殺意の二重奏

木立 花音

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第五章「持たざるものたち」

【七月三十日】

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「それが、千沙さんは面白くなかった」
「そうです。血縁があるかもしれないのに婚約するなんて、正気の沙汰じゃない。もし結婚後に異母兄妹だと判明したらどうするつもりだったのか……。でも、私が本当に許せなかったのは、そこじゃないんです」  
 龍人が、ある日、蓮音にこう語ったのだという。
 ――ごめんな。お前が好きな女に手を出して、婚約までしちゃって、と。
 龍人は、「蓮音が千歳に惹かれたこと」がきっかけで彼女と付き合い始めたのだと、と明かしたのだ。  
 この話を蓮音から聞いたとき、千沙は「やっぱりな」と納得した。龍人は弟である蓮音のことが大好きだったからだ。  
 龍人と蓮音の間には、極端な行動、強迫観念にとらわれやすい性格、自己評価の低さ、相手を支配しようとする傾向――共依存とも言える兆候がはっきりと表れていた。だから、千沙にはすぐにわかった。  
 龍人は悪意のない子どものようなものなのだ。弟が欲しがるものを自分も欲しくなる、そういった単純な心の動きが彼にはあった。
「そこだけは、私とよく似ていたんです」
 千沙は自嘲気味に笑った。  
 その気持ちがどこかわかるだけに、許せなかった。千沙はずっと、龍人を手に入れたいという欲望と、良心との間で葛藤してきた。彼との関係を通じて自分の価値を証明しようと必死だったのに、結局、自分の行動がすべて無意味だったと感じてしまった。
 その結果、極端な行動に走ってしまったのかもしれないな。涼花はそう思った。  
「私、昔は絵を描いていたんですよ。知ってましたか?」
「そうなの?」
「うん。でも、逃げちゃったんです」  
 千沙はかつて、千歳と一緒に絵画教室に通っていたことがある。デッサンなどの基礎から学び、最初に「絵が上手い」と褒められたのは千沙だった。だが、千歳は努力家だった。地道に練習を重ね、一年も経つ頃には小学生とは思えない高いレベルの絵を描けるようになっていた。そして、最終的に認められたのは千歳の絵だった。
「私だって努力をしていたよ。それでも、埋められない才能の差を感じてしまった。姉がどんどん実績を積んでいく中、私は劣等感で教室に行くこともできなくなった。描けない自分の惨めさを隠すために、姉には『絵は飽きた』と嘘を付いて小説を書き始めたの。好きだから書いていたわけじゃない。ださいですよね?」
「ださくなんてない。千沙さんの小説、読ませてもらいましたけど、面白かったですよ」  
「ふふ、ありがとう」  
 そんな経緯があったのに、千歳はもう絵を描いていない。ださいかもしれない。けれど、劣等感に苛まれた千沙の気持ちは、涼花にもよくわかった。千沙はどこか自分に似ている。  
 突出した才能は、時に周りを不幸にするのだ。  
「あのとき、姉が絵を始めなかったら、なんてことばかり考えていた。私は姉のようになりたかった。龍人さんに愛されたかったのも、そのせいなんです」  
 血縁の話が明らかになってから、千歳の様子が少しずつおかしくなった。  
 千沙を露骨に避けるようになり、たまに顔を合わせてもほとんど会話がない。たまりかねて千沙が何か訊ねると、「うるさい! そんなんじゃないって!」と怒鳴るだけだった。「ごめん……」とすぐに謝ってくれるもの千歳の声は弱々しく震え、大きな瞳に涙が浮かんでいた。その光景を、千沙は今でも忘れられない。  
 姉のあまりの変貌ぶりに、千沙は途方に暮れた。あの話をしなければよかったのか、と後悔が募った。  
 家でも千歳の様子はおかしいようだった。龍人のことを避け、話しかけられても無視して逃げるばかり。同じ家に住んでいるのに、まるで赤の他人に対するような態度だったという。  
「それが、二人が別居することになった理由だったんでしょうか?」  
「たぶん、そうだと思います。何かあったの? と訊いても、姉は答えてくれなかったから、ただの憶測ですけど」  
 子どもができないこと。龍人に本当に愛されているのか。さまざまな不安に苛まれ、千歳の心は次第に荒んでいった。それでも、彼女がギリギリ崩れずに済んだのは、蓮音が陰で支えていたからかもしれない、と涼花は考えた。  
「自分の恋人が苦しんでいるのに、龍人は姉に手を差し伸べようとしなかった。別居先で悠々自適に暮らしているだけで、何もしようとしなかった。それが、私は許せなかったんです」  
「それで、龍人に近付いたのね?」  
 涼花の問いに、千沙は頷いた。  
「龍人に連絡したんです。私が書いた小説を、お父さんに読んでもらえないかって」  
 意外にも、龍人は二つ返事で引き受けてくれたのだという。  
「盗作疑惑の件もあって、私はあの人に良い印象なんて持ってませんでしたから。驚きましたよ。意外と仕事熱心な人だったのかなって」  
 入沢祥吾がきちんとしたフィードバックをくれたことも、千沙には意外だった。  
 入沢祥吾は、千歳が自分の子だと本当に知らなかったのか。それとも、知っていたからこそ――いや、やめておこう、と涼花は思う。もう知る術はないのだから。  
「でも、はっきり指摘してもらったおかげで、自分の欠点や限界が見えました。私にはやっぱり才能がないのかもしれない。おそらく文章を書くスキルでも、姉のほうが私より優れてるんでしょう。姉みたいな才能があったら、って何度も思いました。でも、そんなもの、あるわけないんですよね。だって、血統が違うんですから」  
 そう言って、千沙は自虐的に笑った。
「でも、私は必ず結果を出すよ。負けっぱなしなのは、やっぱり悔しいから」  
 毒入りの氷は、千沙が自宅で作った。ドラッグストアでロックアイスを買ったのは、手製の氷をクーラーボックスに入れて怪しまれずに持ち込むためだった。  
 その日は土砂降りだった。傘を持っていなかった千沙はびしょ濡れになり、龍人の部屋で風呂を借りた。風呂上がりに薄着で無防備な姿を見せ、しばらくお雑談のあと彼のそばに身を寄せると、龍人はすぐにその気になった。久しぶりに彼の腕に抱かれ、女としての喜びを思い出した。彼を殺すなら今しかないと思った。  
 今なら、彼の身も心も私の色に染まっている。このまま姉の色に塗り替えられることなく死んでほしい――そう願った。  
「承認欲求に囚われていたのは、私も同じだったんです。殺すために近づいたのに、最後に少しでもいい、愛されたかった、なんて」  
 千沙と龍人には似たところがあるのかもしれない、と涼花は感じた。  
「幸せにできなくてもいい。せめて傷つけないでほしかった。姉を出し抜こうと必死だったあの日の私の気持ちを、踏みにじらないでほしかった。不誠実な彼が、どうしても許せなかったんです」  
「それなのに、死んだのが蓮音さんだったなんて、皮肉ですよね」  
 千沙は自嘲的に笑った。  
 そうですね、とは言えなかった。涼花はしばらく沈黙を置いた。
「千沙さん。今でも龍人のことが好きなんじゃないですか?」
「どうしてそう思うの?」
「七月三十日。千沙さん、龍人の部屋に泊まったんですよね?」
「うん。やっぱりそこまで調べがついているんだね。でも、それが理由?」
「七月三十日は龍人の誕生日です。知ってたんですよね?」  
――俺の誕生日、七月三十日なんだよね。夏休みに入るから、誰も祝ってくれねーの。祝ってよ、涼花。  
 涼花は昔、龍人からそんな愚痴を聞いていたので知っていた。  
 ドライヤーや浴室から千沙の髪の毛が見つかったため、一夜を共にした可能性は最初からあった。だが、それ以上に、龍人への特別な想いがなければ、わざわざこの日を選ぶとは考えにくい。  
「そうですね。そうかもしれない。だからこそ、私は自分の手で彼を殺したかった。どうせ幸せになれないなら、いっそ不幸になりたかった。私には姉と違って、彼と何の問題もなく結婚できる条件が揃っていた。それでも姉に勝てないなんて、惨めじゃないですか。一時期、淡い期待を抱いたこともあったんです。もしかしたら、私を選んでくれるんじゃないかって……」  
「でも、そうじゃなかった」  
「そうだね。結局、彼は姉だけを愛してた」  
「いえ、そうじゃないんです。龍人は、あなたに殺される可能性を、もしかしたら感じていたのかもしれません」  
「どういうこと?」  
「ここからは私の推論です」と前置きして、涼花は話し始めた。  
 千沙は相槌を打ちながら耳を傾けていたが、次第に表情が崩れていく。耐えきれなくなったのか、両手で顔を覆った。指の隙間から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。  
 嗚咽が止まらず、喉の奥から後悔の叫びが漏れ出しそうになるのを、必死に抑えているようだった。  
 涼花は、その涙が美しいと思った。春の陽光に照らされ、固い地表を割って染み出す雪解け水のように、純粋で透き通っていた。  
 それは、確かな愛に触れた者にしか流せない涙だった。  
 戸部千沙は入沢蓮音殺害の容疑を全面的に認めた。証拠は完全とは言えなかったが、事件前後の状況と本人の供述に矛盾はなく、彼女は殺人罪で起訴された。これにより、拘留期限が迫っていた入沢龍人の不起訴が確定。同日、彼は釈放された。  
 一ヶ月余りにわたる事件の捜査は、こうして終結した。  
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