少年プリズン

まさみ

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五十九話

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 雨の音が聞こえる。
 風が窓を叩く律動的な音と水滴が地に滴る単調な旋律が二重に奏でられる中、薄暗い部屋の真ん中に立ち竦む。
 広い部屋だ。
 正面の窓のほかは三面の壁すべてが巨大な本棚で塞がれている。天井まで達する威容の本棚には熟成された教養と該博な知識を誇示するかの如く隙間なく蔵書が詰められている。三面の壁を占めた本棚が息苦しい圧迫感を与えてくる薄暗い書斎の中央にただ独り立ち竦んだ僕の足もとにはふたりの人間が倒れている。革張りの椅子を蹴倒して横たわっているのは四十代半ばの男、その隣には眼鏡をかけた同年代の女が。
 部屋の中は蒸し暑かった。
 日本の梅雨は湿度が高い。本棚で圧迫された書斎は換気が十全に機能せず、不快な湿気がこもっている。波状を描いて押し寄せてくる雨の音に聞くともなく身を委ねながら窓の外に転じていた視線を手元に戻す。
 右手が握り締めていたのは装飾用のナイフ。以前父親が海外の大学に招かれたときに当地の知人から贈られたという代物で銀の柄に精緻な細工を象ったかなり凝った造りをしており、指にこたえるような重量感がある。刃渡りは20センチほど、殺傷能力は十分すぎるほどに秘めている。
 このナイフがあったのは机の引き出しの右端、いちばん上。論文や小説、その他文書を作成するときはパソコンに字を入力して出力するのが主流になった現代でも一部の好事家や偏屈な作家はレトロな万年筆を愛用している。樫の書斎机の右端、いちばん上の引き出しには父が愛用している黒い光沢の万年筆とインク壷とともに気まぐれで購入したまま日の目を見ずにいる海外土産がしまわれているがこのナイフも例外ではない。知人の好意で贈られたはいいものも本に埋もれた書斎には飾る場所もなく、いちばん上の引き出しの奥、目立たない薄暗がりにひっそりと秘されていたのだろう。
 僕がこのナイフの存在を知ったのは今日が初めてだ。それまで鍵屋崎優の机にナイフがしまわれているなんて思いもしなかった。床一面に散乱しているのはひっくり返ったインク壷と万年筆、黒い斑点の散った原稿用紙の束。ぶちまけられた引き出しの中身。
 父の背中に覆い被さった原稿用紙に目を凝らす。黒い染みに混じって浮き出た赤い模様は……血痕だ。死体の傷口から染み出した大量の血が床を浸し、まっさらな原稿用紙を赤く染め替えているのだ。 
 その時はじめて、それまで耳に聞こえていた雨音の正体に気付く。ちがう、これは……僕が聴いているのはしとしとと降りしきる雨音などではない。
 血だ。
 ナイフの切っ先から滴った血の雫がぽたぽたと床に落ちてゆく。ナイフを握り締めた手に目を落とす。力を入れすぎたせいで間接が白く強張っているが、手首まで染めているこの赤は―
 「!」
 強張った五指をこじ開けナイフを投げ捨てる。おもいきりなげつけたナイフは床で跳ね、両親の遺体の向こう側に転がった。放心状態から覚醒し、ようやく現実感が芽生えてくる。早鐘を打つ心臓をシャツの上から掴みあらためて遺体を見下ろす。瞳孔が開き、焦点を失い、白い膜が落ち始めた虚ろな目。半開きの唇からは血の気がひき、床板と接した頬は屍蝋の如く青ざめている。
 監察医が死体を検分するような、奇妙に冷めた心地で死体の隅々を観察する。
 手前に伏せた中年男の名は鍵屋崎優、僕の父親だった男だ。注釈をつけくわえるなら「戸籍上の父親」に過ぎない希薄な存在だったが、自分の手で十五年間ともに暮らした父親を葬ったのだからなにかしらの感慨があってもいいはずだ。しかし、時間の経過につれて殺人の興奮がさめてしまえばどこまでも冷静な自分がいた。平常心。どころか、心の片隅では奇妙な安堵感すらおぼえている。
 これで恵を害する存在はこの世にいなくなった。
 男の隣で絶命しているのは目尻にヒステリックな小皺が寄った中年女性だ。床に転倒した衝撃で顔から眼鏡がおちかけている。彼女の名は鍵屋崎由佳里、戸籍上の僕の母親だ。死ぬ間際まで自分が目にしているものが信じられず、恐怖に理性を浸食される間もなく死に至った顔にはただ純粋な驚愕の相だけがある。間接を無理な方向にねじまげられた人形のように不自然に四肢をねじり、床に仰向けた女へと足音を殺して忍び寄る。頭上から女を覗きこむ。後悔とか自責とか、そんな不条理な感情はいっさい湧いてこなかった。僕は僕がやらなければならないことをやっただけだ、それだけだ。
 でも、彼女のことは殺したいほど憎いわけではなかった。
 結果的にこうなってしまったとはいえ、なんともいえない後味の悪さがある。戸籍上の両親に対し、親愛の情を抱いたことは一度もない。両親も両親で、世間一般の親が子供にむけるような平均的な愛情を僕に対して抱いたことは一度もないだろう。新種のモルモットかよくできた作品か、それだけ。僕は彼らにとってそれ以上でも以下でもない存在だった。
 息絶えた女の頭上に屈みこみ、顔の前に手をかざし、そっと瞼を閉じさせる。父には明確な殺意を抱いていたが母にはそれほど強烈な憎悪は抱いてなかった。
 でも、仕方なかった。仕方なかったのだ。なぜなら―
 『おとうさん……?』
 背後で呟かれた声に振り向く。
 か細い声を吐いたのは、書斎の隅に身を寄せていた女の子だった。本棚の影に隠れるように身をひそめていた女の子が、今目撃した光景が信じられないとばかりに目を見開いてこちらを見つめている。 
 『おかあさん』 
 ふらりと足を踏み出し、こちらに歩いてくる女の子。足裏で踏まれた原稿用紙がぐしゃりとつぶれ、白い靴下に血がとぶ。物言わぬタンパク質のカタマリとなった両親を前に慄然と立ち尽くしているのは……
 
 恵。僕が守ろうとした妹。

 『安心しろ、恵』
 恵の肩がびくりと跳ね上がり、おさげが揺れる。
 『もう何も怖くない、お前にとって不要なものは排除した。お前に危害をくわえようとした人間は排除した、だからもう何も怖がること―』
 
 絶叫は言葉の体をなしてなかった。

 追いつめられた獣の喉から迸りでたような血を吐くような叫びが大気を震わせ、書斎の壁にこだまする。
 半狂乱で両親の死体にすがりつく恵、父親の肩を揺さぶり母親の腕にしがみつき懸命にふたりを起こそうと試みるがすべてが無駄だ、無駄でしかない。なぜなら二人はもう死んでいるから、そうだ、僕が殺したんだ恵のために。おさげを振り乱して死体にとりすがった恵あ号泣しながらなにかを叫んでいる。なにを叫んでいるんだ?その言葉に耳を澄まし―
 『なんで!』
 恵が叫ぶ。
 『なんでこんなこと……ひどい、ひどいひどいよおにいちゃん、あんまりだよ。こんなこと頼んでない、頼んでないのに』 
 いやいやするように首を振り、すっかり冷たくなった父親の体に涙にぬれた頬を擦りつける。しかし、父親は生き返らない。心臓を刺されたんだ、どんなに応急処置が早くても助かる見込みは無に等しかっただろう。胸の傷口から流れ出した血はすでに床一面に海を作っている。血の海の真ん中にうずくまった恵は小さな拳で床を叩き、狂ったように吠えている。獣のような声で。

 近寄ろうとした。
 でも、できなかった。

 恵を慰めなければいけない、抱きしめなければならない。両親は死んだが恵には僕がいるんだから大丈夫だと、僕がいつもそばについててやるから大丈夫だと、本当はそう言いたかったのだ。
 でも、はげしくしゃくりあげる恵の肩にのばした手は途中で止まる。
 僕の手は血に汚れていた。
 両親の血を吸った手、人殺しの手。こんな汚い手で触れては服を汚してしまう、と躊躇して立ち竦んだ僕をまえぶれなく振り向き、恵の唇が動く。
 『……に』
 に?  
 恵が何を言おうとしたのか聞き取ろうと身をのりだした僕の背後で慌しい足音が響き、爆ぜるような勢いで書斎の扉が開け放たれる。悲鳴、さらなる足音。
 『なんてことだ、鍵屋崎教授!』
 『息はあるのか?』
 『救急車、いや、もう手遅れだ……警察を!』
 『ああ、奥様まで……どうしてこんなひどい』
 両手で顔を覆った家政婦をおしのけて部屋に入ってきたのは見覚えのある顔の男たちが三人。彼らは父の研究室の助手で、今日は執筆中の論文について父に相談したいと打診していた。そうだ、思い出した。その論文のテーマには僕も関心を持って資料を集めていたから、助手との話し合いの場に同席するよう父に書斎に呼ばれて―
 白衣を羽織った男たちが二人がかりで死体の状況をたしかめ、残るひとりが僕を羽交い締めにする。しっかりしろ、と耳元で叱咤された気がしたがよくわからない。きみがやったのか、きみが鍵屋崎教授を殺したのか?おい、しっかりしろ……聞こえない。僕の視線の先では床に膝をついた白衣の男がふたり、母と父の脈をとって絶望的な顔を見合わせている。
 窓の外でずっと続いていた雨音が、遠くから近づいてきた騒音にかき消される。大音量のサイレンを鳴り響かせて大挙してきたパトカーの赤色灯が窓越しに顔を照らし、床を赤く染める。放心状態で窓辺に突っ立っていた恵の顔が赤色灯のあかりに晧晧と照り映える。
 血の赤。
 ふいに強い力で肩をつかまれ、痛みに顔をしかめる。
 『しっかりしろ、あそこで倒れているのはきみのお父さんとお母さんだろう!?』
 『ちがう』
否定の言葉は思いのほか強く、はげしく。
 『あそこに倒れているのは鍵屋崎優と由佳利だ』
 そういう名前の他人だ。
 背後の研究員が言葉を失う。絶句した研究員の後ろ、長い廊下の奥から響いてきたのは複数の足音。家政婦によって玄関の鍵があけられ門前にパトカーを停めた刑事たちが騒々しく乗りこんできたのだ。鑑識が死体を囲み、気が動転した家政婦と呆然とした研究員、放心状態の恵が一箇所に集められる。
 『鍵屋崎 直くんだね』
 気味悪い猫なで声で名を呼ばれた。振り返る。研究員と立ちかわり、いつのまにか背後に控えていた中年の私服刑事が背広の胸ポケットから黒革の手帳をのぞかせる。
 『あそこに倒れているのはきみの両親の鍵屋崎優と由佳利さん。そうだね』
 『はい』
 正確にはそういう名前の他人だが、この場で逆らうのは得策じゃないと考え、素直に頷く。
 『きみが殺したのかね』
 『はい』
 胸ポケットに手帳を戻しながらの問いに即答する。僕の手は血で汚れている。手だけじゃない、服も足も腕も全部が血に汚れている。ナイフの柄からは僕の指紋が検出されるだろうし言い逃れはできないだろう。するつもりもないが。
 中年刑事が若い刑事に目くばせし、顎をしゃくる。若い刑事がポケットからとりだしたのは銀の光沢の手錠。本物を見るのは初めてだ、せっかくの機会だしよく観察しておこう。こうして見るとずいぶん安っぽい、映画にでてくる偽物とほとんど区別がつかないじゃないか。
 ぼんやりと眺めている前で手錠の輪がはずれ、若い刑事が神妙な面持ちで歩み出る。確認をとるように僕を一瞥して覚悟を決めたか、ごくりと生唾を飲み下す。
 金属の噛み合う音がした。
 『署まで同行してくれるね?』
 薄気味悪い笑顔を浮かべて聞いてきた中年刑事を見上げ、ため息をつく。
 『日本語の使い方がまちがってる。僕が断ろうがどうしようが強制的に署に連行するつもりなら命令形で言うべきだ、被疑者の機嫌をとる必要はない』
 刑事の顔から表面だけの愛想笑いがかき消え、能面のような無表情に切り替わる。
 『じゃあ訂正しよう。私と一緒に来い』
 『はい』
 中年刑事が先行して廊下を歩き、若い刑事が背後を歩いて逃走を防ぐ。ふたりの刑事に前後を挟まれて廊下を歩き、玄関で靴を履き、外にでる。頬に水滴が付着する。降りはだいぶ弱くなったが、まだ雨が続いている。重苦しい曇り空からきりなく降りしきる雨はそれだけでひどく気分を滅入らせる。
 門前で待機していたパトカーの扉がひらく。刑事に挟まれてパトカーに乗り込む間際、最後に恵の顔を見ようと玄関を振り返る。息を飲んでこちらを見守っている研究員と家政婦、その最前列に恵は立ち尽くしていた。
 凝然と見開かれた目、半開きの唇。
 『めぐみー』

 『おにいちゃんが死ねばよかったのに』

 耳を疑った。
 降りしきる雨音に紛れた幻聴かと思った。しかし、そうではない。これは現実の恵の口からでた現実の言葉だ。僕の目の前で動いている唇がなによりの証拠だ。
 雨音が増す。 
 異常なまでの静けさの中、パトカーの頂上に設置された赤色灯だけがあざやかな明かりを投じている。パトカーの赤色灯に顔の半面を照らされながら、泣き笑いに似た表情で恵が呟く。
 『おとうさんとおかあさんの代わりにおにいちゃんがいなくなればよかったのに』
 
 どうして。
 どうしてそんなことを言うんだ?
 
 自分を取り巻く情景から急速に現実感が失せてゆく。白黒フィルムのように色褪せた景色の中、パトカーの赤色灯だけが晧晧と色づいている。僕の手を染めた両親の血と同じ色、僕の服に染み付いた忌まわしい色、人殺しの烙印……拭えない血の赤。
 
 目で恵に訴えかける。どうしてそんなことを言うんだ、僕は恵のためにあのふたりを殺したのに。恵の目に宿っていたのは容赦なく僕を裁く断罪の光と拒絶の意志、そして、なにより痛々しい悲哀の色。
 恵に駆け寄ろうとした。肩をつかまれ食い止められる。振り向く。例の刑事がいた。言い聞かせるように首を振る刑事に理性が音をたてて崩壊する。
 『はなしてくれ!』 
 刑事を突き飛ばして恵に駆け寄ろうとしたが、背後から肩を掴まれ引き戻される。そのままパトカーの後部座席に押しこめられ、バタンとドアが閉じられる。運転席にすべりこんだ若い刑事が頷き、エンジンがかかり車が動き出す。ゆっくりとすべりだしたパトカーの車窓の向こう、重苦しい曇天の下に立ち竦んだ恵の頬を滴り落ちているのは雨だろうか涙だろうか。
 恵、恵、めぐみー……何度も名を呼ぶ。実際に声にだしてたのか心の中でなのか、おそらくその両方だろう。手錠を嵌めた拳でむなしく窓ガラスを叩き続けたが、恵は瞬きひとつしない全くの無反応。
 車窓の彼方に恵が去り、窓ガラスを叩いていた拳からすっと力が抜け落ちる。頭が混乱して考えがまとまらない。なぜ、なぜ、なぜー……疑問符ばかりが膨張して増殖してゆく。別れ際の恵の顔が脳裏にこびりついてはなれない、意志のない人形のように表情が漂白された絶望の顔。
 『仕方ないだろう』
 隣で声がした。
 のろのろと顔をあげる。例の中年刑事が慣れた手つきで背広の胸ポケットを探り、煙草の箱をとりだす。煙草を一本つまみ、ライターで火をつけ、紫煙を吐く。
 『きみは人殺しなんだから妹さんにああ言われても仕方がない』
 紫煙が煙い。気分が悪い。眩暈がする。
 車内に充満しはじめた紫煙を避けてうつむいた僕の耳に聞こえるのはいつ止むとも知れず降り続ける憂鬱な雨音だけ。鼓膜に浸透してくる雨音に身を委ね、目を閉じる。
 目が覚めたら夢であってほしい、そこに恵の笑顔があればそれ以上はなにも望まない。
 それにしてもこの雨はいつ止むんだろう、間断なく降り注ぐ雨、間断なく鼓膜を叩く……

 『おにいちゃんが死ねばよかったのに』
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