勝手に味噌汁を作り始めたそうだ。部屋に戻るようにとやんわり促しても、「お味噌汁はお任せください!」の一点張りで、聞く耳を持とうともしない。困り待てた料理人たちは、八千流に助けを求めたのだった。
「ちょうどお味噌汁が出来上がったところなんです。あの、よろしければ……お口に合うか、味見をしていただけませんか?」
「別に構いませんが……」
八千流は小皿を受け取り、静かに味噌汁を啜った。
……これは。
鰹節と昆布を煮出して取った出汁の旨みと、濃厚でコクのある味噌の味わい。
同じ材料を使っているはずなのに、毎朝飲んでいる味噌汁とは明らかに違う。甘みがあり、柔らかな味に仕上がっている。
「ま、まあ、悪くはありませんね」
八千流は小皿を返しながら、そう答えた。
「よかった……いつものくせでお砂糖を入れちゃったんですけど、気に入っていただけてよかったです」
「砂糖を?」
「うちのお味噌汁の隠し味なんですよ。雅も大好きで、いつもおかわりしてくれるんです」
嬉しそうに語る霞に、八千流はある疑問が浮かんだ。
「あなた、ご実家ではいつも食事の支度をしていたの?」
「はい。小学生の頃から、皆さんのお手伝いをしていました。お味噌汁以外も作れます!」
「あら。でしたら、他の料理も任せてみましょうか」
八千流の言葉に、使用人たちはぎょっと目を丸くした。
「し、しかし奥様、よろしいのですか?」
「足手まといになるようなら追い出して、使えるのであれば存分にこき使っておやりなさい」
霞をちらりと見て、冷ややかな口調で命じる。そして厨房を出ようとする八千流を、後ろから「や、八千流様!」と霞が慌てて呼び止めた。
「何ですか、霞さん」
「あの……これからも、朝ごはんのお手伝いをさせていただいてもよろしいでしょうか?」
霞が恐る恐る尋ねると、料理人たちは「どうしましょう」と八千流に視線を向けた。
料理人の数は十分足りている。こんな娘に手伝わせる必要などない。……ないのだが、先ほど味見した味噌汁の味に、八千流の心は大いに揺れていた。
それにダメだと言ったところで、また勝手に厨房に入って来るだろう。ひょっとしたら、妹以上に人の話を聞かないタイプかもしれない。
「……ひとます、明日の具は茄子と豆腐にしなさい。それが条件です。ただし、学校に遅れそうな時は無理に手伝おうとしないこと。分かりましたね?」
「はい。ありがとうございます、八千流様!」
「ただし、厨房に入るのは朝食の時だけですよ。学生は学生らしく、勉学に励むようにしなさい」
八千流は厳しい口調で言い付けて、今度こそ厨房を後にしたのだった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
6
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる