少年プリズン

まさみ

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五十八話

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 錆びた夕日が砂漠に沈む。
 強制労働を終えた囚人がバスに飲み込まれてゆく。僕もその他大勢の囚人に紛れてステップをのぼりバスに乗りこみ吊り革を掴んでいたが、頭の中では安田の言葉がぐるぐると回っていた。
 『知らなかったのか』 
 なにを?
 『知らなかったのか』 
 なんのことだ?
 哀れむような呟きが耳にこびりついてはなれない。僕の愚かさを嘆いているようにも聞こえた。恵について安田が知っていて僕が知らないこと、それはなんだ。そんなことが存在するのか。僕は恵の兄なのに、両親が死んだ今は恵を守れる唯一の存在なのに、いや、両親が生存していた頃から恵を守れる人間は世界に僕ひとりしかいなかった。恵は僕がいなきゃなにもできない、僕が守ってやらなきゃなにもできない。内気で引っ込み思案で寂しがり屋でかよわい恵、そんな恵をひとりぼっちでこの世界に放り出すわけにはいかない。
 恵に危害をくわえる人間は僕が許さない、絶対に。だから両親を殺して崩壊寸前の恵の自尊心を保とうとしたのに、なんで僕は今ここにいるんだ。恵と離れ離れになってこんな汗臭いバスの中につめこまれているんだ。
 思考が分裂している。危険な兆候だ。気分は最悪で眩暈がする。吊り革を掴んで吐き気を耐える。足裏に伝わってくるのは断続的なエンジンの震動、車窓を流れるのは変化に乏しい砂丘の連なり。
 視界が突然暗くなった。
 はじかれたように顔をあげる。車窓に闇の帳がおりていた。緩やかな勾配のスロープを下ったバスが地下停留場の闇に吸い込まれたのだ。途方もなく巨大なコンクリの空間を深海魚のように回遊しているのは、それぞれの部署から囚人を乗せて運んできた何十台ものバス。
 不景気なエンジン音が止み、バスがとまる。
 「あー肩がこった」
 「シャツん中に砂が入って気持わりい、飯の前にシャワーだシャワー」
 「ばか言え、シャワーの時間は決まってんだろ。ひとり三分な、あとがつかえてんだよ」
 「三分で体の裏も表もケツの穴も洗えるかよ」
 「おまえの貧相なモンもよーっく洗っといたほうがいいぜ、ブラックワークの売り専に砂かませたら恨まれる」
 下卑た軽口の合間に挟まれるのは品のない哄笑、大口あけて笑いながらステップを降りてゆく囚人に続いて停留場のコンクリ床を踏む。シャツの中にまぎれこんだ砂が肌を擦るざらついた感触が気持ち悪い。一秒でもはやくシャワーを浴びたいが今日は僕の番じゃない、このまま房に帰るしかないだろう。僕も一日二日シャワーを浴びなくてもなんとも思わないここの囚人のように神経が図太くできてればよかったのに。
 囚人服の袖をつまみ、中に入りこんだ砂を落としながら上階の房へと通じるエレベーターの方向に歩いていると酒焼けした濁声が鼓膜を叩く。
 「安田の若造にも困ったもんだ」
 安田の名前に振り向く。
 トイレがあった。
 リュウホウが以前リンチされていたあのトイレだ。聞き覚えのある声だが、だれだったか思い出せない。エレベーターの方角へと流れる波を外れ、吸い寄せられるように廊下を進む。だれだったかは覚えてないが話し声は二人以上、会話中に安田の名前がでてきたということは安田のことについて話しているにちがいない。
 「抜き打ちで視察にくるせいでおちおち飲酒もできねえよ」
 「ビールぐれえ飲まなきゃ砂漠で監視なんてやってらんねえよな、生き地獄だ」
 「気取りやがってむかつくぜ、出世街道はずれたエリートがよ。いくら威張ったところでこんな砂漠のど真ん中の刑務所に左遷されてきた時点でオワリだろうが、所詮は副署長どまりのくせに……」
 「まあ、俺たちヒラの看守は副署長サマサマに媚売んなきゃこれ以上の出世ものぞめねーけどな」
 「アイツこそガキどもに殴り殺されて埋められちまえばいいんだ、幸い墓穴にはことかかねえ」
 ノブに手をかけた時点で止まる。中の人物は小用をたしながら雑談しているらしく、勢いよい水音が響いてくる。会話から察するに中にいるのはイエローワーク担当の看守らしいが、排尿中を覗くのはさすがに抵抗がある。このまま引き返したほうが無難か、という考えが頭をかすめるが理性が命じるところに反して足が動かない。
 安田について、恵について、知りたい。安田の話題に触れたのならひょっとして―
 「そういえば、見たか」
 「なにをだよ」
 「安田のやつ、砂漠で煙草ふかしてたぜ」
 「なんだと!?俺たちには飲酒も喫煙も禁じたくせに自分だけすぱすぱやってたのか、ふてえやろうだ」
 「で、休憩中の安田の隣に座ってたのが例の親殺しだ」
 「親殺し……ああ、例のアレか。くそかわいげねーメガネの」
 「そうそうメガネの」
 「ふたりで何か話してたみてえだけど、なに話してたんだかな」
 「一介の囚人と副署長が仕事中にも関わらずプライベートな会話をねえ…由々しき事態だな、これは。あとでとっちめてやらねえと」
 「どっちをだ?」
 「決まってるだろ」
 気持ちよさそうな水音が止む。ベルトのバックルが擦れるカチャカチャという金属音にくぐもった笑い声がかぶさる。
 「あのガキも馬鹿だよなあ。エリート日本人の親もって裕福な家庭に生まれて何の不自由もなく育っておまけにIQ180の天才児。このままいけば末は学者か大臣か、どっちにしろ出世街道まっしぐらって決まってたのに。なにをわざわざ親を殺してこんなくそったれた刑務所にくるかねえ」
 「動機はわかんねえんだろ」
 「完全黙秘だってよ、取調べん時も強情だったらしい」
 「鍵屋崎っていやナンタラの世界的権威の学者夫妻だろ、事件起きる前から何度も新聞の一面に顔がでてきたぜ。優秀すぎる親に対するコンプレックスとか愛情の欠損における人格の歪みやら世間じゃいろいろ言われてるけど、俺に言わせりゃガキが親殺す理由なんて有史以前からこれに尽きる。頭が狂ってたからだ」
 「かわいそうなのは妹だよなあ」
 「いもうと?」
 恵。心臓が凍る。
 「妹がいたろ。鍵屋崎夫妻の長女で十歳の…名前は忘れちまったけど。兄貴が両親殺して刑務所行きで小学生の身空でひとりぼっちだ」
 「思い出した、妹か。まてよ、後日談知ってるぜ」
 「後日談?」
 「新聞は自制してるけどネットじゃプライバシー無視で垂れ流し状態だからな……言いたい放題書かれてるけど俺が聞いたのはたしかな情報だ。なんせ被害者遺族のPTSDケアにおけるその後の身上調査書が出所だからな」
 「そんなの勝手に覗いていいのかよ」
 水を切る音、あきれたような声。
 「当直の暇潰しに事務局のパソコン端末いじってたらでてきたんだよ」
 心臓が破裂しそうに高鳴り、全身の血が沸騰して駆け巡る。今この中に入れば恵の現在について聞ける、問いただすことができる、安田が伏せた真実を暴くことができる―
 カチャリと金属が噛み合う音を合図に金縛りが解けたときには既に遅く、目の前のドアが開いた。
 「それでその妹は―」
 トイレから出てきたのは不摂生な肥満体の看守だ。脂肪をたっぷりたくわえた下腹を大儀そうに揺らしてでてきた看守、その糸のような目が「ん?」と僕を見つめる。脂肪に埋もれた目をしばたたいた看守がトイレの奥へと声をかける。
 「ネズミがいるぜ、タジマ」
 タジマ―但馬。
 どうりでどこかで聞いた声だと思った。トイレの奥、白亜の便器と向かい合っていたのは囚人間で毛嫌いされている看守の但馬だ。ベルトのバックルをかちゃかちゃ鳴らしながら大股に近づいてきた但馬が同僚をおしのけるように身を乗り出してくる。
 「噂をすれば、だ」
 耳の奥でけたたましく警報が鳴り響く。
 ヤニ臭い歯をむいてにたりと笑ったタジマの腕がこちらに伸び、腕を掴んで中へとひきずりこむ。水で濡れたタイルに足をとられ滑りそうにながら、勢いあまってタジマの腹に激突した僕の背後でため息が聞こえる。
 「ネズミをいたぶるのもほどほどにしとけよ、バレてクビになっても知らねーからな」
 「バレなきゃいいんだよ」
 処置なしと首を振り、面倒に巻き込まれるのを恐れてか足早に立ち去る看守の背中が閉まりゆくドアの向こうに消えバタンと音が響く。
 「サボりの次は盗み聞きか」
 タジマの声が冷える。危険な兆候だ。次に訪れる展開がいやというほど予想できる。
 「仕置きが必要だな」
 分厚い唇の間から黄ばんだ歯が覗き、口臭くさい息が顔に吐きかけられる。タジマの腕をふりほどこうとしたが腕力がちがいすぎる。痣になるほど腕をつかまれ力づくでトイレの個室へとひきずりこまれる。乱暴に扉を閉じ、僕を壁際においつめて後ろ手に施錠したタジマがいやらしく目を光らせる。
 狭い密室にふたりきり。扉はタジマがおさえている、逃げ場はない。
 退路を絶たれた僕はむなしく前後左右を見回すが、四囲は白い板に隔てられている。ドアを超えて逃げようにも背丈が足りない、また、目の前のタジマがそうさせてはくれないだろう。
 自分が窮地に立たされていることは十分すぎるほどわかっていた。わかっていたが、僕の頭の中は全く別のことで占められていた。タジマの会話中にでてきた断片、安田、恵、その後の身上調査。
 「恵は」
 「あん?」
 「恵が今どうしてるか、知ってるんですか」 
 緊張に縮んだ舌を不器用に操り、聞く。背中に密着したタイルのひんやりした温度が伝わり、毛穴から噴き出した汗が瞬く間に冷やされていく。巨体でドアを塞いだタジマはしばらく訝しげな顔をしていたが、「恵」が僕の妹の名だと思い出し、密室での絶対的優位を隠そうともしない笑みを浮かべる。
 「ああ、知ってるよ」
 「教えてください」
 押し殺した声で叫ぶ。すがるように。
 「それがひとにものを頼む態度か?」
 タジマの眉間に反感の皺が刻まれ、腰の警棒に手がのびる。
 「おねがいします」
 警棒で口を殴られて前歯が折れる前に、まだ普通に口がきけるうちに懇願する。僕は必死だった。恵の消息が聞けるなら土下座でもなんでもする、なんでもタジマの命令を聞いて言う通りにする。だから、だから―
 「なんでもするんだな」
 確認するように嬲るように、肉厚の唇を湿らせてタジマがささやく。発情した蛭のように淫猥にうごめく唇から目を逸らし、タイルの床に視線を固定し、喉の奥の苦い塊を吐き出す。
 「なんでもします」
 恵が今どうしてるか知りたい、叔母の家で元気にしてるかどうか、ひとりぼっちで寂しがってないか、それだけでいいから教えてほしい。その為ならなんでもすると決断し、間接が白く強張るほど指を握り締めた僕の肩が強い力で掴まれ、強引に顔を起こされる。
 鼻の先端が接する距離でタジマがのぞきこんでいた。
 「壁に手をつけ」
 息を荒げ、早くも興奮に上気した顔でタジマが命じる。言われるがまま、後ろを向いて壁に手をつく。右の薬指に負担がかからないよう用心して壁に五指をひろげた僕の背中に下腹を密着させてタジマが覆い被さり、見せ付けるようにゆっくりとベルトを外す。ベルトの金具が擦れる金属音が神経に障る。片手でベルトをゆるめにかかりながら、もう一方の手を囚人服の裾にもぐりこませる。ざらついてかわいたてのひらの感触が不快で吐き気がこみあげてくるが、行為中に嘔吐したらタジマを怒らせるのは目に見えている。恵の消息を聞くまでは我慢するしかない。肩甲骨の突起をたしかめるように動いていたてのひらが背骨にそっておりてくる。タジマの性格そのままに無遠慮で厚かましい手つきだ、手に性格がでるというのは本当だったらしい。熱をむさぼるように体の裏表をまさぐっていたてのひらが性感帯をさぐるように前にまわり、鳥肌立った太腿をなでさする。
 「棒きれみてえだ」
 タジマが生唾を飲み下し、火照ったてのひらが蛇腹めいた動きで太腿を這いまわる。
 「ここも」
 太腿に飽きた手が前へと達する。
 「こっちも」
 固く固く目を閉じ瞼の裏側の暗闇に自我を没する。ぼくはなにも感じてないなにも感じてない不感症だからなにも感じるはずがないただ壮絶に気持ちが悪いだけだ今にも自制心が崩壊して理性が蒸発してしまいそうなだけだ。早く早く終わってくれ、早く飽きて教えてくれ、恵がどうしているか叔母の家で元気に暮らしているかどうか僕が知りたいのはそれだけだそれさえわかればこんな頭のいかれた少年愛好者の変態に用はない。
 違う、違うことを考えろ。気を紛らわせ、雑念を散らせ、思考を矯正しろ。そうだ、円周率だ。円周率を唱えて忘れろ、無限に続く数字の羅列の中にかさついた手の感触も肌を這いまわる手の不快感も全部埋めて葬り去ってしまえ。
円周率は3.14159265358979323846 2643383279 5028841971 69399375105820974944 5923078164…………
 「お前の妹な」
 0628620899 8628034825 3421170679 8214808651 3282306647 0938446095 
 「精神病院にいるぞ」
 5058223172……え? 
 「………………なん、」
 粘着質な指づかいも熱く湿った息もはだけたシャツからあらわになった肌にまとわりつくタジマの視線もなにもかも、なにもかもがその瞬間から意味をなさなくなる。
 「そ、だ」
 嘘だ。
 なんで恵が精神病院にいるんだ。
 喉から変な声が漏れた。喘ぎ声?ちがう、これは―喘鳴だ。酸欠状態に陥ったように呼吸を弾ませ、唸る。
 「うそをつくな」
 「嘘じゃねえさ。お前の逮捕後、一度に家族を失ったかわいそうな妹は親戚の家に預けられたんだがそこで情緒不安定になって一切大人としゃべらずに心を閉ざして、もうどうしようもないと判断した親戚の手で仙台の小児精神病棟に―」
 ―「でたらめを言うな!!」―
 絶叫。
 振り向きざまにタジマの襟首を掴む。突然振り向かれて狼狽したタジマが腰砕けによろけて後退、背中からドアに激突して密室が軋む。 「でたらめを言うんじゃないそんなことがあるもんかあるはずがない言い直せ訂正しろ真実を話せ!!」
 「おいやめろやめ押すんじゃねえこらっ、どわっ!?」
 後ろ手で開錠したタジマが濡れたタイルの上に派手に転ぶ、その襟首を鷲掴んで胴にまたがる。
 「そんなはずがない恵は叔母の家にいるはずだ、叔母の家で僕の帰りを待ってるはずだ!」
 「はな、はなひぇ……」
 白濁した泡を噴いて宙を掻いたタジマの襟首をますます握力をこめて締め上げる、その後頭部を何度も何度もタイルの床にぶつける。頭蓋骨がタイルにあたる鈍い音が連続し鼓膜に足音の大群が押し寄せてくる。トイレのドアを蹴破ってなだれこんできた囚人がタイルの床の上で取っ組み合った僕とタジマを目撃して騒然となる。
 「はなひぇって言っひぇんだろう!」
 衝撃。
 軽々と殴り飛ばされ背中からトイレのドアに激突する。亡者のように立ち上がったタジマが痕になった首をさすりながら毒づく。
 「こちとらヤッてる最中に首締められて興奮する変態的な趣味はねえんだよ。ちっ、興醒めだぜ」
 タイルの床に手をつく。光沢のある平面に映しだされたのは眼鏡越しの瞳に絶望を焼き付けた自分の顔。物見高い囚人を荒らしく突き飛ばして出ていきかけたタジマにすがりつくように叫ぶ。
 「嘘だろう」
 嘘だと言ってくれ。
 脳裏を占めるのは恵の顔、無邪気に僕を慕う恵の笑顔。僕がこの世界で唯一心を許した―
 「お前の妹。引き取られた親戚んちじゃだれとも口をきかず部屋に閉じこもって過ごして、一日中こう呟いてたそうだぜ」
 囚人を突き飛ばして憤然と突き進みかけたタジマが痣になった首をさすりつつ、最後の置き土産とばかりに振り返る。

 「おにいちゃんが死ねばよかったのに、ってな」
 『おにいちゃんが死ねばよかったのに!』

 どこかで聞いた台詞だ。
 どこかで聞いた声だ。
 度外れして甲高いタジマの声真似じゃない、これは―……これは、現実の恵の声だ。
 引き離される際に僕へとぶつけられた、恵の最後の言葉。

 思い出した。
 思い出してしまった。

 あの日、恵は泣きながらこう言ったんだ。お父さんとお母さんのかわりにおにいちゃんが死ねばよかったのに、と。
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